蓮實重彦氏ロング・インタビュー(聞き手=王寺賢太)
<フィクションにおいて真の意味で読まれるべきものとは>
『大江健三郎論集成』(講談社)刊行を機に
仏文学者・映画批評家の蓮實重彥氏が五十年にわたって発表をしてきた〈大江健三郎論〉に加えて、新たな書き下ろしを加えた『大江健三郎論集成』(講談社)を上梓した。初期の短篇から晩年の作品までを網羅する。刊行を機に、蓮實氏にお話をうかがった。聞き手は東京大学教授・王寺賢太氏にお願いした。 (編集部)
王寺 『大江健三郎論集成』は、第Ⅰ部に一九八〇年刊の『大江健三郎論』、第Ⅱ部に八九年刊の『小説から遠く離れて』、第Ⅲ部に「後期作品を読む」として、二十一世紀に入って大江さんが旺盛に書き継いだ散文のフィクションのうち、最後の三作の批評を収めています。補遺に収録された短評・対談・追悼文まで含め、この本を読むと、蓮實さんにとって、フランス文学研究の最大の対象だったフローベールとともに、日本文学批評の最大の参照項として大江健三郎があったことが強く感じられます。お二人は東大仏文のほぼ同世代の同窓生でありながら、ほとんど直接の付き合いはなく、互いに葛藤を抱える関係であったかと思います。しかし本書を読むと、両者の仕事には少なからぬ交錯が見受けられる。ですから今日は、本書の構成にしたがいながら、蓮實さんの仕事の変遷を大江さんの作家としての変貌と交差させるようなかたちでお話をうかがいたいと思います。適宜、最近文庫版が刊行された『『ボヴァリー夫人』論』にも触れさせていただければ幸いです。
『大江健三郎論』は、蓮實さんが一九七〇年代に批評家としてデビューされた時期の最大の成果の一つです。この本には、蓮實さんの大江さんに対するポレミカルな関係がよく現れている。なにより小説をその物語内容に還元し、そこに政治的なメッセージや作家の思想の表現を認めるような、当時の文学観に対する批判においてです。蓮實さんはこの点で、大江さん自身に対しても辛辣な批判を向けておられます。たとえば初期作品の大江は「遅れてきたロマン主義者」として切って捨てられ、『個人的な体験』や『万延元年のフットボール』についても、真実の開示を介して主人公が再生・再出発を遂げるという図式のメロドラマ性が指摘される。けれどもその一方で、蓮實さんは大江さんのテクストに物語内容には還元できない「数字」があふれていることに注目し、この数の主題論的体系と説話論的構造の連携に大江作品の傑出した点を認めます。私にとって感動的なのは、蓮實さんが、作家・大江健三郎に食ってかかりながら、大江作品の読解を通して、その言葉の組織のされ方のレヴェルで政治性を見出し、それを最終的に天皇制批判に結びつけるところです。まさにこの地点で、蓮實さんは大江さんにふたたび合流する。まずはこの両義性・二面性についてうかがいたいのですが、『大江健三郎論』の前年刊行の『表層批評宣言』でも、蓮實さんはさかんに大江さんにケンカを売っておられましたね。
蓮實 ちょっかいを出しているだけです(笑)。
王寺 『表層批評宣言』のあとがきでは、「現代日本のもっとも優れた作家」が、蓮實重彦という名前が印刷されているのを見るや、その雑誌をくず籠に放り投げる、という忘れがたいエピソードも伝えられていました(笑)。あの本では、大江さんと江藤淳さんを並べて、互いに対立し合っていると思っているけれど、「薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」」の磁場を共有しているにすぎない、とも断定されています。このようにして、六〇年代・七〇年代の文学的・政治的な対立を、その対立の場もろとも退けるというふるまいは、批評家デビュー当初の蓮實さんに典型的なものでした。当時、蓮實さんは大江さんの何に対して苛立っておられたのでしょうか。
