2026/06/12号 7面

映画時評・6月(伊藤洋司)

映画時評 6月  「フランス語は禁止」と、女性教師の英語の声が響く。高校生たちが英語で討論しだす。ある机では少女が、「距離があることで時には自分のことを話しやすくなる場合もある」と語る。別の机では別の少女が「インスタとかって噓の『いいね』があるよね」と言い、「常に偽りの愛に飢えてる人みたい」と付け足す。重要なのは、少女たちが外国語で明晰にメディアについて語ること以上に、冒頭に置かれたこの短い場面が、作品の方法論に密接に関わっていることだ。ギヨーム・ブラックのドキュメンタリー、『また会えるよね』は彼女たち高校生の姿を捉えようとする。SNSのようなメディアは噓偽りに溢れ、映画はメディアとしてはさらに古めかしい。とはいえ、対象と直接触れ合えばいいという訳でもない。監督は少女たちに密着するのではなく、あえて距離を置くことで、近すぎると見えない何かを捉えようとする。それが彼女たちの真の姿ということでもない。だが、SNSとは異なる貴重な何かを、映画は確実に示している。  中心となるのは、フランス南東部のディーの高校生、オーロールとヌルス、ジャンヌ、ディアーヌの四人だ。彼女たちは高校の寮で生活をともにする親友だが、卒業を間近に控え、ディーを去り別々の進路を進もうとしている。特にヌルスは志望していた政治学院に行けず、誰も友達のいない街の大学に行くことになって不安を感じている。とはいえ、寮での最後の日々は友情に溢れ、部屋で踊ったり、廊下に並べたマットレスでドミノ倒しをしたり、ドローム川で遊泳をしたりと、男子高校生のルイゾンも含めた親しい交友の様子は、青春と呼ばれる眩い輝きに溢れている。  しかし、映画は四人の少女の語りを順番にオフの声で映像に重ね、その声は作品の雰囲気を大きく変える。オーロールは母親が鬱病になり、一緒に過ごせなくなったと語る。続いて、ヌルスは旅好きの父のために陸上より船上のほうが長い幼少期を過ごしたと語る。ヌルスの成長とともに生活が変わると父は元気を失っていき、彼女は自分を責めた。結局、父は去って行った。ジャンヌは環境問題に熱心で、デモに参加し命を危険に晒した経験を語り、最後にディアーヌが姉の失踪を語る。姉はハイキングに出かけたまま行方不明になったのだ。ディアーヌは姉のことを寮の部屋で話しもしたが、上手くいかなかった。「悪いものを見たくないんだよね」と、彼女は言う。こうした少女たちの心の底にある暗い欠落は、彼女たちの生の姿とされる直接的な触れ合いからは排除されるもので、カメラという距離を介することで初めて語られうるのだ。彼女たちの真の姿はどれかと問うても意味がない。確かなのは、こうした語りによって映画がかけがえのない作品になったことである。  最後に、ヌルスとオーロールが哲学の勉強をしながら、アウグスティヌスの『告白』の時間論について話す場面に触れたい。少女たちは重すぎる過去と未来を背負って現在を生きている。アウグスティヌスもかつて若き日に親友を亡くして苦しんだが、「過去、現在、未来という概念は誤り」とみなすこの教父の思想は、少女たちを救えるかもしれない。『また会えるよね』に、神の永遠を諭す時間論が出てくるのは偶然なのかもしれないが、この偶然が映画をいっそう豊かな作品にしている。  今月は他に、『アダムの原罪』『急に具合が悪くなる』などが面白かった。また未公開だが、ロイス・パティーニョの『赤い月の潮』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)