山下徳治と日本の民間教育運動
前田 晶子著
鈴木 和正
山下徳治(一八九二―一九六五)という教育学者をご存知だろうか。おそらく、ほとんどの読者がその名を聞いたことがないだろう。教育学や教育史の専門家でさえ、彼の全貌を語ることは容易ではない。なぜなら、山下は、「一九三〇年代初頭の新興教育研究所・日本教育労働者組合運動(以下、新教・教労運動)の立役者として検討されてきたが、その教育思想の全体を取り上げられることはなく、彼の形成史も明らかにされないままに忘却されてきた人物」だからである(ⅰ頁)。したがって、彼は激動の時代を生き抜いた「忘却の教育学者」と言えようか。
山下の略歴を紹介すると、彼は鹿児島県に生まれ、鹿児島県師範学校を卒業後、訓導の道を歩んだ。一九二〇年には東京の成城小学校に赴任し、その後、ドイツのマールブルク大学において四年間の留学を経験し、二回にわたりソヴィエトにも訪問している。帰国後は、新興教育運動や教育科学運動に参加し、戦前の民間教育運動において中心的な役割を果たした。戦後は、健民少年団およびスポーツ少年団の結成に尽力し、スポーツ教育の発展に大きく貢献した。なお、一九四一年に婚姻により森姓を名乗るようになり、戦後は「森徳治」として執筆活動を行った。
本書は、著者である前田晶子氏が十五年もの歳月をかけて、山下の難解な教育思想や形成史の解明に果敢に挑んだ「格闘の書」である。また、「山下徳治のモノグラフをひとまとまりのものとして描き出すことを目的」とする意欲的な労作であり(ⅱ頁)、教育史学界のみならず「戦後教育学」の歴史研究にも資する学術書である。
本書の構成は次のとおりである。
序章「発達研究における発生論への着目」
第Ⅰ部「山下徳治における発生論の形成」、第1章「鹿児島・台湾における訓導時代」、第2章「成城小学校での教育の具体的展開」、 第3章「ドイツ・マールブルク大学における思索」、第4章「ドイツからの帰国とソヴィエト訪問」
第Ⅱ部「一九三〇年代の教育研究運動と教育計画」、第5章「山下の新興教育構想」、第6章「山下はなぜ「教化史」を書いたのか」、第7章「学制改革論と児童学への期待」
第Ⅲ部「戦後の研究とセルフデザイニング論の展開――スポーツ教育論を中心に」、第8章「「ペスタロッチからデューイへ」という問題構制」、第9章「生い立つ思想とセルフデザイニング論」、第10章「未完の書「日本教育の再発見」へ」
終章「教育学と発生論的発達論」
前田氏は、石川謙日本教育史研究奨励賞を受賞された俊才であり、現在は東海大学の教授を務めている。前任校である鹿児島大学在籍時、山下のご子息から同大学へ資料寄贈の依頼を受けたことにより、三百点を超える膨大な資料の整理に尽力された。その成果として、鹿児島大学附属図書館所蔵「山下(森)徳治文書」目録一覧をまとめられ、現在ではオンラインで検索可能である。前田氏が後続の研究者や一般市民に対して広く資料にアクセスする機会を提供したことの意義は計り知れず、これは偉大な功績である。
歴史研究では、資料との巡り合わせが思わぬ発見をもたらすことがある。本書の魅力の一つは、前述した新資料を豊富に活用し、前田氏の鋭い洞察力が遺憾なく発揮されている点にある。前田氏は、本書のあとがきにおいて、「鹿児島の地で、彼の残した資料に接しながら本研究に取り組めたことは、有り難い幸運であった。鹿児島の町や海、島々の風景と重ねて彼の原稿を読むことができたからである」と述懐されている(二四九頁)。まさに、前田氏と研究対象である山下が一体となり、本書が完成したと言える。
新教・教労運動研究の門外漢である評者が書評を行うことには限界があり、また紙幅の制限もあるため、最も重要であると考える論点を述べて締めくくりとしたい。
本書の真骨頂を一言で言うなら、「彼が提起したセルフデザイニング論が、現代における教育学の『発達』をめぐる問題に対する一つのオルタナティヴを示すことになるのか」という学術的な問いを(一四頁)、多くの新資料を用いた具体的かつ丁寧な実証的手法をもって見事に解明し得た点にある。なお、セルフデザイニング(造形)論とは、一般的な芸術論とは異なり、「人間の表現活動は、意図的・無意図的に形成されてきた自己像を主体が構成し直すことを指して」おり、本書においては、「『自ら成る主体』を人間の自然性に立ち返って作り直すというそのダイナミズムを『セルフデザイニング』という言葉」で捉えている(二〇二頁)。
評者も特定の教育実践家の教育思想や形成史を描き出すことに試行錯誤する学徒であり、前田氏の研究から学ぶことは多い。総じて、本書は教育学の研究者のみならず、教育に関心を持つすべての人々にとって必読の書である。前田氏の卓越した研究成果を通じて、教育学の新たな地平を切り開く一助となることを期待する。(すずき・かずまさ=常葉大学教授・教育史)
★まえだ・あきこ=東海大学教授・教育史。編著に『教師を支える研修読本』など。
書籍
書籍名 | 山下徳治と日本の民間教育運動 |
ISBN13 | 9784623099160 |
ISBN10 | 4623099164 |