蓮實 大江さんその人に苛立ったことはありませんが、大江さんの周辺で起こっていることに苛立ったことはあります。大江さんを利用しようとする人たち、それは左翼が多かったわけですが、そのことよりも『大江健三郎論』という書物が、わたくしの代表作の一つだと考えられていないことに対する強い憤りは間違いなくありました。今回本をまとめるにあたって、『大江健三郎論』を詳細に読み直し、細部に手を加えましたが、それは著者として強い拘りを持っているこの書物が今日の読者に読まれて欲しい。ただし読む人は少ないだろう。ならば代表作の一つだと思っている書物を含めた『大江健三郎論集成』を出せば、少しは形が整うかなと思ったからです。
当時から、大江さんについては絶対に書かなければいけないと思っていました。多くの人が書いてはいるが、その大半は拙劣なものだったからです。わたくしの同世代にはまともな大江健三郎論がなかった。誰も作品を読んでいない。その言葉も読んでいない。ならば自分は言葉だけを読んでやろう、言葉の中でも「数」だけに注目して書いたわけです。それに対する大江さんからの反応は、何もありませんでした。ただ、あれ以後、大江さんが「数」について書くことをぴたっとやめてしまった。たまたまそういう時期にあの本が書かれたのか、それとも本を読まれることでおやめになったのかはわかりません。あの本で大江から「数」を奪ってやったと鼻高々に言い張るつもりもありませんが、なぜか大江さんがぴたりと数字を語らなくなった。わたくし自身は、それを良いことだと思ったわけです。あれだけ必死になって数字を集めた『大江健三郎論』が、大江さんにとって肯定的に機能したのではないか。それは大江さんが数字を書かなくなったと同時に、言葉とは異なる何かに向けて移行しはじめる、それがどこかはわからないけれども、その移行のきっかけになったのではないか。その意味でわたくしほど大江に大きな影響を与えた人間はいない。そう自覚したいと思っていますが、そこには若干の恥ずかしさというか、大江さんに対してはもう書いちゃったんだから仕方ない、これからは「数字」とは異なるものを書いてくださいというわたくし個人の強い意志がありました。それが大江さんを動かしたとまでは言いませんが、そうなったことに関して、二〇世紀の日本文学におけるわたくしの地位を正確に測定していただきたい。そう言う人が出てくれるまで、しつこく大江さんについて書こうと思っています。
王寺 大江さんは実際、『同時代ゲーム』以降、小説の中に数字を氾濫させることはやめてしまいます。先ほど申し上げたお二人の交錯の一つですね。ただし、この点に関してはもう一つ、蓮實さんが『万延元年のフットボール』について指摘された重要な主題もあります。複数者と対立し拮抗する「制度的な一」、「役割としての一」の発見、そして、この「定員一」の場所に「二」の葛藤を導入するという主題です。大江さんはこの主題を晩年の「おかしな二人組」三部作でふたたび正面からとりあげることになる。これも蓮實さんと大江さんのもう一つの交錯点かもしれません。
『大江健三郎論』を読むと、大江作品を語る場の貧しさに蓮實さんが苛立っていたことはよくわかります。ただし、蓮實さんには、当時の文壇で大江さんが代表的知識人としてふるまっていたことへの違和感もあったように思えます。私がうかがいたいのは、その違和感がどのあたりから来るかということです。蓮實さんは、大江さんと同じ一九五〇年代後半に東大仏文で渡辺一夫に教えを受け、六〇年の安保闘争の時には渡辺さんの書いたプラカードを掲げて国会デモの先頭に立ったという経歴の人でもありますから。唐突なようですが、蓮實さんはフーコーをいつ読まれましたか。
蓮實 フランス滞在中、帰国する直前です。ただし、その時フランス語で読んで理解したとは思えません。帰国後に改めて読み返し、肝心な部分に注目しえたということです。
王寺 『狂気の歴史』初版が一九六一年、『言葉と物』が一九六六年の刊行ですね。
蓮實 フーコーの名前は、モーリス・パンゲ先生のゼミでよく聞いていたので、パリに着いて最初に買った本が『狂気の歴史』でした。帰国後に読んだ『言葉と物』から大きな影響を受けたことはいうまでもありません。
