西洋史
鈴木 楠緒子
本年は「戦後80年」となるが、2020年代に入ってから、20世紀の総力戦の反省を経て共有されてきたはずの諸価値の揺らぎを目にする機会が増え、困惑している読者も少なくないのではないか。本年はこうした情勢を反映した業績が目立った。
佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代 世界右傾化の正体』(有志舎)は、ヨーロッパと中東の境目になったバルカンに軸を置き、極右の世界的なネットワーク化の過程に迫る。セルビア民族主義の意外な影響など、オスマン帝国領時代も含むバルカンの近現代史を専門とする著者ならではの分析の鋭さが光る作品である。
中澤達哉責任編集・歴史学研究会編『「主権国家」再考 近代を読み替える』(岩波書店)は、国家間の関係でしばしば争点となる「主権」概念を歴史の中であらためて見直し、従来の単一不可分の「主権」像とは異なる、地域・時代ごとに多様な姿を示した刺激的な論集である。大清水裕『ローマ帝国とアフリカ カルタゴ滅亡からイスラーム台頭までの800年史』(中公新書)、及び澤田典子『古代マケドニア全史 フィリッポスとアレクサンドロスの王国』(講談社選書メチエ)も、視野を広げてくれる。後者は19世紀以来同時代のバルカンの国際政治と絡み合って研究されてきた古代マケドニア王国についての本邦初の通史でもある。
鶴見太郎『ユダヤ人の歴史 古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中公新書)は、西洋史研究においても重要な位置を与えられてきたユダヤ人の歴史を、五大陸を舞台に3000年の壮大なスケールで描く。アメリカ・ユダヤ史の個別研究として、村岡美奈『ジェイコブ・H・シフ 日本を支持したユダヤ系銀行家の軌跡』(春風社)も興味深い。
世界各国で活発化する「記憶の政治」に関しては、高橋秀寿『ナチ時代のドイツ国民も「犠牲者」だったのか 犠牲者の歴史政治学』(白水社)、橋本伸也『記憶の戦争 「ホロコースト」の呪縛と現代的危機』(名古屋大学出版会)に加え、ロシアについての本格的な実証研究である西山美久『現代ロシアの歴史認識論争 「大祖国戦争史観」をめぐるプーチン政権の思惑』(慶應義塾大学出版会)を得た。記憶の表象及びパブリック・ヒストリーの分野では、安川晴基『想起のトポグラフィーホロコーストの記憶と空間実践』(岩波書店)が、再統一後のベルリンを舞台に、戦後は表面から消されていたナチズムの記憶を可視化していく取り組みを、「想起の文化」をめぐる西ドイツ時代からの論争の歴史も踏まえて論じる。各国の比較では、佐々木真ほか編『戦争を展示する 戦争博物館の過去・現在・未来』(大月書店)も参考になる。また、戦勝国とはいえインドシナでは長く日本と協力関係にあったフランスによる、戦後の日本人戦犯裁判への関わりを跡づけた、難波ちづる『日本人戦犯裁判とフランス インドシナ・サイゴン裁判・東京裁判をめぐる攻防』(慶應義塾大学出版会)も、類書が存在しない中、貴重である。
服部春彦『フランス革命と絵画 イギリスへ流出したコレクション』(昭和堂)は、国境を越えた美術品の移動に注目してフランス革命の文化的インパクトを論じる意欲的な試みである。伊東剛史『近代イギリスの動物史 歴史学のアニマル・ターン』(名古屋大学出版会)は、動物虐待防止の法制化等、動物に対する人間の向き合い方の変化からイギリスの近代史を辿り直す。動物に対するものも含め、様々な「感情」も歴史の産物として扱う「感情史」の入門書としては、あらたにトマス・ディクソン『感情史 歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社)も得た。
最後に山内進ほか編『よくわかる西洋法制史』(ミネルヴァ書房)を挙げたい。混迷を深める今日、現代世界を支える諸制度の根源にある西洋法の歴史についての入門書の新版が刊行されたことを喜びたい。(すずき・なおこ=文部科学省初等中等教育局教科書調査官・ドイツ近現代史)
