田舎の思考を知らずして、地方を語ることなかれ
花房 尚作著
矢沢 久純
本書は、過疎地域で暮らす人々の日常を通して日本の未来を考えることを目的とした書である。著者の花房氏は、三年前に過疎地域について分析を加えた『田舎はいやらしい――地域活性化は本当に必要か?(光文社新書一一七七)』(光文社、二〇二二年一月)(以下、「前作」という)を上梓されており、そこですでに、都心で暮らしている者は過疎地域の現実が見えていないことを指摘されておられた。本書はそれに続く田舎研究の第二弾である。前作では、人間が日本列島の津々浦々に住む必要はなく、自然を動植物に返したらどうかという議論まで展開されていた。そのため、センセーショナル性で言ったら前作ほどではないが、前作で提起した各論点を深く掘り下げたものと評価できよう。
花房氏の議論の一端を紹介しよう。高齢化率の高い過疎地域への支援はしばしば議論され、都市の人々が都市の思考により過疎地域は「悲惨」であると捉えて財政支援を主張している。ところが、当の過疎地域の人々は自分たちを「悲惨」とは捉えておらず、なぜ悲惨とされるのか分からない。そこで著者が「過疎地域は悲惨という扱いにすることで、税金が落ちる」と説明すると、税金が落ちないのは困るから悲惨でもよい、となる。これが随所で登場する補助金事業であり、それがないと生きてゆけない過疎地域における補助金配分をめぐる諸問題が展開されている。行政に対しても手厳しい。役所がデジタル化されても、結局、資料を印刷してファイリングする。住民に発送すべき書類等がある場合、封入作業中に記載ミスが発覚して原稿のコピーからやり直し、二度手間になっても職員の給与は変わらない、等々。
著者は実際に過疎地域に居住されて調査を続けておられるところが、普段は都市に居住し、短期間のみ過疎地域に行って調査を実施する研究者との根本的違いである。前作で登場したが、過疎地域から講演会講師として呼ばれて、過疎地域を褒め称えておきながら、過疎地域で暮らすことは決してしない知識文化人とは異なるのである。
花房氏は過疎地域を否定しているなどということは決してない。ただ、都市の思考で田舎を見るのはやめませんかと言いたいのである。例えば、廃屋は、都市の住宅地にあれば草木が伸びてきたり、台風襲来時に瓦が飛んだり、塀が倒れたり、動物が棲みついたりといった問題が発生するだろう。しかし、過疎地域では廃屋も自然な存在であり、風景に溶け込んで趣すらあり、木造家屋が崩れて自然に返るだけという思考がある。不動産の所有者が不明ならば、その家屋に住み着いて、その土地を耕してもよいのではないか。民法が定める時効取得を目指してもよいのではないか。人口が減って限界集落と言われても、動物を飼ったり、歌謡曲を大音量で聴いたりすることができ、悠々自適な暮らしを楽しめる。実際に過疎地域で暮らして過疎地域で暮らす人々と同じ肌感覚を持つことで見えてくる景色があるのである。
本書は非常に分かりやすい文章で分析がされており、適宜、鋭いジョークを絶妙に織り交ぜ、それでいて嫌みを感じさせることのない文体は、時間を忘れさせ、一気に読ませる力を持っている。新書という形態にうってつけの書であり、演出家である花房氏の面目躍如たるものがある。花房氏の田舎在住・田舎研究は今後も続くであろう。何年後かに本書の続きとなる第三弾が刊行され、「花房三部作」と呼ばれるものができあがることを期待せずにはいられない。(やざわ・ひさずみ=北九州市立大学教授・民法学)
★はなふさ・しょうさく=文化人類学研究者・演出家。1級ファイナンシャルプランニング技能士・宅地建物取引士・管理業務主任者・マンション管理士の資格を持つ。高校卒業後、山崎銀之丞に師事、演出家として東京都新宿区にて舞台公演を行う。米国での二年間の就労を経て、世界四〇か国一八〇都市を周遊。現在は放送大学大学院在籍、過疎地域にて田舎の未来を研究している。著書に『田舎はいやらしい』『価値観の多様性はなぜ認められないのか』。一九七〇年生。
書籍
| 書籍名 | 田舎の思考を知らずして、地方を語ることなかれ |
| ISBN13 | 9784334107376 |
| ISBN10 | 4334107370 |