王寺 なぜフーコーについてお尋ねしたかというと、渡辺一夫のユマニスムについてどう考えるかはさておき、七〇年代以後、ユマニスムなり、人間主義なり、あるいはそれに依拠する戦後民主主義に対して蓮實さんが距離をとるようになったきっかけには、六〇年代のフランス思想から受けた刺激があったのではないかと思ってきたからです。「人間」という形象をどう考えるかという点で、蓮實さんと大江さんには分岐があった気がする。蓮實さんは一方で「人間」という形象をけっして手放そうとしない方でもありますが、とはいえ、その「人間」はもはや政治的解放や変革を基礎づけるような確固とした実体ではなくなっている。この点、蓮實さんに一番大きな転回をもたらしたのは、ドゥルーズでもデリダでもなく、実はフーコーなんじゃないかと思えるんですね。
蓮實 そう思います。『言葉と物』は最初読んだときにはよく理解できなかったのだけれども、あれだけ一八世紀末の転換について語りながら、「革命」という言葉がまったく出てこないあの本には、なにか新しいものが出てきたぞ、と感じたことはよく覚えています。
王寺 『大江健三郎論』では、数字のテマティスムを通じて、最終的に定員一をめぐる双極的な葛藤という主題が取り出される際に、ここで問題になる「制度的な一」とは「現代日本の「歴史」と深いかかわりを持つ」「万世一系と呼ばれる「役割」」であると明言されています。ただし「終章」では、当時『政治少年死す』を読めない状況にあったがゆえに、天皇制についてはその数的構造についてしか語れなかったとも言われています。『小説から遠く離れて』の頃まで、蓮實さんは日本文学の政治性の問題を語る際に、折に触れて「天皇」に言及されてきたと思います。今から振り返ると、多数者を統合する「一」として天皇制の問題を捉え、そこに「二」の葛藤を置き換えようとするという姿勢は、それ自体、構造主義的でもあれば冷戦構造的でもあるようにも見えますが、『政治少年死す』が自由に読めるようになった現時点で、六〇・七〇年代の大江さんの小説の政治性、特にその最大の焦点とも言える天皇問題に関して、なにか付け加えておきたいことがあるでしょうか。
蓮實 わたくしは「天皇制」というものについて真剣に考えたことは一度もありません。天皇が天皇として機能していないことを、間近から見てしまっているからです。学習院の卒業式でその姿を見て、この人は何もできないだろうと思いました。同時に、かりに天皇から力を得ようとする者たちが近づいても、それをも跳ねのけるような妙な威光が天皇にはあった。いくら三島が天皇と言っても、三島は天皇にはなれないし近づくこともできない。逆に「反天皇」という言葉を口にしても、それが具体的に何であるか、誰も理解しようとしなかった。現在まで、そういう気持ちでおります。
王寺 深沢七郎の『風流夢譚』や大江さんの『政治少年死す』以降、六〇年代は天皇制について語ることが難しくなった時期でもあるとされますが、そうした状況に対する違和感が、『大江健三郎論』では、説話論的な機能のレベルで天皇を問題にするというかたちをとったということになりますか。
蓮實 はい。ある種の対象化ということです。
王寺 この点では、以前から少し不思議に思っていることがあります。安保闘争で天皇が問題になったことなどないにもかかわらず、その直後、深沢、大江、三島由紀夫らがいっせいに天皇について書きはじめたことです。蓮實さんの『大江健三郎論』まで含め、あたかも「天皇」という言葉を口にすることが、文学と政治のかかわりを保証する手段になっていたようにも思われる。この安保闘争後の作家たちの動向について、蓮實さんに何かお考えがありますか。
蓮實 いえ、当時もまったくわかりませんでしたし、今も特に考えはありません。
