- ジャンル:特集
- 著者/編者: スタニスワフ・レム、スタニスワフ・ベレシ
- 評者: 沼野充義、若島正
対談=沼野充義×若島正
<屹立する知の巨人、レムを読み継ぐ>
〈スタニスワフ・レム・コレクション〉(国書刊行会)第二期完結を機に
〈スタニスワフ・レム・コレクション〉(国書刊行会)第二期が完結した。それを機に、監修・訳・解説を務めたロシア東欧文学者の沼野充義氏と、アメリカ文学者・翻訳家の若島正氏にお話しいただいた。(編集部)
沼野 これまで、レム・コレクションを随分長く続けてきました。
若島 第一期からだと、二〇年以上かかっていますよね。
沼野 そうなりますね。第一期のスタートは二〇〇四年、私は『ソラリス』が大好きで、これをぜひポーランド語からの直接訳で刊行したいというところから始まりました。日本では、『ソラリスの陽のもとに』というタイトルでハヤカワ文庫から刊行され、長年愛読されていた名作ですが、ロシア語からの重訳なんです。
飯田規和さんはこなれた訳をされる方で、訳自体は良いものです。ただ当時のソ連では、レムの作品でさえ検閲されました。といっても検閲官が勝手に削除するわけではなく、おそらく編集部による自主規制ですが。
『ソラリス』には社会主義と相いれない話がたくさん出てきます。たとえば宇宙の「神」を巡る哲学的な考察は、ほとんど削られてしまいました。ですからポーランド語の原書で読むと、だいぶ味わいが違うんですよね。
版権の問題で、別の版元からは出せないのだろうと思っていたところ、文庫版と単行本とでは版権が別だということで、国書刊行会が版権を取り、この機会にレムの全体像を見直そうとコレクションの企画が動きはじめたのです。
二二年間で一期、二期併せて十二巻を刊行し、この六月に別巻として、長編のインタビュー集『レムかく語りき』が出ました。小説はこれまでにもかなり翻訳されていますが、まとまった形でインタビュー集が出るのはこれがはじめてです。
若島 『レムかく語りき』は、非常に面白かったです。
第一期にも自伝と文学エッセイを併せた一巻がありましたね。ただそれはレムの書いた批評的文章のほんの一部に過ぎないわけですよね。
僕はレムにとって作家性と批評性とは車の両輪だと考えています。理論的な著作を読んでようやく、彼が小説作品で何をしているのかがある程度わかってくる。第一期の文学エッセイと、第二期のインタビューは、レム自身を、そしてレムの作品を知るために非常に重要なものだと思います。
沼野 このコレクションでは、できるだけレムの全貌に近づこうというのが、そもそもの目論見でした。『ソラリス』や『インヴィンシブル(砂漠の惑星)』などのハードSF的な作品は、すでに翻訳されており、人気が高いものでしたが、このコレクションでは基本的にポーランド語からの直接訳にすることで、レム像がシャープなものに更新されたと思います。
それだけでなく、初期の日の当たらなかった習作や詩作品も拾っています。それから社会主義時代に書いて、レム本人が後に出来栄えを恥じ、再版も翻訳も許さなかった『マゼラン雲』を第二期で刊行することができました。これはレムが生きていたら翻訳の許可は出なかったはずですが、亡くなった後に代理人を通じてレムの息子さんに希望を伝えました。「歴史的なパースペクティブにおいて、レムを評価すべき段階に入っている。共産主義の実験の失敗を目撃した私たちには、この小説に歴史的意義とユートピア的夢想の魅力を再発見することができるのではないか。ぜひ翻訳を許可してほしい」と。
『マゼラン雲』は、ある時期までの社会主義圏では翻訳されていますが、社会主義圏の外で訳されたのはこれが初めてです。本人が禁止していたものを出していいのかという葛藤がありながらも、やはり出版できて良かったと思っています。
しかしながら先ほど若島さんがおっしゃったように、レムの作品はまだ未紹介のまま残っているものが膨大にあるんですよね。理論的な著作のウエイトが非常に大きく、今回コレクションに入れた何本かの批評は氷山の一角です。
