2026/10/02号 7面

滅びゆく惑星で 21 (増田俊也)

滅びゆく惑星で 第21回 増田俊也   学校の教科書の歴史を見て、平安時代も江戸時代も過渡期だと思って少年時代・青年時代を過ごしていた。いずれ「現代」へ至るための途中の時代である。そうとわかっているから、安心して歴史絵巻として読めた。応仁の乱で都が焼けようと、飢饉で人が野に倒れようと、それはやがて豊かな現代へと着地する物語の一場面にすぎなかった。  これまでの昭和、平成、令和、あるいは20世紀というのも、過渡期だった。ではこれから訪れるのは成熟した世紀になるのか。これは違うだろう。20世紀が過渡期だったのなら、21世紀も、30世紀も、40世紀も、やはり過渡期なのである。「完成された現代」などというものは、どこまで行ってもありはしない。人間はいつまでも途中に立ちつづける。このことを、いまいちばん露骨に突きつけてくるのが気候である。  世界の平均気温は、産業革命前と比べて2024年についにプラス1・5度を超えた。国連の気象機関によれば、その年の上昇幅は1・55度。翌2025年も史上3番目に暑く、3年平均でとうとう1・5度を突破したという。パリ協定が「努力目標」として掲げた、あの象徴的な一線である。締結時の予測より10年以上早く、2020年代の末にはこの目標は破られる可能性が高いと科学者たちは言う。  それでも各国は、2050年までにカーボンニュートラルを唱えつづけている。私はこの種のニュースに触れるたび違和感を覚える。「2050年」という到達点の置き方が、あまりに整いすぎている。まるでその年に、たどり着くべき「完成された現代」が待っているかのようである。  だが、気候に完成した状態などない。氷河が大陸を覆った時代も、恐竜が闊歩した温暖な時代も、地球にとっては等価な、途中の一場面にすぎなかった。いま私たちが「正常」と呼んで戻そうとしている気温は、たかだか産業革命前という、ごく最近の一点にすぎない。何百万年の尺度で見れば、たまたま人間に都合のよかった一瞬の目盛りである。  現に、その「目標」からして揺らぎはじめている。国連の後ろ盾を得た資産運用会社の脱炭素連合は、2026年の再出発にあたって、2050年目標の義務づけをあっさり外した。大手金融が次々に抜けたからである。確固たる終着点のように語られていた数字が、政治と市場の風向きひとつで輪郭を失っていく。  だから対策など無駄だ、と言いたいのではない。目盛りが人間の都合であっても、その内側でしか私たちは生きられない。だが忘れてはならない。2050年の向こうにも、静止した楽園はない。あるのはまた次の過渡期であり、その次の過渡期である。教科書の少年が信じていた「いずれ至る現代」は、どこにも存在しなかった。(ますだ・としなり=小説家)