王寺 『大江健三郎論』は、小説の書かれ方のレヴェルで政治性を問題にするという点できわめて斬新であっただけでなく、テクストを読むことについて蓮實さんが続けてこられた理論的な反省の一つの到達点を示すものでもあります。その到達点は、「主題論的体系」と「説話論的構造」という二つの視角をもちこみ、両者を脱構築的に交配するというところに認められる。主題論にせよ、説話論にせよ、作品の中で無方向に立ちさわぐ無数の言葉を、その照応や連鎖に即して語るための道具立てにすぎず、それに訴えること自体が「倒錯者の戦略」なのですが、蓮實さんはその際、主題論的細部を呼び寄せずには説話論的構造などありえないが、まさにそれゆえに、説話論的構造をそなえた小説はその構造から逸脱せざるをえない、という二律背反的な関係を両者の間に認める。この点は、デリダから着想されておられると思います。作品の中に葛藤を導入する実に刺激的な道具立てですが、フランスの文脈で言えば、「主題論」の方はバシュラールやリシャール、「説話論」と言えば、バルト流の物語の構造分析やトドロフやジュネットらが提唱しはじめていた話法の分析に結びついていて、蓮實さんのようにこのふたつのアプローチを一つの読解の中で機能させた人はまるでいないわけですね。
蓮實 そう。それは、誰も批評家であろうとはせず、研究者であれば充分だと思っていたからだと思います。ジュネットは若干批評家としての自分を維持したいと思っていたかに見えましたが、彼は批評家的な才能はまったくなかった。作品について何かハッとしたことを書いたかといえば、何も思い出せない。
王寺 蓮實さんが、大江健三郎に反して大江健三郎を読むという批評的スタンスをとることができたのも、「主題論的体系」と「説話論的構造」の間に脱構築的な関係を見るという姿勢から来るわけですね。
蓮實 それは大江健三郎に反してというのではなく、大江健三郎という人間より、彼の書いた言葉の方が遥かに刺激的だと思っていたからだと理解してください。
王寺 その意味では、蓮實さんの読解の作法そのものが、大江健三郎のテクストに触発されて成立したとも言える。ただ、蓮實さんの批評と言えば、テマティスムと物語批判といった符牒でかたづけられてしまうことが多いので、この二つの分析視角の交配こそが重要なのだということは強調しておきたい。というのも、今時の学生たちの論文を読んでいると、往々にして主題論的分析はうまいことやっているのに、作品論として物足りないという例が見受けられるからです。説話論的視点が欠けているがゆえに、作品の統一を捉え損ねているように思えるんですね。
蓮實 分析においては非時間的に扱われますが、物語というのはやはり時間の問題です。そして時間というものは、テマティックのテーマのように足跡を残さない。そこに足跡を探り当てなければいけないという点においては、説話論的構造をとりだすことの方がむずかしいからでしょうか、あまりやっている方がいません。
王寺 『大江健三郎論』で、蓮實さんがむしろ「説話論的持続」という言葉を使っておられるのも、作品を一望することなど誰にもできないことを踏まえた上で、物語の構造をその展開に即してどうとらえるかを考えておられたからでしょう。だからこそ、『大江健三郎論』は作品論としても、小説を読むことについての理論的考察としても、非常に優れた成果になっていると思います。
ただし、蓮實さんは八〇年代にはその作品論を迂回することになります。ここから「複数の作品をめぐって」と題された第Ⅱ部に入っていきますが、『小説から遠く離れて』では、大江健三郎、中上健次、石川淳、村上龍、井上ひさし、村上春樹、丸谷才一といった作家たちの七〇年代末から八〇年代の長編小説を同じ説話論的構造に還元し、すべての小説がひとしく〈「黒幕」の指令を受けて「宝探し」に乗り出す双子のきょうだい〉の物語を語っている、と喝破してみせる。ただし大江と中上だけが、この図式に抗うものをもっているとして、二人を特権化するわけですね。大江に関してはそのとき、「二」のテーマが回帰します。たしかに『同時代ゲーム』では、双子の兄妹という「二」は、父の「一」によって統合され、反エディプス的で「神話的な三角形」の物語に回収されてしまうように見える。この「二」と「三」の抗争は、すでに『大江健三郎論』で『みずから我が涙をぬぐいたまう日』について指摘されていたことでもあります。しかし、蓮實さんは『同時代ゲーム』の「神話的三角形」に「輝くバターの色の丸い臀部」の円形・球形のイメージを対置し、「二」の葛藤を再導入して、大江作品の特異性を説くわけです。大江と中上についてはさらに、作中で子の立場に置かれたものが、父との関係を絶ち切って「私生児」になろうとすることに注目し、これを小説の私生児性と結びつけながら、前近代的な「物語」の反復と、個の切断の契機なしにはありえない近代的な「小説」の違いを強調しておられたと思います。
