ロシア宇宙主義全史
乗松 亨平著
木澤 佐登志
近代の運動は、世界を果てしなく拡張していこうとする衝動と、同時に、拡張し続けるものを制度・規格・境界によって有限に区切り確定しようとする意志との緊張関係から生まれる。無限を志向するオブセッションと、広がりすぎるものに輪郭を与えて「ここまで」と定めようとする意志――この二つの矛盾した傾向性は、そのまま近代的個人にも当てはまる。
一言でいえば、そこでの個人は、際限なき欲望を理性が画定する有限性によって抑制する、カント的主体として現れる。物自体はどれだけ手を伸ばしても届かない無限遠点に置かれ、理性を裁判官とする法廷が個人の内側に打ち立てられる。それはフーコーのいう規律訓練型権力と取り結びながら、「有限の存在」としての近代的個人を訓育していく。
この近代主義によってもたらされた「有限性」を、足に括り付けられた「鎖」として認識すること。そしてこの「鎖」の破壊を目指すこと。このような姿勢がポストモダニズムに含まれるのか、それともモダニズムの脱抑制化という意味においてハイパーモダニズムと呼ぶべきなのか、さしあたりどうでもよい。
たとえば、思弁的実在論のキープレイヤーとして数えられることも多いレイ・ブラシエ。彼は自身が提唱するプロメテウス主義を、「私たちに成し遂げられること、あるいは私たち自身や世界を変容させるさまざまな方法に、あらかじめ定められた限界があると考える理由はどこにもない、という主張にすぎない」と要約してみせる。しかしもちろん、こうした主張は、神学的道徳やカント的な理性の法廷から「危険な思い上がりだ」とそろって非難されることになる。プロメテウス主義の罪、それは「近代」が己に課していた限界=境界を侵犯しようとする罪に他ならない。
アーレントを援用するジャン=ピエール・デュピュイによれば、人間の条件とは「与えられたもの」と「作られるもの」が不可分に混ざりあったものである。ここでの「与えられたもの」とは、一言でいえば、あらゆる生成行為に先立つか、もしくはそれを超えて人間の実践能力や認識能力を制約するものとしてある。言い換えれば、存在論的な「超越性」という限界=境界こそが人間の有限性の根幹にある。加速主義とも通底するプロメテウス主義は、この「与えられたもの」と「作られるもの」のあいだにある危うい均衡を積極的に破壊し、「与えられたもの」をも「作られるもの」に転じてしまおうと試みるという点で、極めて反カント/反ハイデガー的な唯物論プロジェクトとして現れる。
同様の試みは(本書でも扱われる)トランスヒューマニズムについても言える。哲学者のニック・ボストロムは、“What Is Transhumanism?”という文章のなかで、「人間の条件」は本質的に変えられないし、これからも基本的に変わらないという前提を疑い、人間本性そのものを現在および未来のテクノロジーによって書き換えることを支持する思想的立場をトランスヒューマニズムと定義した。
トランスヒューマニズムは、近年におけるテクノロジーやAIの長足の進歩により、今や(一部であれ)現実化しつつある。しかし、そこには「与えられたもの」と「作られるもの」の危うい均衡に対する侵犯の衝動が根底にある。
本書で詳述されるロシア宇宙主義もまた、そうした「侵犯」のひとつのかたち、それも一九世紀後半のロシアという、西欧とは異なる場所から生まれた「侵犯」のかたちと見なせる。ゆえに、西欧近代への必然的な批判を土壌にして生まれたロシア宇宙主義が、西欧近代という他者との関係のうちでどのように形成されていったのか、また西欧からの隔たりが翻って現代のグローバルな世界情勢(たとえばロシアによるウクライナ侵攻=侵犯)にどのようなフィードバックを与えているのか、これらが本書における眼目のひとつとなる。
大雑把に言えば、トランスヒューマニズムに象徴される西欧型の「侵犯」が、シリコンバレーのテックエリートが信奉するイデオロギーとして個人主義化していったのに対して、ロシア宇宙主義はコミュニズムとも共振しながら集団主義(=個と全体の有機的調和)を目指す。ロシア宇宙主義のゴッドファーザー、フョードロフはかつて生まれたすべての人間の文字通りの意味における物理的復活(!)を希求していた。荒廃した地球や老いた身体を見限った一握りのテックビリオネアが、「取り残されるその他大勢」を尻目に地球や身体から脱出していくのとは根本的に異なるヴィジョンが確かにここにはある。
もちろん、集団主義は(現在のロシアを見ても明らかなように)容易に全体主義やナショナリズムに近づく。著者はそのような危うさを冷静に直視しつつも、ロシア宇宙主義における「よい」面と「悪い」面が分かちがたく合わさった、その複雑な肌理に目を向けるよう促す。そこから、私たちが選び取らなかった、しかしあり得たかもしれないもうひとつの「近代」が亡霊のように立ち現れてくる。(きざわ・さとし=文筆家)
★のりまつ・きょうへい=東京大学大学院総合文化研究科教授・ロシア文学、思想。著書に『ロシアあるいは対立の亡霊「第二世界」のポストモダン』『リアリズムの条件 ロシア近代文学の成立と植民地表象』、訳書にボリス・グロイス編『ロシア宇宙主義』(監訳)など。一九七五年生。
書籍
| 書籍名 | ロシア宇宙主義全史 |
| ISBN13 | 9784065423301 |
| ISBN10 | 4065423309 |
