追悼=小田島雄志
<シェイクスピアを訳し継ぐ>
対談=松岡和子×河合祥一郎
英文学者・翻訳家の小田島雄志氏が六月八日、死去した。九五歳だった。小田島氏は、坪内逍遙
に次いで日本で二人目のシェイクスピア三七戯曲の全訳を達成している。
公私ともに深い縁のある、翻訳家・演劇評論家の松岡和子氏と、英文学者の河合祥一郎氏に、小田島氏について、シェイクスピア翻訳についてなど、追悼を込めて、お話しいただいた。(編集部)
松岡 河合さんも私もそれぞれ、小田島家とは縁があるんですよね。
河合 小田島先生ご夫婦は私が結婚したとき仲人を務めてくださいました。義父・高橋康也と小田島雄志先生が仲が良かったんですね。小田島先生が一九三〇年生まれ、高橋先生が一九三二年生まれ。小田島先生が二十五歳の時に、高橋康也、小池滋、沢崎順之助、戸田基、野島秀勝ら、東京大学英文科の仲間を中心に「エッセイズ」という同人論文集を創刊しています。そんなふうに学生時代から一緒に研究する仲でした。
松岡 伝説の論文集よね。
河合 二人は東大に就職したのもほとんど同時期で、研究室も同室。ただ、二人ともあまり研究室にはいなかったらしい(笑)。高橋先生は、東大に就職した一九六二年十二月、ロンドンのオールドウィッチ劇場でピーター・ブルック演出の『リア王』を観て、ポール・スコフィールドのリアがあまりに素晴らしいので、小田島先生に「これを観るためだけにでもすぐロンドンへ来い」と呼んだそうです。小田島先生は若い頃だし、持ち合わせのお金もなかったけれど、借金をしてロンドンへ行って観たという話です。
逆に、もともと小田島先生はずっと劇場にいるような人だったから、高橋先生に劇場にもっと行かなくてはダメだと言ったという話も聞いています。その影響で、研究寄りだった高橋先生が演劇の現場に近くなって、演出家の鈴木忠志さんなどと仲良くなった。その経緯がなければ今の私もいないんです。
松岡さんもその場にいらしたけど、富山県利賀村で、鈴木忠志さんが「国際演劇祭をやるぞ!」と言ってね。
松岡 一九八二年のことですね。今もSCOTサマー・シーズンとして、続いている。
河合 その初期に、鈴木さんが高橋先生に、通訳できる学生を寄こしてほしいと頼んだ。それで、内野儀さんと私が呼ばれて、六年間通訳をしたんです。
松岡 最初の国際フェスティバルには、ロバート・ウィルソン、メレディス・モンクなど、世界のトップクラスの演劇アーティストたちが来ましたよね。その中にジョン・フォックス率いる、ウェルフェア・ステート・インターナショナルというイギリスのグループがいて、五箇山でパフォーマンスを行った。その通訳を河合さんがしていました。衣装を着て役者の一人のような感じで。
河合 五箇山のあちこちを舞台にした、「荒野とセキレイ」という演劇パフォーマンスで、観客を連れながら、道化役のイギリス人が案内していくんですが、パフォーマンスを壊さないように、僕も道化のメイクで、演じるように通訳しました。
松岡 そのとき河合さんと初めて会って、河合さんが高橋康也先生のお嬢さんと仲良くなった現場も見ています(笑)。
河合 シェイクスピアを訳すようになる以前からの付き合いなので、私にとって松岡さんはお姉さんで、小田島雄志先生はお父さん。お父さんとお姉さんと弟で、シェイクスピアというファミリービジネスをしている感覚(笑)。
松岡 私は小田島夫人の若子さんともご縁があるんですよ。若子さんのお姉さまの千代さんと私の母が、女子学院と東京女子大学で仲良しだったんです。もっと遡ると母方の祖母と若子さんのお母様が、まだ武家の時代にお友だちだったらしく、家族ぐるみの長いお付き合いです。
子どもの頃母から聞いた話では、若子さんは東大卒業後、八丈島に教師として赴任するのですが、島まで追いかけていったボーイフレンドがいたと。それが小田島雄志さんだったの。