最近の大江論や大江研究を見ても、柳田國男や折口信夫らの民俗学的知見と大江の作品世界の照応関係を探り、大江の思想について語るのはちょっとした流行のようです。しかしその際には、問題になっているのが小説であること、そして何より作品を読むべきことは往々にして忘れられる。この点で『小説から遠く離れて』の大江論が今読み返される意義は大きいと思います。しかし同時に、ここで蓮實さんが作品論を迂回していることは見逃せないところです。七〇年代、あれだけ主題論的分析に即して作品論を語り続けていた蓮實さんが、八〇年代にはそこから距離をとるようになった。この本でも、小説というジャンル自体の衰退について触れておられますが、当時どのように感じておられたのでしょうか。
蓮實 とりわけ日本文学における一篇の作品を詳細に読むことをしなくなっていたのは事実です。七〇年代の後期からは、『凡庸な芸術家の肖像』を書くことに賭けていて、休みになると必ずフランスに行っていました。当時は国立図書館リシュリュー館の特別室に行かなければ、デュ・カンの資料なんて読めませんでした。それらを必死になって読み、その凡庸な芸術家の面白さというものに、どれだけ日本の作家たちが立ち打ちできるのか。そんな作家たちの小説作品を読むよりは、いま自分が取り組んでいるものの方が余程面白いだろうと思い込んでしまった。それは思い込みですから、どうしようもありません。
王寺 『小説から遠く離れて』と『凡庸な芸術家の肖像』はペアになる本ですが、この『凡庸な芸術家の肖像』に関しても、『『ボヴァリー夫人』論』を迂回して書かれているわけですね。その際、主題になったのは、小説作品そのものの成立をとりまく歴史的な条件を言説の流通の体制に即して描き出すことだったと思います。この点、個人的には、おおよそ一九八九年ぐらいを境に、批評家が作品論をやらなくなってしまうこととかかわるように思ってきました。蓮實さんのみならず、蓮實さんに刺激を受けて批評家としてスタートした絓秀実さんや渡部直己さんも、積極的に作品をその外にかかわらせる方向に転換していく。昭和天皇が亡くなり、冷戦構造が終わる時期、文学においては、作品論がそれだけでは批評として機能しないような状況が来ていたようにも思えるんです。
蓮實 八八年までは季刊誌『リュミエール』の編集をしており、映画の方が面白いと思っていました。事実、新しい映画作家がどんどん出てきていた。それに対して文学は、世界的に見ても面白い作家なんていないという強い意識があったことは間違いありません。
王寺 そうして九〇年代、蓮實さんが文学の批評から距離をとっていったにもかかわらず、世紀を超えて、蓮實さんがこだわりつづけられたのが、フローベールであり、大江健三郎だった。ここから第Ⅲ部の議論に入っていきます。フローベール論に関しては、先ほど触れた主題論的体系や説話論的構造に加えて、もう一つ大きくせりあがってくるのが話者の問題ですね。その点は、大江さん晩年の作品についても同様ですが、蓮實さんは大江さんに関してはもはや主題論的体系や説話論的構造といった用語を用いることそのものをやめてしまう。それに代わって言及されるのが、「散文のフィクション」や「テクスト的な現実」といった『『ボヴァリー夫人』論』で練りあげられた諸概念です。
この変化自体、大江さんの晩年の変化に呼応するものでしょう。蓮實さん自身、「外部を描き、内部を記述することなく、二十一世紀の《レシ=物語》ははたして成立しうるのか」、そんな問いを大江作品から受けとっておられる。実際、大江さん自身、『さようなら、私の本よ!』や『晩年様式集』では、「小説」という形式の終わりをさかんに語っておられました。
