2026/06/26号 5面

昭和に挑んだ作家たち

昭和に挑んだ作家たち 佐高 信著 川口 則弘  AIが小説をつくる時代がやってきた。筋立てを楽しむだけならAIの産物で満足できるかもしれない。だが、作家について論評するような試みは、やはり人が書かないと味がない。生きた人間をどう見るか。理路整然と答えを出すことなどできないからだ。本書もまた、対象の作家に対して著者の主観が強烈に押し出ている。だから、めっぽう面白い。  「はじめに」で著者は司馬遼太郎を引き合いに出す。『朝日新聞』『産経新聞』『文藝春秋』と、立場の違うメディアがこぞって、自分たちこそ最も司馬に近いと言いたがることを指摘した上で、司馬の作品には歴史や人間に対する追求が足りない、だからこそ誰にも好かれる「国民作家」なのだろうという。対して、社会もしくは時代と切り結んだ表現者として二十人の作家に注目し、それぞれのリアルな人物像を取り上げる。彼らがいかに社会の不条理や権力に対峙したか。いかに毒を持ち、危険な存在だったのか。中心はその点に据えられる。  章は四つに分かれている。「人生の哀感を描いた「大衆小説家」」、「経済/社会派小説の旗手たち」、「戦争と「昭和」の傷痕を記録する」、「「文学」の先端で」。かつて対談で意見を交わした井上ひさし、金時鐘、筒井康隆などもいる。近しい間柄だった城山三郎や中薗英助、共著で『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』を出した澤地久枝もいる。それぞれ直接会った印象の他に、周辺から聞いた細かなエピソードが豊富に用意され、人間くささが浮き彫りにされていく。  例えば、トラベルミステリーで一世を風靡した西村京太郎は、本当は戦争を描きたかった作家だと語られる。精神力があれば戦争に勝てると主張して多くの人を死に追いやった東條英機に、西村は怒りを隠さなかった。さらには自身が原作のテレビドラマは刑事を格好良く描きすぎだ、と不満をもらした姿も紹介する。温顔の裏では常に権力に対する反感を抱えた人だったのだ。  あえて作品論には踏み込まず、からめ手から人物に切り込む手法は全編に貫かれる。「生涯の敵」だという三島由紀夫を評するときも、やはりそうだ。冒頭、アメリカで活躍したコメディアン、タマヨの話題がいきなり語られる。彼女がアメリカの舞台でユキオ・ミシマの名前を出しながらハラキリをジョークにして笑いを取った、という話につながって、なぜ三島が自決を選んだのか、その思考を探っていく。  読み進めると、山田太一の項に次のような言葉が引用されている。著者が独立したとき、記念の文集に山田が寄せたという一文だ。  「佐高さんは、知り合った時から、今日あるを感じさせました。」「偏見も適当にあって、その魅力も充分フリーライターとして存在を主張し得る力を持っております。」  「偏見も適当にあって」というところが核心を突いている。人間にとっての信念や矜持は、本書の軸とも言える大事なものだが、それらは多少の偏見がなければ生まれ得ないからだ。  著者がフリーになってまもない頃、『華麗なる一族』を経済小説として取り上げたいと山崎豊子に電話したところ、私は経済小説のつもりで書いたわけじゃない、と門前払いをくらったという話が出てくる。そこを読んで思い出した。私も昔、編集プロダクションで朝日生命のPR誌をつくっていたが、佐高信にインタビューを申し込んだことがある。すると、私は一企業の宣伝になるような仕事はお断りしているんです、申し訳ない、とピシャリと拒絶されたのだった。なるほど、筋の通った人だなと納得してすがすがしかった。  と、個人的な思い出を書評に書くのは邪道には違いない。しかしこういう逸話をもって紹介するのに、きっと本書はふさわしい。生身の人間同士が関わるところに社会がある。社会があって初めて文学は成立する。そのことを明確に示した本だから。(かわぐち・のりひろ=直木賞研究家)  ★さたか・まこと=評論家。高校教師、経済誌編集長を経て執筆活動に入る。著書に『逆名利君』『城山三郎の昭和』『田中角栄伝説』『石原莞爾 その虚飾』『玉木、立花、斎藤、石丸の正体』など。一九四五年生。

書籍

書籍名 昭和に挑んだ作家たち
ISBN13 9784582861037
ISBN10 4582861032