- ジャンル:哲学・思想・宗教
- 著者/編者: キャーティプ・チェレビー
- 評者: 小笠原弘幸
真理の天秤
キャーティプ・チェレビー著
小笠原 弘幸
かつてイスラム世界では、西洋をしのぐ思想や科学が発展した、と聞いたことのある方は多いのではないだろうか。九世紀、当時イスラム世界の盟主であったアッバース朝は首都バグダードに「知恵の館」を設置し、古代ギリシアの学問をギリシア語からアラビア語へと翻訳させた。それをもとにイスラム世界では、哲学や神学、さらには医学や天文学などが花開いたのである。そしてその知識は、スペインを通じて西洋にもたらされ、西洋が学問を発展させる契機をつくった。
このように、中世イスラム世界における学問は、高く評価されている。しかしその後のイスラム世界は、迷信と迷妄にとらわれ合理的思考を失い、衰退の一途をたどる、と一般に語られる。その象徴のひとつが、一七世紀前半のオスマン帝国で台頭したカドゥザーデ派である。彼らは、預言者ムハンマドの時代に戻ることを理想とし、当時のさまざまな慣行を「逸脱」だと非難した。たとえば、歌舞音曲、聖人廟への参詣、たばこやコーヒーなどである。彼らはもともと低位のウラマー(イスラム知識人)からなっていたが、モスクでの説教を通じて民衆の心を摑み、おおきな勢力となった。過度に厳格な信仰を唱えた彼らを、いわゆる「イスラム原理主義」の先駆とする研究者もいる。彼らが示す無知と迷妄に支配されたオスマン帝国は、合理的な判断と活力を失い、軍事改革を経た西洋に侵略される「瀕死の病人」となっていった、と語られることもある。
このような史観には、一定の妥当性がある。たしかに近世、オスマン帝国を代表とするムスリム諸国が、西洋に匹敵する科学革命を起こせなかったのは事実だからだ。しかしそれは、西洋のような急速な変化でなくとも、その地域なりの合理主義や論理的思考が、着実に発展していったことを否定するものではない(これは、日本を含む東アジアやその他の地域も同様であろう)。一七世紀のオスマン帝国を生きた大知識人キャーティプ・チェレビーが著した本書『真理の天秤』は、信仰を守りつつも過激な原理主義を避ける合理的な考え方が、当時のオスマン帝国で育っていたことを如実に示している。
キャーティプ・チェレビーは、たぐいまれなる知識と教養を持ち、いくつもの著作をものしながらも、一介の書記官として生涯を送った。代表作としては、現在の研究者も今なお利用する文献百科『疑念の解消』、政治批判と改革を提言する『行動指針』、世界各地を地図とともに解説した『世界の鏡』が挙げられよう。そして『真理の天秤』は、信仰や慣例について二一のトピックを取り上げ、その評価や妥当性を論じた小品である。堅苦しい論文集ではなく、よみやすいショート・エッセイ集といった趣だ。取り上げるテーマは、歌唱、コーヒー、握手やお辞儀のような、現代の私たちにとっても興味をそそるものが多い。著者は、これらをひとつずつ論評したうえで、では我々はどうすべきかを説く。そのいずれにも通底するのが、バランスの取れた中庸の精神である。
ひとつ例を挙げよう。アメリカ原産のたばこは、一七世紀初頭にはオスマン帝国に伝わり、あっというまに広まった。その健康への悪影響はすぐに認識されたし、預言者ムハンマドの時代に存在しなかったため、カドゥザーデ派のみならず、多くのウラマーがこれを否定した。しかしその常習性から喫煙の習慣はなかなか改まらず、社会的軋轢を引き起こしていた。こうした事態に、キャーティプ・チェレビーはどう判断したのか? 彼は、喫煙を批判するウラマーの意見を紹介し、イスラム法に照らし禁じられるのは適切である、と認める。さらには、おおっぴらにたばこを吸う中毒者は罰せられるべきである、とも。しかしその一方で、自宅で嗜む分には問題ないとし、これに統治者が介入するのはやりすぎである、と留保を付ける。そのうえで、たばこ葉の売買を政府の専売にして財源とするのがふさわしい、と提言した。すなわち彼の主張は、厳密な宗教判断としては禁じられるべきだが、現実として根絶が難しい以上、私的な利用は認めたうえで、政府の利益になるようにコントロールすべきだという、実現可能かつ実質的な見解である。これが、まさしく現代の国ぐにが採用している方法とほぼ同じであることに、驚きを禁じえない。
過激な主張に与せず、節度ある信仰と合理的な精神を示すオスマン知識人の著作に、日本語で触れる機会が与えられたことに感謝したい。翻訳は読みやすく、解説は読者の理解を助ける。蛇足になるが、解説では『世界の鏡』中の日本についての記述が紹介されている。私たちとは縁遠い一七世紀のオスマン知識人が、日本をよく理解していたということは興味深い。お返しに私たちも、本書を通じてオスマン帝国についての適切な知識を身に着けることにしよう。(山本直輝・西田今日子訳)(おがさわら・ひろゆき=九州大学大学院准教授・オスマン帝国史・トルコ共和国史)
★キャーティプ・チェレビー(一六〇九―一六五七)=オスマン朝の文人。イスラームと世俗学問について研究し、書誌学、歴史学、地理学などに重要な著作を残した。
書籍
書籍名 | 真理の天秤 |
ISBN13 | 9784787724199 |
ISBN10 | 4787724193 |