その際、争点になるのが話者の問題、フィクションを誰が語るかという問題です。大江晩年の作品では、それまで中心に置かれてきた一人称で語る小説家の主人公に代わって、従来小説家によって描かれてきた周辺の登場人物、とりわけ女性の登場人物たちが次々に語りはじめる。話者の転換や複数化が意識的に導入されるわけですね。ここも大江さんと蓮實さんの間に交錯があるように思います。たとえば一九九六年の島田雅彦さんとの対談の時点で、蓮實さんは、大江さんが語ることの男性性に嫌気がさしたんじゃないかとか、鮮明な女性の主人公を大江さんに書いてもらいたいとかいった発言をなさっているからです。ただしこの点に関しては、同時に、フィクションの話者について性別を云々することが、どこまで正当なことなのかという疑問も抱くんですね。
蓮實 それは本質的にはできない。男性が語ろうと女性が語ろうと、それは中性化されるしかないわけですから。女性が語っているか、あるいは男性が語っているかに見えはするけれど、「語り」そのものは限りなく中性に近づくと思います。
王寺 書くことの非人称性という話題にもかかわる重要な指摘だと思います。逆に言うと、大江さんは、そうした中性的であるほかない話者をできるだけ排除し、たとえば書簡体小説の形を借りながら、作品の説話論的な統一をそれぞれの登場人物の発話に解体していこうとするわけですね。
蓮實 解体というか、話者による統一を成立させまいとするわけです。
王寺 たとえば『水死』は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』の続編として書かれていますが、「赤革のトランク」に託された資料をもとに「水死小説」を書こうとする古義人の企みは、そこに残されていたのがフレイザーの『金枝篇』のみであったことによって頓挫します。のみならず、古義人が記憶し、反芻していた父の死の場面も、母と大黄さんの相反する二つの証言によって相対化され、宙吊りにされてしまう。一体何がそこで起こったのかわからない。末尾のウナイコの強姦の場面も含め、『水死』という作品は、あちこちに空白を残し、読者を戸惑わせたままで終わってしまう。かつて蓮實さんが指摘されたようなメロドラマ性はあっけなく放棄されるわけですね。しかし同時に、定員一を争う二といった図式自体、相対化されます。男性二人組に対して女性の二人組が登場し、最終的に語りの主導権を奪ってしまう、『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』など典型的です。そこに、語りそのものの男性性をフェミニスト的な観点から問題にしていく姿勢が認められることはたしかなのですが、その背後で、たとえば天皇問題はどこに行ってしまったのか、もっと言うと、蓮實さんが説話論的構造の次元で問題にされていた文学の政治性の問題は、どこに行ってしまったんだろうとちょっと腑に落ちない感じもするんですね。
蓮實 わたくしは、最初から政治的に振る舞うことはしていない。また書くものに政治性を持たせようとする意図もなかった。それでは何をしていたか。政治性や社会というものとは違った言葉の真実、そちらの方が遥かに読むものを惑わせるし、ある時は高みへと誘うのではないかという思いがあり、社会も歴史もどこかで捨象してしまっているのだと思います。
王寺 私はそんなふうには蓮實さんの批評を読んでこなかったので、そこは異論のあるところです。たとえば『『ボヴァリー夫人』論』でも、「超説話論的」な力といったかたちで問題にされていたのは、小説作品そのものをとりまく権力の問題であったと思います。小説が小説としてある限り、どうしてもその物語の始めと終わりは外に触れざるをえない。その際、蓮實さんが指摘するのは、国王の命令であり、また俗謡に託された匿名の言葉の流通でした。あるいは作品読解において、蓮實さんが「ボヴァリズム」という俗説を退けるのも、エンマが単に小説を読んで夢想していただけの女なのではなく、その階級的出自ゆえに、美貌にもかかわらず自分の欲望を実現することができないことを指摘するためでしょう。蓮實さんは、そうやって「テクスト的な現実」のレベルで歴史なり政治というものをとらえることに成功した稀有な批評家だと、私自身は考えてきました。
