2026/02/13号 4面

生類の思想

生類の思想 藤原 辰史著 緑 慎也  「環境」は便利な言葉だ。職場、教育、居住など別の言葉と組みあわせれば議論したい空間を漠然と表せる。企業のスローガン、記事の見出しには保護したり改善したり、無条件に善意を向けるべき自然という意味で使える。筆者はこれまで特に疑問を感じることなく、科学分野の記事を書く時など主に後者の使い方でこの言葉に頼ってきた。  それだけに著者の指摘にハッとさせられた。《「環境」という言葉に私がしっくりこないのは、「内界」が含まれないこと、人間「または」生物をとりまく世界をあらわそうとしていることに由来するのだろう。》環境の字義は「周囲の状況」だが、囲われるからには中心がある。そこにいるはずの人間はそもそも外部を眺める透明な主体なのか。これが本書を貫く基本的な問いだ。  著者が環境の代わりに差しだすキーワードが「生類」だ。動物を意味する言葉だが、著者は植物、微生物もここに加える。そして人間を中心に据え、その周囲に自然があるという配置を一旦崩し、最初から同じ地平に並べ直す。目指すのは石牟礼道子『苦海浄土』や徳川綱吉の「生類憐れみの令」で示された生類の思想を乗り越え、現代版を提示することだ。  このバージョンアップに寄与するのが「体液」だ。血液、リンパ、涙、唾液、母乳、羊水など体液は身体の内側に閉じ込められているようで、実は外へ滲み、外からも侵入される。固体としての「個体」を前提にすると、人間と自然、生と死、自己と他者を切り分けたくなるが、液体は切り分けを嫌う。体液は流れ、混じり、ときに感染する舞台となる。  著者は生物学や免疫学が明らかにしてきた、人間と微生物の精妙な繫がりと、人間中心主義を対置する。人体を構成する細胞数は約37兆個だが、そこに棲み着く常在菌や微生物は40兆から100兆個に及ぶ。遺伝子数で比較すれば、ヒトの遺伝子が約2万個であるのに対し、共生微生物のそれは数百万個。つまり、遺伝情報の量において、私たち「本体」は0・5パーセント程度に過ぎないのだ。《人は中心ではない。なぜなら、細胞の数からいえばマイノリティであるのだから。》  我々は環境の中に独立して存在しているのではなく、微生物やウイルス、化学物質が絶えず出入りする「分子の淀み」だ。それにもかかわらず、現代人は抗生物質や殺菌グッズで「内なる外」である消化管や皮膚を洗浄し、無菌室のような身体に憧れる。その結果アレルギーや自己免疫疾患といった「免疫の反逆」を招き、自らの身体を異物として攻撃してしまう皮肉な事態が生じたと著者は指摘する。  なぜ、我々はこれほどまでに清潔さや効率を求め、生命の「雑多な賑わい」を排除しようとするのか。著者はその要因の一つとして、産業資本主義が生み出した「高速回転」への依存を挙げる。かつて人類は、家畜の筋力や風、水といった、地球の身の丈に合った動力を使っていた。しかし、内燃機関の発明により、毎秒100回を超えるピストン運動とモーターの高速回転を手に入れ、文明は分不相応な夢を見始めた。より速く、より遠くへ。化石燃料を燃やして得られるこの回転運動は、情熱を持たず、ただ自動的に富と格差を拡大再生産する「規則正しいレイプ」であると、著者はスタインベック『怒りの葡萄』の記述を借りて断罪する。化石燃料を使わないリニアモーターカーや電気自動車はどれほどスマートに見えても、大量の電気を消費する。その点で「高速回転」のドグマに支配されており、結局本質的な解決をもたらさない。回転が生み出す遠心力が、人間から思考の根を奪い、土や微生物との有機的な摩擦を消し去ってしまうからだ。  だからといって著者は、その回転を止め、前近代へ回帰すべきだと言うわけではない。問題は速度が「唯一の正しさ」になってしまったことだ。その前提のもとでは遅いもの、滞るもの、混じり合うものは、つねに無駄として排除される。だが生類は無駄と見える滞りの中でしか機能しない。生類、あるいは体液にとってふさわしい速度に合わせた社会の制度設計が求められると著者は説く。たとえば医療や公衆衛生では、清潔を目的化するのではなく、感染症リスクと共棲の条件をどうバランスさせるかへ、食生活では栄養効率の最大化ではなく、微生物との関係を含む「身体の生態系」をどう育てるかへ軸足を移す。著者が呼びかけるのは「環境負荷を下げる」とか「環境にやさしい」といった標語から、「生類としてどう交わり、どう滲み、どう生き延びるか」という内外を貫く問いへの転換だ。  無菌のユートピアに窒息する現代人にとって、この本のページから漏れ出す思考は、免疫を鍛えるための最良のワクチンとなるだろう。(みどり・しんや=サイエンスライター)  ★ふじわら・たつし=京都大学人文科学研究所教授・農業史・環境史。著書に『食権力の現代史』『植物考』『歴史の屑拾い』『農の原理の史的研究』『縁食論』『分解の哲学』『食べるとはどういうことか』など。

書籍

書籍名 生類の思想
ISBN13 9784910904030
ISBN10 4910904034