- ジャンル:哲学・思想・宗教
- 著者/編者: スヴェンヤ・フラスペーラー
- 評者: 高木 駿
繊細さについて
スヴェンヤ・フラスペーラー著
高木 駿
スヴェンヤ・フラスペーラー『繊細さについてセンシビリティとレジリエンスの思想史』(郁文堂)は、人々の感受性が高まった「繊細さの時代」である現代社会において、「繊細さとは何か?」を哲学的に問い直す著作である。「哲学的に問い直す」とは、哲学的な理論や知識に尋ねて、「繊細さ」が何であるのかを明らかにするのはもちろん、「繊細さ」を批判的に検討することでもある。「分ける」という古代ギリシア語に由来を持つ「批判」は良し悪しを分けることを意味し、本書でも、「繊細さ」について、良い点とともに、その悪い点(「暗黒面」)が指摘される。
現代の人々の感受性が高まったのは文明化の成果であり、たしかにそれによって可能になる「繊細さ」は抑圧されてきた人々の権利獲得や承認闘争において重要な役割を果たす一方で、「繊細さ」が絶対視されると、むしろ破壊的な力(傷つけないことを過剰に要求する、自由な議論を妨げる、など)へとたやすく転化するとフラスペーラーは言う。「繊細さは、私たちを連帯させるのではなく、分断する。それは、社会をばらばらに分断するだけではない、争いの最前線で振りかざされる武器となる」(25頁)。もちろん、フラスペーラーは「繊細さが全面的に悪である」などとは言っていない。重要になるのは、「繊細さ」が単純に美徳としても、対照的に悪徳としても扱われていないという点である。フラスペーラーによれば、「繊細さ」は、人々の外へも内へも向かい、人々を結びつけもすれば分断もする。人々の解放に寄与することもあれば、抑圧として働くこともある。フラスペーラーの議論は、「繊細さ」について、オールオアナッシングのように二者択一を唆すものではない。したがって、本書は、「現代人は傷つきやすくなりすぎた」といった保守的な嘆きを主張するものでも、「もっと傷つきやすさを尊重せよ」といったリベラルな主張をするものでもない。
フラスペーラーは、「繊細さ」を批判するとともに、「強靭さ(レジリエンス)」についても批判的な検討を重ねていく。「強靭さ」は、その名の通り、「繊細さ」の反対に置かれるものであり、それが絶対視されれば、他者からの要求や対話を跳ね返してしまい、他者の痛みに気づくことができず、差別的な社会構造を強化してしまう。この絶対視を「繊細さ」が防いでくれる。しかし、一方で、「強靭さ」は、個人が自律し、自由に議論をしたり、互いに要求をし合ったりするのに欠かせないものでもあり、「繊細さ」が絶対視されつつある「繊細さの時代」では「強靭さ」は重要な役割を果たす。「強靭さ」と「繊細さ」は、対立する「敵」ではなく、「姉妹」として手を取り合ってこそ、良き未来を切り拓けるというわけである。
本書が論じている、現代社会においては「繊細さ」と「強靭さ」のいずれもが必要であるということには大いに同意できる。ただ、論じ方が、「繊細さ」には「暗黒面」があり、それを補完できるのが「強靭さ」である、という流れになっており、一見すると、フラスペーラーが、「繊細さ」を批判して、「強靭さ」を称賛しているように読めてしまう点は、誤解を受けたり、「繊細さ」に悪意を持って対抗する人々に利用されてしまったりするかもしれない。繰り返しになるが、フラスペーラーが主張しているのは、良き社会の実現にとっては、「繊細さ」も「強靭さ」も、それだけでは十分ではなく、互いに補完し合い、連帯する必要があるということである。
フラスペーラーは、ドイツの一般大衆向け哲学のジャンルに属する。ひと昔前、このジャンルは、(なぜか特に日本人の)アカデミックな哲学研究者から蔑まれていた(もしかすると、今もそうなのかもしれない)。なおかつ、性自認はわからないが、フラスペーラーは「女性」と思われ、ミソジニーの対象にもなりえる。こうした真にくだらない理由で本書を読まないのは損でしかないと最後に断っておきたい。(稲葉瑛志・鈴木啓峻訳)(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー論)
★スヴェンヤ・フラスペーラー=ドイツの哲学者・著述家。Philosophie Magazine編集長。一九七五年生。
書籍
| 書籍名 | 繊細さについて |
| ISBN13 | 9784261073713 |
| ISBN10 | 4261073714 |