蓮實 政治ということについては、たとえば国王がいるかいないかとか、そういうことになるのですが、実は国王などというものは誰も見たことがないし、知らない。その国王が言及されてはいても、それが力を及ぼすところはない。その代わりに、何が彼女を滅ぼすような力を行使していたかというと、結局は個人の吝嗇さなのです。もっとお金が欲しいとか、作品の上では、そういうことになっている。
王寺 政治を国家権力やその行使としてとらえると、文学と政治のかかわりが限定的であるほかないことはたしかです。ただ、歴史というものがどんなふうにテクストに刻み込まれるかを読むことに関しては、私は蓮實さんから多くを学んできたつもりです。また、そんな歴史の次元を抜きにして、政治について語ることはできないだろうとも思っています。
蓮實 作品に流れている時を、「テクスト的な現実」の次元で捉えようとしてきたことは間違いないと思います。
王寺 最後にもう一つ、大江さんの「晩年様式」の異様さについてうかがえればと思います。蓮實さんの『晩年様式集』への批評はなかなか複雑ですが、話者の複数化・女性化が進み、それぞれの語りが互いに打ち消し合いながら、作品の統一性がゆるやかにほぐれていった果てに、語られていることの真偽など問題とならないような事態が生じる。それこそが、立ったままの「水死」が可能になり、水と木、川と森がふいに識別不可能になる事態なのだ、と蓮實さんは読んでおられると思います。それを最終的に、作家・大江健三郎の死への接近と結びつけながら、主体自体が物質の方に溶け出し、希薄化してゆくような状況としてとらえておられる。ここは、『凡庸な芸術家の肖像』の末尾で、マクシムが老年の痴呆的黄昏の中に溶解していくところ、あるいは『『ボヴァリー夫人』論』の末尾で、シャルルの死が気化として語られるところと重ね合わせるように読みました。言葉が一切の階層性を失って、曖昧に等価に漂い出す――これが蓮實さん的なユートピアなのかもしれないとも思わされます。
ただし蓮實さんは『晩年様式集』を読む際にも、ここで問題になる「私」はあくまでもフィクションの登場人物の話であるとことわっておられます。しかし、大江さんはもう少しずるくて、読者がフィクション中の登場人物を現実に存在しているモデルに結びつけずにはいられないことは承知の上で、そんな俗情におもねりながら、フィクションを機能させているように思えます。大江さんにおける書くことの自動フィクション化は、この私小説的な結構と切り離せないのではないでしょうか。それは、たとえば中野重治の「小説の書けない小説家」などに倣いつつ、フィクションを書くことを自己言及的にフィクションの中に取り込むための装置として、私小説的な形式を活用することだったようにも思えます。言葉の指示作用と戯れるかのような、この大江作品の私小説的結構については何かお考えがありますか。
蓮實 大江と共に読まなければいけない書物は無数にあります。あるいは無数に存在している大江が読んだであろうと思われるものがある。ところが、ほとんどの人たちは、それを無視している。たとえば工藤庸子が最近『洪水はわが魂に及び』の講談社文芸文庫版の解説で、ようやく大江とバシュラールのかかわりについて触れました。これは真の意味での進歩なのです。大江というと多くの論者は未だにサルトル止まりです。しかし、サルトルについては、大江はある時期に切っている。六二年にパリでサルトルと会った頃のことでしょう。それから、おそらくフロイトも切った。大江は自分がバシュラール主義者だとは間違っても言わなかったと思うけれども、いかに刺激を受けたかということに関しては隠そうとしていない。それを初めて指摘したのが工藤庸子だった。これは、皆さんがいかに大江を真剣に読んでいなこなかったかという証拠です。
