わが点鬼簿
四方田犬彦
第5回 木村栄治(一九四五―二〇一〇)
いいか、俺みたいにまっとうな生き方をしていないと、まっとうには死ねないんだよ。
木村栄治さんはわたしにそういった。『凶区』の同人であった秋元潔さんが俳句の同人誌を出したいというので、その相談で梅丘の七月堂でいっしょに呑んでいたときだったと思う。「まっとうな」というのが、木村さんの口癖だった。
木村さんと初めて会ったのは1977年、大学院の仲間と語らって、『シネマグラ』という映画批評の同人誌を刊行しようと思い、梅丘の駅の裏側にある書肆、七月堂を訪れたときである。古本屋を兼ねた小さな出版社だった。
七月堂は同人誌印刷ばかりではなく、ありとあらゆる印刷を引き受けていた。現代詩人たちの詩集を刊行し、古書の販売も兼ねていた。わたしは木村さんに気に入られたと思う。詩人では誰が一番偉いと思うと聞かれて、サクタローと答えたからである。後にわたしは彼が上州の出で、若い頃にこの同郷の詩人を読み耽ったと知った。
『シネマグラ』は、わたしの韓国滞在を挟んで、1980年まで4年の間に7冊を刊行した。この雑誌にはさまざまな思い出があるが、それはまた別の機会に書くことにして、木村さんのことを書いておきたい。彼とのつきあいは、同人誌を畳んだ後も長く続いた。
とにかく一途の人だった。ジャズの世界を渉猟していてアルバート・アイラーに出くわすと、何もかも放り出してアイラーに夢中になった。オーディオ狂いとなったあげくに、手作りでステレオセットを作り上げた。自転車に凝りだすと、東京から奈良まで平然とペダルを漕いで行った。二級酒を一級酒にするためにはこうすればいいといって、独自の酒瓶の振り方を教えてくれた。故郷上州に土地を求め、蒟蒻からキムチまでを自分で拵えると、わたしに贈ってくれた。薩摩焼酎が大好きで、白波と塩ラッキョウさえあれば、世の中、それ以上に望むものはないと、機嫌よく断言していた。
わたしは七月堂で、自分の本をつごう三冊、作っていただいた。もっとも重要なのは、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』論である。大学院の修士論文をもとにしたものだが、書きあげた瞬間に理論的に納得できない気持ちを抱いてしまい、その後の加筆改訂に13年を待っていただいた。パラフィン紙のカヴァーをつけてほしいという我儘な願いを、七月堂は聞き届けてくださった。
あるとき木村さんは癌を宣告された。余命が数年だという。わたしが会いに行くと、彼は白波をお湯で割って、できるかぎり薄く薄くして呑んでいた。これまで喧嘩をしたり絶交をしたりした人たちの一人ひとりに手紙を書き、もうすぐ死ぬからその前に和解しておきたいと記したという。後になって元夫人であった知念明子さんから聞くと、手紙を受け取った人たちは一人の詩人を除いて、誰もが彼との再会を果たしたという。ただ一人拒んだ詩人も、白波のひと瓶を手に木村さんの命日に到来し、彼の冥福を祈ったと聞いた。
木村さんに驚くべき前半生があったことを、長らくわたしは知らなかった。高校生時代にオートバイで大事件を引き起こし、少年鑑別所を出てから一度はヤクザの道に進みかけたこともあったと聞いた。朔太郎と出遭ったのはその時である。板前修業をしたり、ラブホテルの従業員になったり、さまざまな体験を経た後、印刷機を入手。知念さんといっしょに七月堂を立ち上げた。ああ、何というまっとうな人生であることか。わたしは木村さんほど、遺されたわずかの余命をまっとうに生きた人はいないような気がしている。(よもた・いぬひこ=映画誌・比較文学研究家)