私は東京女子大を卒業後、少しの間、劇団雲に研究生として入ったのですが、自分には何もないと思い、東大の大学院に入り小津次郎先生の下で学び直すことにしました。ある日小津先生のお宅に伺ったら、小田島さんがいらしていた。それが小田島さんとお話しをした最初です。小田島さんがシェイクスピアを訳し始めた頃だったか。
もう一つの思い出は、第二回湯浅芳子賞をいただいたとき。
河合 現在は小田島雄志・翻訳戯曲賞に引き継がれていますね。
松岡 受賞理由が『間違いの喜劇』『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』など何本かの翻訳で、小田島さんが審査委員のお一人でしたから、私が少しシェイクスピアを訳したぐらいで賞をいただくなんて気が引けます、というようなことを受賞スピーチで言ったら、若子さんが「認知する!」とおっしゃったの。
河合 へー、面白い。
松岡 小田島家の子として認知するから、堂々とシェイクスピアをやりなさいと。今、息子の恒志さんも多くの英米戯曲を訳されているでしょう。恒志さんが言うんですよ、ぼくらは姉弟だねって(笑)。
河合 私も遡ると駒場幼稚園時代になるんですが(笑)、私が年長のとき、年少に平田オリザさんがいて、年中に小田島恒志さんがいた。記憶はないけれど、母によれば、雄志先生がいつも恒志さんの送り迎えにいらしていたそうです。
松岡 それもすごい縁ね。今では恒志さんの息子さんの創志さんも河合さんもシェイクスピアを訳しているなんて。
小田島さんは、シェイクスピアを全訳なさった二人目の人物だということがクローズアップされますが、それ以外にもたくさん翻訳していらっしゃるのよね。
河合 中でもすごいと思うのは、『フォースタス博士』とか『マルタ島のユダヤ人』、『あわれ彼女は娼婦』など、エリザベス朝の戯曲の有名どころをほとんど訳していらっしゃること。
松岡 エリザベス朝の演劇の頂点に立つのがシェイクスピアだとすれば、小田島さんは裾野を広げながら頂点まで網羅するという。ご覧になるものも、お訳しになるものも守備範囲が広い。 河合 そして基本的に、上演台本として訳す。演劇の現場との密な繫がりが、先生の訳の大きな要素ですよね。宝塚歌劇も大好きだったし。
松岡 宝塚には、天海祐希さんをはじめ親しいスターが何人もいらしたみたいですね。
河合 以前は、劇場に行けばお会いできたんですけどね。読売演劇大賞の選考委員を長い間なさっていましたが、演劇を何本ぐらいご覧になっているのか伺ったら、年に約四〇〇本と。
松岡 三六五日より多い!
河合 それを聞いていたので、私も読売演劇大賞の委員になったとき、三〇〇本ぐらいまでは頑張りました。最近は少し減りましたが、小田島先生の姿を見てきたから、芝居はとにかく観るべきだと思っています。
松岡 私はシェイクスピアから、逃げてばかりいたんですよ。小田島さんのように、ご自分とハムレットを同一視なさるほどシェイクスピアが大好きで、最初から入れ込んでいたというのではないから、気が引けるんです。
河合 小田島さんは、はじめは詩人を目指しておられて、その後は劇作をしようとされた。ところがシェイクスピアにはかなわないと気づき、翻訳に行きついた。そういう意識がないと、あのような翻訳にならないですよね。小田島さんの訳は、再表現だと思うんです。テクストの意味を日本語にしました、というのではなく、上演台本としてその面白さを表現する意思が働いている。
松岡 逍遙は歌舞伎の人なので、自分でも声を出して読んでいますが、それ以外は黙読のための翻訳が多い。あくまでも上演台本として訳されたことが、小田島さんのそれ以前の方たちとは異なる点ですよね。そこは河合さんも私も、小田島さんから受け継いでいると思う。
私が小田島さんより一歩踏み込んだと言えるのは、常に稽古場にいることかな。
河合 僕の前には松岡さんがいるから、シェイクスピアの翻訳者は現場にいるものだと思っていた(笑)。翻訳者は、稽古場ですぐに訳を変えることができなければならないと学びました。