王寺 しかしサルトルと言えば、その後も大江さんと蓮實さんがそれぞれのかたちでこだわり続ける「詩」と「散文」の区別を第二次大戦後まもなく力説した批評家でもありますね。そこでおうかがいしたいのですが、フローベールが「散文は生まれたばかりのものである」と言ったのが、一九世紀の半ばです。日本において散文はいつどのように成立したのかと言えば、すぐに二葉亭四迷や言文一致が連想されますし、現在に至る「だ調」「である調」の拘束も思い浮かびます。その日本における散文の歴史の中で、大江健三郎と蓮實重彥はいずれも画期的な散文の書き手、読み手であり、それぞれのしかたで散文を書き、散文を読む姿勢に大きな変化をもたらした人だと思います。この歴史の中で、蓮實さんは、大江健三郎とご自身をどう位置づけることができるとお考えですか。
蓮實 まず、なぜ人は物を読むかということがある。読まなくても一向にかまわないわけでしょう。にもかかわらず、人は物を読む。それは、何故か。自分が決定的に自分でなくなる可能性を、読むことが保証してくれるからです。ところが、読むことは、自らの意識を保持したまま概念を扱うことだと思われてきた。ところが、大江さんはそれを否定した。大江さん自身は否定した意識はないと思うけれども、書くことによって否定した。わたくしは、それを意識して否定しているということです。読むことは自らの主体を保ったまま概念を操作し、ある表象作用を自分のものにすれば、それでいいということではない。そのことを、わたくしは実践してきたつもりです。けれども、皆さんは自分自身が可愛くて、主体を温存したまま概念だけ扱って満足している。ところが、一篇のフィクションにおいて真の意味で読まれるべきは、そこにまぎれもなく露呈されている「テクスト的な現実」にほかなりません。その言葉を、わたくしはカッコに入れて使っております。一篇のフィクションを成立せしめている「テクスト的な現実」というものは、主体によって表象化される概念とはまったく違うものである。それがどこまで理解されたかどうかは、未だにわからない。またまた蓮實が難しい概念をひねくり回しているだけだと考えられているのかもしれません。
王寺 往々にして蓮實さんは、フランス現代思想風の難解な概念を使い回す批評家のように語られますが、まったく逆ですよね。これほど執拗に、ほとんどナイーヴなまでに、テクストの文字面に付き合いなさいと言う人はいない。昔からずっとそう思ってきました。
蓮實 ありがとうございます。
王寺 『大江健三郎論集成』を拝読して、蓮實さんが八〇年代から文学や小説の未来に対してかなり懐疑的だったことはよく感じられました。その状況に対応しながら、大江さん自身、それまで書いてきた長編小説の結構から離れていったし、蓮實さんも蓮實さんで、『『ボヴァリー夫人』論』で集大成された批評的装置から離れて、あらためて散文のフィクションを読み、それについて書いておられる。私自身、今時の大学の文学部で文学の教師をやらされていることもあって、散文を読むことを今後どんなふうに生き延びさせればいいのか考えさせられることがあります。もちろんフィクション自体は勝手に生き延びていくでしょう。でも、蓮實さんが言われたように、読むことは己の主体を危険にさらすことであり、変化をもたらすことでもある――読むことがそんな出来事であることを若い人たちにどんなふうに伝えていけばいいだろうと、考えてしまうんですね。
蓮實 変化というのは、むしろ良い事態です。実際、読みつつある主体が消滅したってもいいという気にならなければ、フィクションなど読めるはずもありません。一篇の作品を読み上げたあと仮死の状態から目覚め、それまでと異なる世界の表情が一つでも見えてくればよい。それがフィクションの「テクスト的な現実」を「読む」ことがもたらす真の意味で好ましい「変化」ということだと思っています。その「変化」を怖れている主体に、文学など読めるはずもありません。(おわり)
★はすみ・しげひこ=仏文学者・映画批評家・文芸批評家・小説家。東京大学仏文科卒。パリ大学にて博士号取得。東京大学第二六代総長。
★おうじ・けんた=東京大学文学部教授・フランス文学・社会思想史。東京大学仏文科卒。パリ西大学にて博士号取得。
書籍
| 書籍名 | 大江健三郎論集成 |
| ISBN13 | 9784065429822 |
| ISBN10 | 406542982X |
