夢遊の大地
ミア・コウト著
真木 由紹
「生まれてこの方、歩くのが唯一の仕事であるかのよう」に「ひとりの老人とひとりの少年が道路を歩んでいる」といった冒頭の状況に、つい『八月の光』におけるリーナを連想したりもするが、坂道、町の歩道、何も敷かない床、土埃の道などと言った過去の記憶も含めた地面が感触を伴う形で押し寄せている、その冒頭に比べ、同じ裸足(詳細を言えばリーナは靴を脱ぎ裸足で休憩している状態)とは言え、本著では「道路」は「殺」されており、それが「その地」における戦争によるものであることがはっきりしている。実際のところ二人は避難民キャンプから歩き続けているのだ。
あったものがなくなったのは最初からないことより一つ重い。本書は小説世界における現在が、いかに〝なくなった〟ものばかりで形成されているか、重層的に表現されて始まる。いわゆる戦争のもたらす荒廃と言えよう。ただし、そんな衝撃的な有り様が視覚のみならず、その他四つの感覚に訴える描写の横溢により、内実を転じていくのである。
「風景は口に粘りつくような色彩で、これまで見たことがない悲しみが入り混じっていた」、「周囲のサバンナでは、バオバブの木だけが世界が萎れていくのを凝視している」等々。
つまりは擬人もふんだんに混じえる描写を経た後、読み手はそんな衝撃〔ひょうげん〕に満ちた小説世界にも進入を果たすことになる。冒頭の二人は間もなく、運転手も乗客もいないどころか、エンジンも掛けていなければ、停車しているわけでもないバスを道ならぬ道に見つける。そして、少年ムィディンガはバスのそばでノートを見出すのだ。このノートの持ち主はキンヅという名の若者であり、ノートには日記と言うには随分と込み入ったキンヅの遍歴〔せかい〕が厚みをもって展開されている。これを文字の読めるムィディンガがトゥアイールに読み聞かせ始めることによって、キンヅの物語もまた立ち上がり始める。以降、小説は二組の物語が入れ替わりのパラレルを形成する形で進んでいく。
ただしパラレルとは言え、二つの物語は場所を共有している。というのもムィディンガとトゥアイールが見つけたバスは焼け焦げている。惨状はバス内により顕著であって、通路や座席には黒こげの死体が重なっている。ムィディンガがキンヅのノートを見つけるのも、それらを外に出す作業のうちに、である。撃たれて死んだ者のそばにあった旅行鞄の中に入っていたのだ。この片方が一方的にもう片方に接することで始まる物語の舞台はモザンビークである。
そんな二組の時間的隔たりは、死んだ者を穴に放り込む際のトゥアイールの言葉に代えれば臭わないゆえ「襲われたのはついさっき」程度である。それゆえ舞台のみならず状況も共有しているとも言ってよい。ではどんな状況かと問えば、戦争や植民地支配に他ならないわけだが、本著は悲惨を〝悲惨〟として確かめるようなページの捲り方には、きっとならない。つまり小説としての面白さなり、意義深さなりを戦争や植民地支配の反響にのみに決定づけられる小説ではないのだ。
例えば、村を離れるキンヅがカヌーを漕いでいれば途中で父の霊に追いかけられたりなんかする。櫂が水面に跡を残しているからだ。するとキンヅは座席の下から鳥の死体を取り出し、この羽を毟り、海面に浮かべることで父を撒くことに成功する。また、ムィディンガは淀んだ水の岸辺に牛飼いに出会う。牛飼いが言うには雄牛のうめき声が鳥の声に変わったと思ったら、雄牛が子牛を経て猫、猫から鳥へと生まれ変わったという。驚くムィディンガを横目に、こんなことが満月の晩にはよく起こると牛飼いは平然と断言する。
めくるめき世界と言えようか。多義あって隔てもなく入り乱れる世界は、それに適った彩り付きの語りで進んでいく。とはいえ、それが単なる飾りではないことを教える厳しさも本著には確と存在している。
個人的に年長者の登場人物らが口にする訓話めいた一言二言に立ち止まってしまうことしばしばだった。訓話は上から下への関係性による所産だ。日本語にも類する意味はあるだろう。けれども類する表現が見当たらない。そんな言葉一つ単位の連なりが、もうそれ自体、深みを持った細部としての小説のようで沈思黙考の間が度々生じた。要するに〝読む〟喜びがあちこちに存在している一冊なのである。(伊藤秋仁訳)(まき・よしつぐ=作家)
★ミア・コウト=モザンビーク生まれの作家。十代から文学活動をはじめ、医学を学びながらジャーナリストとしてモザンビークの独立や内戦に立ち会う。一九五五年生。
書籍
| 書籍名 | 夢遊の大地 |
| ISBN13 | 9784336076977 |
| ISBN10 | 4336076979 |
