2025/10/31号 6面

シュリック教授殺害事件

シュリック教授殺害事件 デイヴィッド・エドモンズ著 小林 雅博  本書は、思想史のなかでも最も興味深い変遷をたどった学派のひとつであるウィーン学団の栄枯盛衰、その哲学的ドラマを、シュリック、ノイラート、カルナップ、ゲーデルなどのウィーン学団の個性的な面々、そして学団の関係者であったアインシュタイン、ラッセル、ポパー、そしてウィトゲンシュタインといった錚々たる哲学者たちとの星座において、魅惑的に叙述した好著である。  「何千年にもわたる形而上学と神学の残滓を取り除く」(一八〇頁)。この強烈なアーギュメントをマニュフェストとして掲げた哲学的集団の基本方針は、「科学を形而上学から解放すること」(一八三頁)であった。彼らは、経験主義と新しい論理学に基礎づけられた「哲学こそが科学の方法や推論を明晰化することができる」(五九頁)と考えた。  「この学団の大半がユダヤ人であるか、ユダヤ人との混血だった」(二二四頁)という事実を踏まえると、「何千年にもわたる形而上学と神学の残滓を取り除く」という彼らのマニュフェストは、自らの宗教的民族的出自とその呪縛に対する強烈な批判とそこから完全に解放されていること(世俗化)の表明としても解釈できる。また、学団のほとんどが数学などの科学を修めていたという事実から、彼らが「民族主義のロマン主義的要素」(二七〇頁)における形而上学的命題の検討ではなく、科学的命題の検討においてこそ有意味性(二四頁)を見出していたのだろう、と好意的に解釈することもできる。  しかし、彼らがこの「挑発的な」(二〇九頁)マニュフェストを、政治的反ユダヤ主義の揺籃あるいは雛形(二三二頁)であるウィーンという都市において公にした一九二九年当時、この都市のなかで発生するあらゆる問題の原因はすべてユダヤ人のせいにされていた(二三〇頁)。この時期のウィーンにかつてのハプスブルグ帝国の栄華はもはやなく、それに代わってオーストリア・ファシズムやナチス・ドイツがアーリア人神話や民族主義、形而上学、伝統、そして天才性などを礼讃(二七五頁)しており、モダニズム、社会主義、ユダヤ人といった存在は排斥対象そのものであった。  ウィーン学団が科学に基礎づけられた明晰な哲学、すなわち論理経験主義に依拠し、非科学的なロマン主義や形而上学、神話や神学の除去をマニュフェストに掲げていたこと、そして学団構成員の大半がユダヤ人もしくはその混血であった事実は既に述べた。この学団の哲学者のほとんどは反宗教的(二七五頁)、政治的左派(二六〇頁)、親モダニズムでもあったようである。オーストリア・ファシズムがウィーン学団の存在を看過できずにいたのは、以上のような両者の政治的思想的不和に起因している。  そして一九三四年二月二四日、オーストリアの短い内戦が終焉し、一党独裁国家が成立しつつあった頃、警察はウィーン学団のある人物を呼び出し、この集団と反国家活動の関係を詰問した(二五六頁)。その二年後の一九三六年六月二十二日、この人物は元教え子ネルベックに逆恨みされ、銃撃により死去した。  この人物こそ、本書のタイトルにもなっているウィーン学団のリーダー、モーリッツ・シュリックその人である。本書は、上記のような特質をもつウィーン学団において、シュリックが例外的な人物であったことを仔細に教えてくれる。シュリックは、ベルリンの貴族的な家系出身(二六七頁)の敬虔なプロテスタントであり(三四〇頁)、その晩期においては学団の中で最も政治的に中立な人物であった(二六七頁)。  シュリックが銃殺された後、ウィーンのいくつかの紙面は彼がユダヤ人であったと誤って記述したようである。そこでは、ユダヤ人は反形而上学者であり、論理性や数学性を好み、哲学における実証主義を好み、これらはすべてシュリックが体現していたと述べられている。さらには、キリスト教的ゲルマン的ではないという論理が罷り通り、ネルベックはシュリックの急進的・破壊的哲学のために精神病になったのだという犯人に同情的な理解し難い記事もあった(三三八頁)。  シュリックの死という出来事は、哲学史における最も皮肉で最も悲劇的な出来事のひとつであろう。読者は本書を通して、改めて、人文学の使命について再考させられることだろう。つまり、ウィーン学団のような「凍てついた論理の上で隠遁生活を送る」(二六五頁)特異な「生」に対する庇護と寛容を唱えつづけること、そして、自己とは異なる思想、信仰、政治性をもつ隣人を赦し愛すこと、という今では誰も叫ばなくなった使命を。(児玉聡・林和雄監訳)(こばやし・まさひろ=立教大学ほか兼任講師・思想史)  ★デイヴィッド・エドモンズ=哲学博士。上廣オックスフォード研究所特別研究員。著書に『デレク・パーフィット 哲学者が愛した哲学者』など。一九六四年生。

書籍

書籍名 シュリック教授殺害事件
ISBN13 9784794980083
ISBN10 4794980086