2025/02/21号 5面

正欲

〈書評キャンパス〉
書評キャンパス 朝井リョウ『正欲』 森本 帆風  「誰もが「明日、死にたくない」と感じている」  最初の話は、この独白に始まる。自分の内面が理解されず心の支えになる人間関係もない男の話だ――と書くと自分とは無縁に思えるかもしれない。しかし、そうではない。本書は、隠し事をしたことのある全ての人々の為の物語だ。  本作は、複数の視点で語られる連作形式である。物語は「ある日付」が訪れるまでの時間を追いながら進んでいく。登場人物たちは、それぞれが公に話せない悩みと向き合っている。男性嫌悪に悩む女子大生、その同窓の男子学生、不登校の息子に悩む検事の男、その妻、生きる理由なく暮らす男、その同僚。全員が緩やかに関係し合い、彼らの目線を通して世界を描き出している。物語が展開するのは、平成から令和に元号が変わった時代背景で、その社会の変化が登場人物たちにも影響を与えている。いかにも「いそう」な登場人物たち。読んでいるうちに、登場人物たちがまるで自分自身のように感じられ、多数派と少数派、そのどちらの心情にも引き込まれていく。例えば、何気ない友人の一言に心が震えた経験、誰かに受け入れられなかった時の恐怖、そして「もしも自分が外れた道を歩んだらどうなるのか」という不安。なぜ私たちは「多数派」であることに安心し、異なる立場にある者を排除したくなるのか。こうした問いへの一つの答えが、本書を通じて浮かび上がる。  私が最も心を揺さぶられたのは、佳道と夏月という人物たちだ。恋愛に価値を見出せないという似たマイノリティを共有する佳道と夏月の関係は、互いを理解し合うことで成り立っている。お互いの社会的地位を確保するために、これからも社会で生きていくために、婚姻関係を結び、同居生活を送っていた。ある日、夏月の提案で、着衣のままで擬似的にセックスを再現してみることになる。言伝に聞いた情報を頼りに手探りで試みを続け、最後に、行為後に男が覆い被さってくるシーンを再現する。情報では、汗をかいた重量のある生身が不快だと言う人も、その重さが良いと言う人もいた。状況を共有し、意見の割れることに自分も参加してみようということだった。  この試みを通じて、夏月は他者の「重み」を実感し、そのことに安心を感じた。重く苦しく不安定でも、他者と一体化し、重みで世界に縫い止められることは安心に繫がるのだ。「ここにいていいって言ってもらっているみたい」と呟く場面には、他者を通じて「自分は社会と繫がっている」安心感がある。その瞬間の「生きていてもいい」という確信が込められている。  作中には、ほかにも多数派と少数派に横たわる深い溝が繰り返し描写されている。けれども、幸福で満たされているシーンもまた、他者によってもたらされる救いなのである。  この本を読み、共感したと話すことは、自分が少数派であると宣言するようで不安かもしれない。しかしだからこそ、これからの世代にも必ず存在する人々のため、長く読み継がれてほしい一冊である。  ★もりもと・ほのか=大阪樟蔭女子大学学芸学部国文学科創作表現コース4年。大学の講義から俳句、短歌を初めました。趣味は、デジタルイラストやアクリル画の制作、編み物や粘土工作などの手芸が好きです。  ※筆者プロフィールは応募時のもの。

書籍

書籍名 正欲