2026/09/18号 5面

教授の家

教授の家 ウィラ・キャザー著 八木 寧子  「家」の物語である。もちろん比喩でもあり、燻っている自身のルーツ、新たに築いた家族、そして拠り所となる場所のことも内包している。  主人公のひとり、老年にさしかかった教授は、著書の受賞賞金を得て新居を構え無事に引っ越しを終えるが、長年住んできた家への愛着を捨てきれない。冒頭から細やかに描写される旧居とその場所への主人公の思いに引き込まれる。読み手にとっては見知らぬ人の家なのに、これほど輻輳的で豊かで、響いてくるのはなぜだろう。およそ一世紀前のアメリカ。多くの人にとってもこれまで接点のなかった世界が舞台だが、人が生きることの本質に触れる予感があり、静かに胸が高まってゆく。  ミシガン湖畔に生まれたゴドフリー・セント・ピーター教授は、美しい妻、既に結婚したふたりの娘に恵まれ、新居を構えて二十数年住んだ家から越す。専攻はスペイン史。長年研究と著作の執筆に打ち込んできた節約家で、豪勢にふるまってきた人物ではない。家族の満悦は彼にとっても喜びだが、物質的な豊かさはなくとも「醜い物はひとつもなかった」という思いを手放せず、ひとり、家財道具の運び去られた旧居の仕事部屋、遠くミシガン湖を眺められる場所に居続けるのだ。  少し変わった構成の三部立てである。ピーターが中心となる第一部と第三部は、訳者の加藤洋子氏も評するように教授から見た他者、世界は淡いパステルカラーで描かれた水彩画のような存在感。教授はどこか諦念に覆われながら、家族や仕事関係の相手とのやりとりを淡々とこなしてゆく。そして、もうひとりの主人公である教授のかつての教え子、トム・アウトランドが主体となる第二部は、若い頃のトムが未知の場所と出会う期待とエネルギーに満ちた青春冒険譚。教授のパートでトムの青春を挟む構成は作者の実験であるらしく、そこに明確な繫がりはない。だが、教授がトムと出会ったことでもたらされた熱情の絆が、丁寧に描かれるエピソードによってひとつに結実するように感じる。それも「家」のひとつだろう。そこに提示されるのは、「ほんものの人生」とは何かという不変の問い。そして私たちは、アメリカに残された南北戦争、第一次世界大戦の影にも触れることになる。  教授の内省とは逆に娘婿たちは野心を顕わにし、親しかった姉妹は互いの結婚によって妬みに搦めとられ、妻は教授の心境に寄り添わない。不平や不満を出さない教授だったが、諦めが濃くなり大きな喪失が強く現れてくる。それが、トムの不在だ。教授にとって優秀で明晰で意欲的な彼との出会いは衝撃であり、大事な友情となる。だが、長女と婚約までしていたトムは第一次世界大戦で戦死。教授のパートでは既に死者なのだ。  トムとの出会いは第一部で回想して描かれるが、教授に出会うまでに辿ってきた道のりを伝えるのが第二部。トムが遺したものが綴られるなかで、教授にとってトムがかけがえのない存在であったことは色濃くなってゆくばかりだ。  孤児であったトムは、ニュー・メキシコでコールボーイの仕事をしていた。そこで知り合ったロドニー・ブレイクと牧畜会社に転職し、ブルー・メサという遺跡化した石造都市を発見する。これは、現在は国立公園に制定されているコロラド州のメサ・ヴェルデがモデルだが、このメサの描写に圧倒される。  崖地の窪みに遺された住居群に魅せられたふたりは、調理などをこなすヘンリーという老人を加え、三人でメサへの道をひらき、整えて発掘にかかる。そしてメサの高度な文化を世間に伝え、大規模な発掘と調査を働きかけようとする。このときの三人は志を同じくするひとつの共同体、「幸せな家族」。その濃密な在り方、そしてトムがメサに感じる一体感。第二部にはトムという特異な存在の熱とメサの魅力がふんだんに描かれ、色彩豊かな情景から昂奮がもたらされる。  そして第三部で、教授の諦念があらためて現前する。だが、トムの喪失の果てしなさと同時に、教授がトムと共鳴したかつての自分、原初的な存在の少年としての自己と「子どものころの鮮明な意識」を取り戻し、そこに繫がるところに「ほんものの人生」があるのだと確信する。キャリアや家族は自分の身に起きた「出来事」にすぎないのだ、と。  ウィラ・キャザーは二十世紀初めのアメリカを代表する作家のひとり。本書に収録された新井景子氏の解説に詳述されているが、作品は同時代の批評家から「懐古的で伝統的、あるいは反モダニズム的」とさえ見られたという。だが、本作は「過去との断絶や喪失感、帰属の喪失といったモダニズム感覚と響きあう」という新井氏の指摘に大きく頷く。その象徴が「家」なのかもしれない。  物語には、もうひとり重要な人物が登場する。恋愛とも友情とも異なる位相で教授と向き合いさまざまな意味で彼を救うのだが、その存在意義に気づくのは終章近く。居場所の定義を一度ほどいて再構築する、大事な存在だ。  年を重ね、不安や孤独、喪失を抱え、自分自身や周囲の変化への戸惑いを抱いて生きてゆくのは現代も変わらない。記憶を手繰り寄せながら自分を宥めて乗り越えようとする者が、頼り、守ろうとする「家」とは何か。そこに「ほんものの人生」が宿っているか。この物語は、読む者にそんな問いを差し出すように思えてならない。(加藤洋子訳)(やぎ・やすこ=文芸批評)  ★ウィラ・キャザー(一八七三―一九四七)=ヴァージニア州生まれの作家。『おお、開拓者よ!』『マイ・アントニーア』などの「プレーリー三部作」で広く読者を魅了した。『われらの一人』でピューリッツァ賞受賞。

書籍

書籍名 教授の家
ISBN13 9784269810303
ISBN10 4269810300