松岡 忘れられないのは、『テンペスト』の稽古場でのことです。後期ロマンス劇のシェイクスピア単独作の最後と言われる作品ですが、主人公のプロスペローが妖精たちにお礼を言う場面に「demi-puppet」という言葉が出てくるんです。直訳すれば「半分のサイズの人形」ですが、それを私は最初「小鬼」と訳しました。
稽古の最中、平幹二朗さんが演じているときに、「〝小鬼〟という訳、変えられないか」と蜷川さんに言われたの。言われてみれば、小鬼は見たことないから、イメージが浮かびにくい。そして耳で聞くと、「高二」に聞こえてしまう。
河合 なるほど。
松岡 いつもなら一晩考えて翌日の稽古にもっていくのだけど、そのときはすぐ直してと言われたので、フツーで悪いけど、「小さな者たち」としておいてくださいと。
ところが、それで平さんの演技が変わったんです。それまでどことも言えないところに目を向けていた平さんが、前かがみになって「小さな者たち」とおっしゃった。途端に、芝草の根本や茸のかさの下に妖精が現れました。
この経験で、翻訳者が語彙を駆使するよりも、役者さんがイメージしやすい言葉を使うべきだと学んだんです。
河合 稽古場に行って、役者さんの体を通して出てきたときに、初めてセリフがわかることがありますよね。そこで言葉が血肉化される。
上演のための翻訳なので、「使者」は「死者」と発音が同じだから、「使いの者」とするとか。そのあたりは、お父さんとお姉さんが苦労して訳されたものから大いに学ばせてもらっています。
松岡 シェイクスピアの翻訳が日本で始まってから一〇〇年以上経つなかで、疑問に思う解釈が、踏襲されてしまっていることもあります。そうなると、連綿と続く歴史を相手に、孤軍奮闘することになる。でもね、次に河合さんが翻訳したときに、同じ解釈をしてくれていると、愚姉賢弟の賢い弟が認めてくれた!と力になります。
河合 恐縮です(笑)。松岡さんの訳し方を、私が真似ているに過ぎませんが、我々はとにかくアーデン版やケンブリッジ版などありとあらゆる現代版テクストを広げて、その注記を読んで解釈の違いを比べて訳しますよね。
松岡 誤訳しないようにと思うと、否応なしに坪内逍遙から先行訳を全て読み比べることになりますね。
河合 シェイクスピアの翻訳は四〇〇年間ずっと研究され続けてきたのだから、あとは日本語でどう表現するかだけだと言った人がいましたが、そんなことはない。
松岡さんが反旗を翻した最も重要なものは、「明けない夜は長い」ですね。『マクベス』のなかで「明けない夜はない」と長らく希望のセリフとして訳されてきたけれど……。
松岡 原文は、The night is long that never finds the day.で、直訳すれば、「決して昼を見つけない夜は長い」。どう読んでも、「明けない夜はない」にならないんです。いざ自分が訳すとなると看過できなくて。
小田島訳も「どんな長い夜もいつかはきっと明けるのだ」でした。過去の訳のなかで例外は、逍遙の「永久に明けないと思へばこそ夜が長いのである」と、鷗外の「永眠の夜は長いから」だけです。
さいわい私が『マクベス』を訳したとき、演出家がデヴィッド・ルヴォーさんというイギリスの方だったので、彼に聞きました。日本語では、Any long night will have the day.という意味に訳されているんだけど……と。舞台美術を担当していたヴィキー・モーティマーにも聞きました。たくさんのネイティブに尋ねましたが皆驚くのね。
「明けない夜はない」の初出も見つけました。一九一八年に刊行された市河三喜編注の『マクベス』の注釈です。そこでは「どんな長い夜でも何時かは明けて朝となる」とあります。注には、It is a long lane that has no turning.(どんな長い道でも必ず曲がり角はある)という諺を根拠にしたと。
