2026/01/23号 4面

知性の復権

知性の復権 先崎 彰容著 梶原 麻衣子  「保守派は一体、何を『保守』しようとしているのか」「あれで本当に『保守』を名乗れるのか」  そうした声は日増しに聞かれるようになっている。本書の副題が〈「真の保守」を問う〉なのも現状を憂いてのことであろう。  本書の第三章はズバリ〈「保守」という言葉の混乱〉である。先崎氏が指摘する通り、現在の政界ではあらゆる政党の議員たちがこぞって「我こそは保守である」と名乗りを上げている。だが目指すところ、重んじるものはそれぞれまるで異なっている。まさに混乱状態だ。  ついには「保守党」を名乗る政党も登場し、国会に議席を有した。だが彼らの振る舞いや主張は、率直に言って「謙虚であり寛容」「自制的」といった保守の最大公約数的な姿勢にはとてもではないが当てはまらない。誰も彼もが「保守」を名乗りたがるブームの産物というほかない。粗製乱造される保守のありさまに、真面目な人ほど「保守を名乗るのが恥ずかしくなった」と言い出すほどだ。事態は極まっている。  だが諦めるわけにはいかない。リベラルも瓦解が指摘される中で、「真の保守とは何か」を論じる必要性は今まさに高まっているのだ。その際に必ず参照されるのがエドマンド・バークだが、先崎氏は〈正直、これで深くうなずき、納得するには不十分です〉としている。全く同感だ。  キリスト教的な価値観を背景に持つ西欧の保守主義のみを引いて日本の保守を語ろうとしても、そこには彼我の大きな断絶がある。歩んできた歴史も、使う言語も、下地となる価値観もまるで異なる。先崎氏が本書で山路愛山に始まる明治思想史をたどるのは、「日本の保守」とは何かを考え、それをもってこれまでの日本を腑分けし、現代の病状を診断するためである。  先崎氏による腑分けの過程で、読者は意外な真実を知ることになる。旧来の保守派がある意味では美化し、取り戻さねばならないと考えてきた明治時代の施策が、実は「保守」を体現するものではなく、むしろ個人主義を推し進める流れにあったと指摘されているからだ。  明治の頃、先人たちは列強に追い付け追い越せとばかりに性急な改革を行った。それに対し、当時の保守主義者は〈欧米への反発と国権(ナショナリズム)を主張〉してこれに対抗した、と本書は指摘する。  では現在の日本の保守派はどうかと言えば、欧米のリベラリズムには反発するものの、欧米の保守派(右派)の論理はやすやすと受け入れてしまう状況にある。特にSNSを通じて流入してくる移民問題やLGBT問題での対立、男女間対立などをそのまま日本社会に持ち込み、日々分断を深めている状況だ。  もちろん令和の日本は明治の日本とは違う。だが欧米とはもっと違うのではないか。本書の議論は、そうした大前提を思い出させてくれる。  歴史の縦軸の流れを重んじる保守がこれから取り組むべきは、その縦軸の先、延長線上にある未来を考えることだ。先崎氏は最終章で、〈令和日本のデザイン〉と題する処方箋を提示する。  なかでも、〈今、わたしたちは「死者の論理」を直視する段階に来ています〉として、有事における自衛官などの犠牲者をどのように祀り慰霊すべきか、議論の必要があるとしている点に注目したい。  実は自衛隊内では二〇〇三年から始まったイラク派遣の際に、自衛官に死者が出た場合の想定を行っており、イラクには万が一の事態に備え、棺も持ち込まれていた。自衛官はここまでの覚悟をしている。では国民に、自衛官に危険な任務を命ずる政治家に、「死者の論理」を直視する覚悟はあるか。  高市総理の「存立危機事態」発言は物議をかもしたが、どうもうわべだけの議論に終始している。何せ総理自身が批判を受けて「本当は言いたくなかった」などと発言する始末である。  だからこそ「時代を腑分けするメス」をもって今を診断する、先崎氏の問いかけが鋭く光る。時代の診察者は、病状があるからこそ必要とされるのだ。(かじわら・まいこ=フリーの編集者・ライター)  ★せんざき・あきなか=社会構想大学院大学教授・日本思想史。著書に『違和感の正体』『未完の西郷隆盛』『国家の尊厳』『本居宣長』など。

書籍

書籍名 知性の復権
ISBN13 9784106111051
ISBN10 4106111055