ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 421
トーキー以降のルビッチ
JD 本来であれば映画作家にとっての仕事とは、映画固有の演出を考えること、つまり映画言語によって映画を考えることでもあります。当時のムルナウにしてみれば、映画における言葉という要素が、まだ疑わしいものであったはずです。彼が亡くなった一九三一年においては、トーキーの表現すら疑わしいものでした。それまでに映画が積み上げてきたものを、つまり編集の芸術をはじめから考え直さなければいけなくなっていた時代です。そこでは映像の自由さが失われ、映画が演劇的になってしまっていたのです。
HK 一九三一年には、音を効果的に使ったものとしてフリッツ・ラングの『M』があります。
JD はい。他にもヒッチコックの多くの試みもありました。ちなみに私にとってヒッチコックはトーキー以降の映画作家です。無声の時代も、他の映画作家と比較すると良い出来の作品を残している。しかし、彼が本当に自由な発想を満遍なく発揮しているのはトーキー以降です。一九二九年以前の作品は、ヒッチコックがヒッチコックになる前のものであり、そこそこの出来です。つまり彼は根本的にはトーキーを必要としていた映画作家なのです。
一九二九年に映画の世界がトーキーに移行した後、映像における音の活用法が真に理解されるためには、多くの試みが必要でした。最初期のものでは……『サンライズ』も部分的には、トーキー映画として公開されています。つまり、一九二七年に『ジャズシンガー』が公開され、〈見せ物〉として人気を博したため、『サンライズ』も部分的に音をつけられていたのです。環境音のような類の、映像の単なる補足といってもよい、あってもなくてもいい音です。なぜなら、その音は映像の中にすでに視覚的に存在しているからです。どんな音が鳴っているか、映像を通じて想像できるのです。だから『サンライズ』の音に関しては、あまり重要な試みとは言えません。『ジャズシンガー』の音と同様、見せ物的な側面が強い。ムルナウは結局、『タブウ』に至るまで音を効果的に使うことは考えなかった。もしかすると、彼があと数年生きていたのであれば、ルビッチやラングのようにして、トーキーの映画に完全に移行することができていたかもしれません。
映画がトーキーに移行する中で、重要な役割を果たした映画作家の一人がルビッチです。初期のルビッチの映画は、非常に視覚的でした。キートンやチャップリンといったコミック映画の運動ではなく、ドイツの演劇に強い影響を受けた演劇的空間の演出があった。キートンの映画は言うまでもなく、アメリカ的空間に基づいています。つまり彼の映画は、左右の水平線方向に、または画面の奥手前に広大な空間が広がっていることが前提となっています。汽車や蒸気船であっても、または街のような空間であっても、すべては左から右へ、手前から奥へと別の空間が連なっていることが、彼の映画のギャグの元になっています。
チャップリンのコミック映画も、キートンほどではありませんが、空間の連なりを前提としています。ルビッチの映画の場合、全く異なる作りの喜劇映画になっています。たった一人で、アメリカのコミックに匹敵することができているヨーロッパの唯一の喜劇映画作家です。彼は演劇的、特に喜劇的な状況を作ることに長けていました。それは彼の知性によるものです。貴族や王族、ブルジョワなどの人々を、ありえないような状況に投げ込み、その状況の中で、誰もが幸福、快楽を追求しようとする姿を面白おかしく見せることに成功していたのです。それは、トーキー以降になっても一貫していました。
無声の時代のルビッチは、画面いっぱいに現れては一瞬で消える群衆など、通常では目にすることのない状況を作り出すのを楽しんでいました。そうした映像の作りは、アメリカの人々のものと比較すると、非常に演劇の劇場的です。ルビッチは、トーキーに移行した際に、そうした映像作りから徐々に離れ、主要な登場人物の対話劇へと移行していきました。それは、彼の映画の本質的な部分が表に現れてきた結果です。〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