ただ、Shakespeare's Proverbial Languageという本に、一四七五年頃に生まれたとして、After night comes the day.(明けない夜はない)という諺が載っていたんです。シェイクスピアはこの諺をひねって使ったのだと解釈できます。
シェイクスピア学者の千葉治紫夏さんは、findが鍵だとおっしゃいました。After night comes the day.のように、普通は、夜の後に朝が来る。ところが『マクベス』では、夜が朝を見つけなければならない。不眠のマクベスもまた、明けない夜を過ごしている。さらにドイツとフランスではどう訳されているかを調べると、いずれも「明けない夜は長い」でした。
河合 一文を訳すのに、それぐらい遠くまで調べ尽くすことがある、ということですよね。
松岡さんは原文を大切にするけれど、わかりやすさを優先して、解釈で意味を置き換えてきた翻訳の歴史もありますね。
『じゃじゃ馬ならし』では、My cake is dough.を、ほとんどの人が「うまくいかない」「失敗だ」という意味に訳し変えるなか、松岡さんは原文のまま、「ケーキが生焼け」と訳しておられた。
松岡 シェイクスピアを訳す際、意味のレベルのほかに、音と、イメージを考えるべきだと思っています。シェイクスピアは詩人なのでイメージは絶対的に大事なんです。「ケーキが生焼け」というイメージが失われると、面白みが一つ消えてしまう。
河合さんは音を大事にしながら、イメージも汲んでいますよね。
河合 それも小田島さんが始めたことです。
松岡 上演を前提に訳していらしたから。一九七五年に旗揚げしたシェイクスピアシアターで、小田島さんが訳したら出口典雄さんが上演する、というサイクルでね。
福田恆存さんや安西徹雄さんは、自分で訳して自分で演出なさった。福田恆存さんのものは殊に、いろいろと解釈を加えた訳になっている。
河合 あれは、ジョン・ドーヴァー・ウィルソンが加筆した版をそのまま訳しているから。
松岡 『ニュー・シェイクスピア』という、ケンブリッジ大学出版局から出た、赤い表紙の全集シリーズが一世を風靡した時期がありましたね。ジョン・ドーヴァー・ウィルソンが、ト書きなどをどんどん書き足した。
河合 分かりやすいんですけど、シェイクスピアが書いていないト書きがかなり入っている!
松岡 訳に徹して、演出は現場に渡すという形態は、小田島さんと出口さんのシェイクスピアシアターからですね。
河合 お二人の関係は、どこから始まっているんですか。
松岡 文学座だと思う。小田島さんはもともと文学座のために訳していて、出口さんも文学座出身なんです。私が初めて見た出口演出は『十二夜』でした。そのときは小津次郎訳だったのですが。小津さんの代わりに小田島さんが入って、タッグが組まれたのではないかな。今も文学座でシェイクスピアを上演するときは小田島訳でしょう。
河合 そうですね。
渋谷ジァン・ジァンで、全作上演するぞ!となり、小田島さんが全訳をされた。
昨年、三谷幸喜さんのテレビドラマ「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」で、菅田将暉さんが、小田島さんの『シェイクスピア全集』を抱えて、バイブルだ、と言っていたのが、あの時代を反映していると思いました。その時代に私も生きていた。
松岡 私もです。
河合 それは多くの人が小田島訳を求めた時代だった。ドラマでは菅田さんが単行本を読んでいて、別の登場人物が、白水Uブックスが出てますよ、と言うの。
松岡 後に出たUブックスは、新書サイズで使いやすくてね。
河合 私も学生時代に小田島訳をUブックスでそろえていました。ケンブリッジに留学していたとき、小田島先生が下宿に遊びに来てくださったことがあるのですが、本棚にUブックスの全集が並ぶのを見て「お、ここにあるな」とうれしそうに仰っていた記憶があります。
松岡 ジァン・ジァンでの小田島・出口のタッグがなければ、若い世代にこれほどシェイクスピアは広まらなかったでしょうね。当時は、「ジーパン・シェイクスピア」と言われて、王様だろうが王子だろうが、皆ジーパンで速射砲のようにセリフを言う。小さな舞台空間でね。それが一つのスタイルとなり、かっこよさの象徴だった。
