- ジャンル:歴史
- 著者/編者: ヨッヘン・ヘルベック
- 評者: 藤原克美
スターリングラード攻防戦は、第二次世界大戦のなかでも最も激しい戦いの一つであり、独ソ戦の趨勢の転換点となった戦いとしても広く知られている。指導者スターリンの名を冠するこの街は、ソ連にとって死守しなければならない重要拠点であり、1942年8月頃から1943年2月2日までの約半年間、熾烈な戦いが繰り広げられた。
第二次世界大戦に関しては既に多数の出版物が存在するが、近年も新たに利用可能となった資料を用いた研究成果が精力的に発表されており、評者も本書とほぼ同じ時期(原書は2012年)に出版された『女たちの独ソ戦』(R・D・マークウィック、Yu・C・カルドナ著)の翻訳に携わった。
本書はソ連の人びとをドイツ人との戦いに駆り立てた「動機」に焦点をあてたものである。著者のヨッヘン・ヘルベックは、ドイツ出身で、現在は米国ラトガーズ大学歴史学部教授である。本書は2012年に出されたドイツ語版を参照しつつ、2015年に加筆修正して出版されたロシア語版から訳出されているが、以下に見るように原史料がロシア語であることからそれは最も適切なかたちであるだろう。日本語で500頁にも及ぶ大著を翻訳された二人の訳者の献身にも敬意を表したい。
本書は五章からなる。
第一章「史料解題」は、本書の元となる「史料」の説明である。その大半は、歴史家イサーク・ミンツの発案によって1941年12月に設立された「モスクワ防衛年代記作成委員会」のメンバー4人が1943年の1~3月にスターリングラードで聞き取った130件の証言である。同一の師団、連隊、中隊で何人もの人にインタビューを行い、それを繫ぎ合わせて全体像を描く手法によって、「戦いのありさまを最大限の立体感できめ細かく描くこと」(87頁)を目指した。このように、原史料の特徴は、それが収集された時期の早さと、その声の多様性にある。
第二章「兵士の合唱」では、上記の委員会の精神を受け継いだかたちで、多くの証言を時系列で繫ぎ合わせながら、街の様子からドイツ軍の司令官パウルス元帥の捕獲までの状況を描く。各将兵が一人称で語る回想は、当時の状況と人々の感情を生き生きと伝えている。さらに、作家であり従軍記者としても有名なヴァシーリー・グロスマンの「主力の進路」(1942年11月25日『赤い星』掲載)の再掲によって、「渾然一体の兵士の合唱」(28頁)を補強している。
第三章「九人の語る戦争」では、第六二軍司令官のヴァシーリー・チュイコフから狙撃手、赤軍兵士など9人の証言をとりあげる。例えば、チュイコフは戦後に多くの回想録を出版しているが、1943年1月という未だ戦闘が続くなかで行われた本書の聞き取りでは、「連隊長とコミッサールが連隊を捨てて逃亡した。わたしはすぐさま全軍の前で二人を銃殺した。」(275頁)といった率直な語りもそのまま記録されている。
第四章「ドイツ人の語り」は、ドイツ人捕虜の証言および兵士の日記である。第三章の最後に宣伝工作員の証言があるが、本章では、ソ連軍捕虜がドイツ側に送り返された際の様子や、投降を促すためのビラに対するドイツ兵の受け止めについて知ることができる。また、頻繁な窃盗や、空腹を訴えるドイツ兵の「精神の荒廃」や、「自身の行動について何ら偉大な目標を口にでき」ないドイツ将校のありさまは、ソ連側では自国の政治教育の優位を示すものであった。
終章となる第五章のタイトル「戦争と平和」は、言うまでもなくトルストイの長編小説を意識したものである。まず戦後ソ連の独ソ戦に対する解釈を歴史的に振り返る。特に「ソ連のトルストイ」候補であったグロスマンと、本書の証言収集を主導したミンツの、スターリン崇拝の嵐を潜り抜けた運命は興味深い。ミンツは三巻本の『大十月革命史』を執筆したソ連史の大家であるが、1949年頃には科学アカデミー歴史研究所およびモスクワ大学を追われていた。その後ミンツは、スターリン死後に復権するが、ある時、ソ連国防省文書館がインタビュー記録の所在を調べようとしていることを知った。その資料の運命に危機感を抱いた彼は、最初は科学アカデミーの保養所の地下室に、のちに歴史研究所の地下室にこれらを運びこんだという(422―423頁)。もし国防省の手に渡っていれば今日このような形での出版は不可能であっただろう。
本書のテーマであるソ連兵の動機について考えよう。英国の歴史家アントニー・ビーヴァーは、NKVD(内務人民委員部)による処刑に着目し、その強制性を強調する。同じく英国の歴史家キャサリン・メリデールは、「戦争とは苦しみと騒然たる暴力の場にすぎない」という信念から、公式の戦争観を繰り返す人々を「だまされた犠牲者」だと見做した(25―26頁)。それに対してヘルベックは「一歩も退くな!」と命じた国防人民委員指令227号が実際の処刑の数以上の効果を発揮したことを認めはするものの、特に「幼少期からソ連式の教育を受けてきた世代」(74頁)における「自己教化」(兵士の国家や指導者の価値観との一体化)に注目する。また、彼はその際、「共産党が絶大な存在感を示し、兵士のイデオロギー教化に」寄与したと考えている(27頁)。とはいえ、戦時に具体的に訴えかけられたのは「祖国への愛と敵への嫌悪」(30頁)であった。確かに本書は、多くの兵士がイデオロギーを内面化し、自発的に、時に無謀とも思われる勇敢さで戦った様子を描いている。しかし、愛国主義や敵への憎悪は、戦時においてはあらゆる国民が抱きうる感情である。また、太平洋戦争時の日本軍においても敵前逃亡はそれほど多くは発生していない。したがって、こうした兵士の行動の原動力を、どこまで共産党による高い政治意識の涵養に求めるかという点は、更に多面的な検討が必要だと評者は考える。
訳者が「あとがき」で述べているように、勝者であるソ連では、「共産主義へ愛国主義が接ぎ木」され、ロシア・ナショナリズムの浸透を受け入れながら、第二次世界大戦の精神が長く引き継がれた(440頁)。本書をこのような視点から読めば、ロシア人以外の貢献を無視してソ連時代の大祖国戦争を何の疑問もなく「ロシアの戦争」とみなすロシアの現状も頷けるだろう。
最後に、本書はスターリングラード攻防戦を個々人の声を繫ぎ合わせて構成した、いわば大河ドラマ的な本であり、心を揺さぶられるエピソードも多い。戦争という重いテーマを扱った専門書ではあるが、是非多くの人に手に取って頂きたい。(半谷史郎・小野寺拓也訳)(ふじわら・かつみ=大阪大学大学院人文学研究科教授・ロシア・ソビエト経済論)
★ヨッヘン・ヘルベック=ドイツの歴史学者・スラブ学者。米ラトガース大学特別教授。ソ連における人々の個人史を研究。一九六六年生。
書籍
書籍名 | 史録 スターリングラード |
ISBN13 | 9784409511039 |
ISBN10 | 4409511033 |