2026/07/10号 5面

「コスタ・ガヴラスの映画について」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)444(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 444 コスタ・ガヴラスの映画について  JD ケン・ローチの見ようとする世界は、彼の映画に代弁されているように、非常に単純なものです。悪がいて、正義がある。悪いのは社会であって、労働者の側は正しい。しかし彼は、その社会が労働者によっても成り立っていることがよくわかっていないのです。悪は、味方の側にもあれば、敵の側にもある。全ての人々の中に正義があり悪がある。世界が、そうした曖昧なものであることに対して、全く関心がありません。彼の映画において、主人公たちは最初から最後まで純真なままであり、周囲の人々は絶対的に悪であり続ける。  HK 大昔のハリウッドで、正義の側が白い服装で、悪が黒い服装で表されていたようなものですね。  JD まさにその通りです。映画にそうした表現法があり、そうした物語叙述法はアメリカ映画においてとりわけ発展し、長年にわたり形を変えながら世界中で使用されてきました。今日の映画の演出においては、もはや意識しなくなったほど、自然に演出の中に組み込まれています。物語の登場人物を、それぞれ類型的に分類し、役割を与え、ちょっとした変奏を加えるだけで、それなりの物語が完成するようになっているのです。しかし、そうした知的な操作によって作られた作品は、決して面白いものではない。そこには……生が欠けているからです。知的に作られたものは、知的に理解され、知的に説明されるだけです。作者の考えを乗り越えることがないのです。  ケン・ローチの映画に話を戻すと、私は彼の映画に難癖をつける気はありません。イギリスの映画史において、そこそこのメロドラマを作る映画作家である。そのまま自分の映画を続けていけばいいでしょう。ただ私は、彼の映画に全く興味がない。彼が何をするか、何を言いたいのか、どんな映画を作るかは、わざわざ新作を見なくてもわかります。新しい題材を見つけること、新しい演出法を発見し試してみること、そうしたことは行われません。  HK コスタ・ガヴラスの映画に似たところがあるのでしょうか。ドゥーシェさんから、コスタ・ガヴラスの映画について話を聞いた覚えはほとんどありません。  JD コスタは昔からの友人で、とても感じのいい人です。けれども彼の映画について、私が話をしないということは……理由は察してください。コスタは、大昔は大きな成功を収めていました。その映画を高く評価する人々もたくさんいた。『Z』、『告白』、『戒厳令』など、イヴ・モンタンと撮影した作品は、いわゆる〈政治スリラー〉というジャンルにおける傑作です。ギリシャ、チェコスロバキア、南米などの独裁政権化における実際の事件を元に映画を作っていました。そうした事件を抽象化し、舞台を別の場所に変え、映画化していました。しかし、背景にある事件を知っている人からすれば、何を題材に映画を作っているか理解できるものです。  彼の映画は、フランスだけでなく、共産主義の国々でも上映され、高く評価されていました。六八年革命の前後の観客は、現在の観客よりも、政治や社会に対する意識が高かったので、彼の映画は非常に受けが良かったのです。コスタの映画は、ケン・ローチのものと比較するまでもなく、強固なものでした。一般的に言って、現実は虚構を乗り越えます。世界中の独裁政権が行なっていたことは、私たちの日常からは考えられないようなことでした。チリの独裁政権が、政府に反対する人々を完全に消し去り、歴史から抹殺した事件などは、とても信じられないことです。そうした事件があることは、例えばフランスなどの国では多くの人の関心を惹いていたので、七〇年代はコスタの映画は時代と合っていました。  彼の取り上げる題材は、タブーとされていた内容を映画にしていた。しかし、ロミー・シュナイダーと映画を撮ったあたりから、翳りが見えてきました。コスタは、政治的題材を見つけ出す力はあり、そのこと自体は良いのですが、演出力などが特段優れた映画作家というわけではありません……。  HK 七〇年代の批評を読むと、『カイエ』派は、コスタ・ガヴラスの映画に対して結構手厳しい見方をしています。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)