河合 シェイクスピアの面白さを最初に教えてくれたのが、シェイクスピアシアターでした。それまでは芝居といえば、幕があり、照明が入って、舞台装置があって、というお金がかかるものだったけれど、ジァン・ジァンで演じられるシェイクスピアは違った。若者のパワーで、セリフによって世界が形作られる。セリフ回しが、小田島訳はとてもかっこよかった。
松岡 それ以前、シェイクスピアを上演するのは、いわゆる新劇の俳優座や文学座でしたよね。福田さんの『ハムレット』では芥川比呂志さんが主演で、それはそれで格好よかったけれど、当時は一般に、つけ鼻に濃いメイク、タイツを履いて、という感じだったから、若い世代からは新劇と共に、シェイクスピア演劇も排除されてしまったのよね。それを出口さんが若者のものに取り戻した。その訳をなさったのが小田島さん。
河合 当時のシェイクスピアブームを作ったのは、小田島さんたちだと思います。
その頃は、鈴木忠志、寺山修司、唐十郎など、あちこちでゲリラ的に新たな演劇が行われるなか、ジァン・ジァンではシェイクスピアをやっていた。演劇があちこちで噴火している感じでした。
しかし、小田島先生が喫茶店で訳していたのは有名な話ですが、私には、どうしたら喫茶店で訳せるのかわからない。
松岡 わからない。
河合 現代版からフォーリオからありとあらゆる英語のテキストを並べないと訳せない。
松岡 喫茶店を借り切らないとね(笑)。
河合 小田島さんは、自分の詩的なイメージで訳されていたんでしょうね。
松岡 私のところにシェイクスピア翻訳の話が来たのは一九九三年でした。串田和美さんがシアターコクーンの芸術監督になり、五年の間、毎夏、『夏の夜の夢』を違うカンパニーが上演するという計画を立てて、その最後に串田さん自身が演出する。そこで新訳でやりたいと、顔見知りだった松岡に話が来たんです。驚いてね。シェイクスピア=小田島雄志訳、と思って観客人生を送っていたから、小田島さんに聞いてしまったの。こんな話が来たんだけど、どうしましょうって。
河合 そうなの?(笑)
松岡 小田島さんは、「松岡和子の『夏の夜の夢』を作ればいいんだよ」と言ってくださった。ほぼ同時に『間違いの喜劇』が来て、『ロミオとジュリエット』が来て、『ハムレット』が来て、『マクベス』が来て……。
河合 蜷川さんが、「松岡訳で行くぞ」と言ったから。
松岡 小田島訳を出口さんが上演するというパターンも、私が訳して蜷川さんが上演するという形で、引き継いだことになりますね。
河合 僕は二〇〇三年に、野村萬斎さんが世田谷パブリックシアターの芸術監督として『ハムレット』をやるときに指名いただいて。やはりシェイクスピアを訳したことがなかったので驚きました。
松岡 私の翻訳人生には、要所要所に『夏の夜の夢』があるんです。その一つとして、蜷川さんが『夏の夜の夢』のティターニアとヒポリタの二役で、白石加代子さんにオファーをかけたら、マネジメントしていた会社が断ってしまった。それを、私が加代ちゃんのところに乗り込んでいって、受けるように説得したんです。その経緯から、稽古場を覗きに行ったときに、蜷川さんに串田演出のために訳した私の訳を読んでもらった。その訳を気に入ってくれたから、『ハムレット』の訳の話が来て、「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の翻訳に繫がったのだと思います。
河合 小田島先生がシェイクスピアシアターのために、現代的なシェイクスピアへと舵を切ったのは、我々がシェイクスピアを改めて認識していく、現在に繫がる分岐点だった気がします。
