2026/09/11号 6面

写真があってよかった。森山大道伝

写真があってよかった。森山大道伝 大竹 昭子著 清水 裕貴  対象と決して会わずに書く作家も多くいるが、著者の大竹昭子さんは数多くの写真家と直接対話をし、その輪郭を言葉で差し示してきた。大竹さんは対話のプロである。暗闇の中にスッとピペットの細い先端を差し込むように、恐ろしいほどの精度で言葉を投げ込む。大胆な物言いをするが決して暴力的な断定ではなく、写真家が抱える心理のパターンを熟知しているからこそ投げかけられる言葉によって、作家の本心を引き出す。本書は対談ではなく評伝という形式だから文章の主語は森山大道だが、大竹さんだからこそ語り得た、写真の話を超えたひとりの人間の苦悩の軌跡が描かれている。  大竹さんは一九八四年から森山大道という現象を観察し、記録し続けている。そして死ぬまで記録するのだろう。そう、写真に少し詳しい人なら誰もが知っていることだが、森山大道はまだ生きている。この時代の風景にレンズを向け、新作を撮り続けているのだ。森山大道の強烈な戦友であった中平卓馬は二〇一五年に亡くなったが、戦中生まれの写真家は川田喜久治や北井一夫など、今なお存命である。  彼らは原爆の痕跡が生々しい長崎や広島も、米軍の占領の歴史も、安保闘争の熱狂も、ベルリンの壁の崩壊も全てその目で見ている。戦後八〇年が過ぎ、戦争の記憶の継承が喫緊の課題だと巷で語られているその時に、戦後の激動の中で写真表現を模索してきた伝説のような写真家がまだ生きて、自分と同じ街の空気を吸い、同じ時代の風景を撮っているのだ。諸先輩方は元気で長生きにも程がある。美術館やギャラリーでたまにお姿を見かけると、エルフを遭遇したような、時空がぐにゃりと歪んだような畏怖の念を覚える。  長生きの画家や小説家には、あまりそういう感覚を抱かない。写真家という生き物が、「その人の目の前に確かにあった風景」と分かち難く結びついているからこそ、彼らがくぐり抜けてきた時間の厚みが強烈な違和感となって押し寄せてくるのだろう。  私が写真家を志して武蔵野美術大学に入ろうとしていた二〇〇〇年代前半は、蜷川実花や川内倫子が相次いで木村伊兵衛写真賞を受賞し、写真と雑誌の最後の蜜月期だった。森山大道はすでにいくつかの谷を越えヒステリックグラマーから『Daido hysterics No.4』を出版しており、私の最初の認識は「ヒスグラの、あのカッコいい犬の写真を撮る人」だった。森山が衝撃を受けたというウィリアム・クラインの『ニューヨーク』は入学後の授業で初めて見たが、スナップショットというものの意味を理解するのには卒業まで時間がかかった。  それでも、人・建物・動物、あらゆる事象を平坦に見つめる彼の眼差しだけは「しっくりくる」と感じていた。しかしそれはよくある自意識過剰な若者の煩悶の延長線上の感覚であって、戦中派の写真家たちが高度成長のただ中で抱えた葛藤とも、平和な日本で写真の役割が徐々に矮小化していくことへの焦燥とも関係がない。ヒリヒリとしたアナーキズムが若者のファッション感覚に馴染むのはよくあること。そう認識していたのだが、本書を読んでいたら違うのかもしれないと思った。  「光があれば、ものの影ができる。像はいたるところで、人間がいなくても、人間を超えて、一刻一刻生成されている。そのことに慄きつつ撮ることに、森山は自分と写真の関係を見定めようとしたのだった」。  これは「写真よさようなら」について語った章の締めくくりの言葉である。ただ「写ってしまった」影の現象として世界を等価に捉えること。どんな人にも決して寄り添わない影。世界を変えた(変えようとした)戦中派の写真家たちの激しい魂も、ただの傷つきやすい若者の魂も、温度のない暗闇に向かっていくしかない。そのことに、絶望と安らぎを同時に覚える。  私たちはこれからどんなふうに写真を撮っていけばいいのだろう。この本は、まだ生きて撮り続けている森山大道という人の評伝だから、そんな問いへの答えは書いていない。しかし私は、大竹さんが森山大道の暗闇を見つめる眼差しの中に、一筋の光を見つけたのだった。(しみず・ゆき=写真家・小説家)  ★おおたけ・あきこ=作家。著書に『眼の狩人』『ニューヨーク1980』『この写真がすごい』など。

書籍

書籍名 写真があってよかった。森山大道伝
ISBN13 9784104067022
ISBN10 4104067024