2026/08/28号 4面

命を選ぶ

命を選ぶ 下山 進著 飯塚 理恵  本書は、遺伝性疾患のための着床前遺伝学的検査(以下、PGT―M)をめぐる問題をテーマにしている。日本では長年、PGT―Mの対象となる「重篤な疾患」が、成人に達する前に日常生活が著しく損なわれたり、生命が脅かされたりする遺伝性疾患として狭く解釈されてきた。制度運用を担ってきた公益社団法人日本産科婦人科学会(以下、日産婦)に対して、顔や名前を公にして変更を迫った網膜芽細胞腫(以下、RB)の勇気ある患者たちの物語を中心に、著者の下山進が関係者への取材を通じて、2022年の日産婦のルール変更に至るまでの歩みを描いている。生殖技術が身近になる中で、日本では約30年間PGT―Mという技術が多くの遺伝性疾患の当事者に閉ざされてきた。本書は、当事者がこうした技術の制度形成に参加するための一歩を記録した本である。  ノンフィクションであっても、物語を紡ぐ著者は完全に中立ではありえない。本書で下山はRBの患者たちに肩入れしている。しかし、PGT―Mが障害者差別や優生思想と強く結び付けて論じられてきた日本の特殊な状況において、これまで公的な議論の場で可視化されてこなかった、PGT―Mを希望する当事者の苦悩を仔細に伝えることに、本書のノンフィクションとしての価値がある。現在もPGT―Mの適用は国際的に見て限定的である。また日本では遺伝性疾患の当事者に対するPGT―Mの情報提供が制度的に保障されていないため、技術の存在を知る機会さえ得られない人も少なくない。  この書評を書いているわたしも、成人期に発症する遺伝性のがんの当事者である。乳がんや卵巣がんを若年で高い確率で発症する遺伝病(HBOC)のわたしは、自身のがん治療の前に凍結した受精卵に対してPGT―Mをしようと調べたとき、本書の主人公であるRBの患者たちと同様に、日本独自の「重篤な病」の厳しい制約に直面した。私自身は海外で検査を受けたが、高額な費用を要した。PGT―Mの選択可能性には、経済力や情報収集能力による格差があることを、本書を読み、改めて考えさせられた。  わたしは遺伝性疾患の当事者というだけでなく、大学で倫理学を教える研究者でもある。本書で紹介されるPGT―Mをめぐる議論には、現代の生命倫理学や障害学の発展が十分に反映されていないと感じられた。今日では、医療技術を全面的に肯定・否定する二項対立ではなく、当事者の選択を尊重しながら、その選択が健常者主義的価値観や技術を利用すべきという社会的圧力によって歪められないための条件を考察する議論が蓄積されはじめている。  確かに、障害者が経験する困難を社会的障壁ではなく、個人の身体だけに還元する医療モデルには批判的な姿勢が必要である。しかし、障害を持つ人の中にも自身のウェルビーイングのために医学的・技術的介入を必要とする人がいる。どのような技術をどの程度受容するかには、個人の置かれた状況や価値観が反映される。障害の社会モデルだけでは障害を持つ人々の多様な経験を捉えきれない場合もある。近年の議論では、遺伝学に内在する構造的健常者主義を批判しつつ、医学的介入や個人の権利を否定せず、障害者が研究や制度形成に参加し、遺伝学を再構成する必要性が説かれる(Mintz et al., 2024)。また、障害者を技術の受動的な利用者ではなく、技術を改変し、技術使用を通じてより公正な世界をつくる主体と捉え直すクリップ・テクノサイエンスという運動も注目を集める(Hamraie & Fritsch, 2019)。現代の障害学は、科学・医療技術の単純な拒絶ではなく、技術との関係を通じた新たなエンパワーメントの可能性を模索しているのである。  本書を契機として、日本のPGT―Mをめぐる議論も固定的な二項対立を脱し、生殖技術を利用する当事者の十分な支援のあり方の検討や、健常者主義に陥らない科学技術使用の可能性を問うような、協働的な営みに変容していくべきではないだろうか。(いいづか・りえ=大阪大学講師・哲学・倫理学)  【参考文献】  Hamraie, A., & Fritsch, K.(2019) Crip technoscience manifesto. Catalyst: Feminism, Theory, Technoscience, 5(1), 1–33.  Mintz, K. T., Stramondo, J. A., & Tabor, H. K. (2024). Nothing about us without us in precision medicine: A call to reframe disability difference in genetics and genomics. Hastings Center Report, 54(S2). S41–S48.  ★しもやま・すすむ=ノンフィクション作家。著書に『がん征服』など。

書籍

書籍名 命を選ぶ
ISBN13 9784396618698
ISBN10 4396618697