松岡 一翻訳者の私が思う、小田島雄志さんの最も大きな功績は、ジュリエットが恋人を「ロミオ」と呼び捨てにしたことです。『深読みシェイクスピア』に書きましたが、坪内逍遙訳は「ロミオ殿」、久米正雄訳が「ロミオ様」、横山有策訳が「ローミオさん」、中野好夫、三神勲、福田恆存が「ロミオ様」、小田島さんが「ロミオ」。
河合 全く世界観が変わりますね。
松岡 小田島さん以降でも、大山敏子さんが「ロミオ様」。松岡和子と河合祥一郎が「ロミオ」。
文化の違いではありますがそもそも原文では呼び捨てです。ほかのやりとりでも、実際にはお行儀のいいキスをしただけなのに、ベッドを共にした男女のような親しさが、言葉上に現れています。「様」や「さん」では、原文の雰囲気が出せません。でも小田島さんが呼び捨てしていなかったら、私も思い切ってできたかどうかわからない。
河合 小田島さんは、時代の流れを感じたのでしょうね。現在ではもう、「ロミオ様」では上演できないと思う。
松岡 そうですよね。ただ小田島さんは、「ロミオ」と呼び捨てにはしたものの、二人の関係性をまだ対等には訳していなかった。ジュリエットがへりくだっていると、私には感じられるんです。ジュリエットはそのように話していないと。
河合 我々の時代のジェンダー観が、すでにシェイクスピア作品のなかに書かれているのが、興味深いですよね。
松岡 いくら男女平等で訳したいと思っても、書かれていなければ、原文を曲げることはできないですからね。シェイクスピアはさいわいにも対等に書いていたので、忠実に訳せばよかった。
河合 シェイクスピアの生きた時代は、父親がパリス伯爵との結婚を決めたら、ジュリエットは従わなければならないし、オフィーリアはポローニアスに、「言う通りにしなさい」と言われたら「仰せの通りに」と応じねばならない。そうした時代にシェイクスピアは、自分の恋路を進もうとする娘たちを描く。社会常識に則って生きられない人の心を描いているから、現代にも通じるところがあるのだと思います。
と言いながら、僕も気づかず、男性優位的な表現に乗ってしまったことがありましたね。松岡さんにご指摘いただいて。
松岡 一度だけ、翻訳に口出しをしました。
河合 『ハムレット』第四幕第四場の最後の二行連句ですが、「これからは、俺の心よ、血に飢えろ。/さもなければ男でない」と訳した。原文はnothing worthで、男なんて一言も書いてなかったんです。後で思うと、小田島先生の影響を受けていたかもしれません。「ああ、いまからはこのおれの胸のうちを、なさけを知らぬ/残忍な思いで満たすぞ、でなければ男のうちに入らぬ。」と、先生は訳しておられた。
松岡 それを引っ張ってきちゃったのね。
河合 無意識のうちにね。原文は、O,from this time forth/My thoughts be bloody or be nothing worth!で、forthとworthのライムを、小田島さんは「知らぬ」「入らぬ」と訳している。この押韻の方に意識がいったのかな。
シェイクスピア作品では、行末にライムが入らないブランクヴァースがずっと続いてきて、場面の最後や長台詞の最後に、二行連句でライムを入れて、響かせて終わるという基本形式があります。
松岡 観客にもライムが来ることで、一区切りつくと伝わるわけですよね。河合さんは、原文にライムがあるところは、全て日本語でも韻を踏んでいる。私もうまく韻が踏めたらラッキー!と思うけれど、全てはとても真似できない。
河合 最初は私もしていなかったんです。ただ、『十二夜』で、それまでずっとブランクヴァースで来たのに突然ライムが入るとか、『夏の夜の夢』で、ライムがずっと入っていたのに、ヘレナが激怒した途端なくなるとか、ライムの有無が劇的な効果になっていると気づいたんです。そこまで表現しないとシェイクスピアの意図したドラマの変化は表現できないではないかと。それで『十二夜』以降、親父ギャグと言われようと、全てやることに決めました。全体を訳した後、一度絶対ムリだぁと絶望してから、気を取り直してコツコツと韻を踏んでいくんです(笑)。
その『十二夜』第三幕第一場ですが、ブランクヴァースで来たところに突如ライムが連続してきます。「soon/noon」「spring/everything」「Pride/hide」……と二行連句が続いていき、最後は「move/love」(loveは昔は「ルーヴ」と発音した)。小田島訳でも、一か所をのぞき、韻を踏んでいます。最後は、「またいらして。あなたのお話をうかがって、/あのかたを好きになるかもしれないわ、気が変わって。」と、倒置によってライムが成立している。このやり方は、私も活用させてもらっています。
面白いのは、たとえば『マクベス』第二幕第一場の最後。「聴くなよ、ダンカン、鼓膜が破れかねないぞ、あれはおまえを天国か地獄へ招く弔いの鐘だぞ。」と、小田島先生は末尾のライムだけでなく、「かね/鐘」で遊んでいるんです。原文は、Hear it not, Duncan, for it is a knell/That summons thee to heaven or to hell.で、「鼓膜」なんて出てこないのですが、「破れかねない」と言いたかったんですね。これが小田島流の二行連句の訳し方です。
松岡 過去の翻訳を全て並べてみると、小田島さんが耳のいい翻訳家だとわかるんですよね。文字で書かれた原文から音を取り出して、同じように日本語の意味をつけていく、小田島訳の言葉遊びは耳が良くなければできません。
河合 たぶん、初めて二行連句に注目して、何とか訳出しようと試みたのが、小田島先生だと思います。
松岡 そもそも私がテクストに脚注をつけようと思ったのは、小田島訳のダジャレの元はどんな原文なのかしらと、読むたびに興味を持ったことなんです。
河合 脚注の動機は小田島先生のダジャレだったんだ。
小田島先生の言葉遊びにはいろいろなパターンがあって、たとえば『ハムレット』第四幕第三場の最後のクローディアスのセリフでは、「それをなおすのがおまえの役だ。片がついたとわかるまでは、/どんな幸運に恵まれようと、わしの胸は喜びと別れたままだ。」となっていて、「わかる/別れた」で「わか」を重ね、「までは/ままだ」と、「ま」とダ行の音を響かせている。
他にも、『夏の夜の夢』のパックのエピローグは、「皆様がたが大目に見、おとがめなくば身のはげみ。」と、「み」の音を響かせています。
『十二夜』第一幕四場では、「皮肉な巡りあわせ」「どんなにしあわせか」と、「あわせ」で響かせているのですが、私なんかは語尾に「しあわせか」と「か」が入ってしまうと押韻にはならないと考えてしまう。その辺りは、大胆に訳していらっしゃいますね。
松岡 日本語は子音も少ないし、母音は「あえいおう」の五音しかないから、英語と同じ箇所でライムを踏むのは本当に大変。私はある程度諦めていて、ライムを踏まない代りに、リズム良く文末がきちっと決まるような表現をと考えています。
シェイクスピアの作品が詩であることは重要な点で、それをいかに日本語で表現できるのを考えるようにしてきました。 シェイクスピアを訳したおかげで、見つけた日本語の特徴もあります。たとえば「さ行」はいいイメージの言葉ばかりです。オノマトペも「さらさら」「そよそよ」「しずしず」と美しい。だから、ライムがあるのがきれいなイメージの場面なら、さ行の音を持ってくるようにするとか、力強い印象の場面なら、漢語由来の言葉や、濁音の言葉が使えないかな、などと考えるんです。
河合 小田島さんはいつも朗らかで、少しはにかんだ感じで。会えば必ず言葉遊びをなさった。
松岡 孫の創志くんがご自慢で、会えば話を聞かされました(笑)。まだ小さいのに早くもダジャレ好きで、僕がこう言うと、こう返してくるんだよ、というようなことをうれしそうに話していらした。
河合 今はその創志さんが新訳をどんどん発表している。シェイクスピアはそうして引き継がれていくのだと思います。
松岡 『マクベス』の有名な「トゥモロウ・スピーチ」、Out, out, brief candle!を、坪内逍遙が「消えろ、消えろ、束の間の燭火」と、音もイメージもリズムもピッタリ訳したから、代々の翻訳者が、ありがたくそのまま使わせてもらっている。その話を何かのときに小田島さんにしたら、「それが文化だよね」とおっしゃった。素敵な言葉だと記憶に残っています。
一方で『ハムレット』のTo be, or not to be, that is the questionは、それぞれの訳者が考え続けなければならないと思うのね。「生きるべきか、死ぬべきか」は、場外ホームランを放たれた感じで、すっかり人口に膾炙していますが、シェイクスピア自身がdieという語を、この四行先で使っている。それに先行して翻訳で言ってはいけないのではないかと、私は思います。
原文に寄り添えば、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という小田島訳は見事です。私は自分の訳にはまだ納得はいっていません。
つまりシェイクスピアの作品は、そのように寄り集まって、皆で訳していかなければ成り立たないということです。もちろん一翻訳者としても、シェイクスピアの書いたとおりに完璧な表現を、と臨みます。でも意味のレベルがあり、イメージのレベルがあり、音韻のレベルがある。しかも意味のレベルは多層になっていて、たとえばハムレットがクローディアスに対し、I am too much in the sun.というとき、sunには「太陽」と「息子」の二つの意味が被せてある。フレーズを分解して、これだけのものがこの中に入っているんだとわかっても、その全てを日本語にすることはほぼ不可能で、どれを取ってどれを諦めるか、それが翻訳者それぞれによって違ってくる。だからこれだけたくさんの翻訳が出ているんですよね。ほかの翻訳者たちへの敬意と、シェイクスピアへの感嘆の気持ちが、常にあります。
河合 小田島先生は、自分はシェイクスピアのセールスマンだ、と言っていらした。その魅力、面白さを、とにかく広めたいのだと。
松岡 私は、シェイクスピアの広報担当を自認しています。シェイクスピアはこんなに素晴らしい作品を書いているんですよ、と日本語に訳して皆さんにお伝えする。翻訳もある種の広報活動だと思うんです。
河合 小田島雄志先生が亡くなり、一つの時代が終わったと感じています。それでもシェイクスピア翻訳は続いていく。
松岡 今年だけでもシェイクスピアがいくつ上演されていることか。観客のシェイクスピアリテラシーが上がっていると思います。そこには、小田島さんのお仕事が大いに貢献していますよね。
河合 お父さんとお姉さんの志を受け継ぎ、シェイクスピア全訳、がんばります(笑)。(おわり)
小田島 雄志氏(おだしま・ゆうし=英文学者・翻訳家・東京大学名誉教授)六月八日、老衰のため死去。九五歳。
一九三〇年旧満洲生まれ。東京大学英文科を経て、同大大学院修士課程を修了。
八〇年にシェイクスピア戯曲全三七作の個人訳を果たし、「シェイクスピア全集」を完結した。その訳は演出家・出口典雄主宰の「シェイクスピア・シアター」ほか、多くの上演に用いられている。東京芸術劇場館長、読売演劇大賞選考委員などを歴任。
演劇評論家としても活躍。歌舞伎、落語、宝塚歌劇、小劇場演劇など幅広く論じた。著書に『小田島雄志のシェイクスピア遊学』『シェイクスピアの人間学』など。〇八年には私費を投じ「小田島雄志・翻訳戯曲賞」を設立。酒、マージャン、パチンコを愛した。
★まつおか・かずこ=翻訳家・演劇評論家。旧満州生まれ。二〇二一年シェイクスピアの戯曲の完訳を達成。著書多数。まもなく『シェイクスピア 私はこう訳してきた』が刊行される。一九四二年生。
★かわい・しょういちろう=東京大学名誉教授・英文学者。シェイクスピア戯曲の新訳を進行中。二〇一四年に立ち上げたKawai Projectで新訳・演出作品を上演。著書に『ハムレットは太っていた!』(サントリー学芸賞)『シェイクスピア 人生劇場の達人』など。一九六〇年生。