一九五七年にサイバネティックスを論じた『対話』があり、六四年の『技術大全』では仮想現実や人工知能、宇宙開発などの未来技術を考察しています。六八年の『偶然の哲学』は自然科学を文学批評に応用しようとする著作で、一番の大作『SFと未来学』は七〇年に刊行されています。分量だけでも五〇〇頁から一〇〇〇頁ぐらいの本が、少なくとも四冊あるわけです。これだけ書くためには、理系、文系問わず、ものすごい量の文献を読んでいる。これは尊敬というより畏怖の念を抱かされるような仕事なのですが。
若島 これらは一部を除いて日本では翻訳されていないんですよね。『SFと未来学』の一編である「メタファンタジア」は、コレクションに入っていますが。
沼野 第一期の文学エッセイの中に、巽孝之さんによる英訳からの翻訳を収録させていただきました。ほかはすべてポーランド語からの直接訳ですが、この一編については巽さんのお仕事を尊重しました。
若島 私は「メタファンタジア」を八四年刊行のレムのSF評論・エッセイ集Microworldsで読みました。『対話』と『技術大全』は英訳版が出ていますが、『SFと未来学』はその一編を除いて、英訳でも出ていません。
沼野 数十年前にサンリオSF文庫で壮大な翻訳企画が立ち上がったのを覚えていらっしゃいますか。
若島 ありましたね。
沼野 企画の中心にいた山野浩一さんが意欲的で、レムの作品もどんどん入れようじゃないか、ということになって、私は大学院に入ったばかりだったのですが、なぜか『SFと未来学』の翻訳の依頼が来たんですよ。レムのこんなにすごい本を任せてもらえるのかと小躍りしたのですが、原文を読み始めると当時の私のポーランド語力では全く歯が立たない。それにいくら読んでも読み終わらないほど長い。それで一ページも翻訳できないうちに、企画自体が立ち消えになってしまいました。だから私の責任なんです。
若島 先ほどレムの膨大な仕事を支える膨大で幅広い読書について触れられましたが、今回のインタビューでも、本の好みについての話が面白かったですね。中でもレムが絶賛した本が、ダグラス・R・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』と『マインズ・アイ』だったのは、なるほど、レムはこういうタイプだなとよくわかりました。
沼野 認知科学の側面から書かれた哲学書というのか、科学エッセイというのか。意識や生命、AIや数学などをテーマとしていて、レムも、考え方が自分に非常に近いと言っていましたね。
若島 先ほどレムには批評性と作家性の両輪があると言いましたが、世間で認識されているレム像よりも実際は、批評の比重がかなり大きいと思っています。そしてレムの作家性の根底にあるのはたぶん、十九世紀のリアリズム小説なんです。
沼野 意外にも文学の好みは、古風ですよね。
若島 十九世紀リアリズムは小説の原点ですから、僕にはそれもうれしいところなのですが。そこに批評性が乗ってこそ、あのような小説になるのだろうと感じています。批評もやって小説も書いてという、レムという二〇世紀に屹立する知の巨人に太刀打ちできるのは、世界を見渡しても、ウンベルト・エーコぐらいなのではないか。
沼野 なるほど。
若島 文学エッセイには、ナボコフの『ロリータ』も取り上げられています。レムの評論はどこから球が飛んでくるのか想像がつかない、独特の見方が示されます。
そうした中でも、ど真ん中に球が来ていると思う批評は、ウェルズの『宇宙戦争』論です。
沼野 レムは『宇宙戦争』が好きですよね。これもちょっと古めかしい作品ですけれど。
若島 十九世紀的な小説観、特にイギリスでは、人間をいかに描くかという話になりますよね。しかしレムの小説では人間ではなく、人類を描く。そしてウェルズが書いた科学ロマンスも、人類を描いています。ただウェルズがレムと少し違うのは、片やイギリス社会のリアリズムに則った小説も書いたところです。僕はSF史を考えるときに、ウェルズの後継者はレムだと思っています。ウェルズの次にステープルドンが来て、それ以降当分誰もおらず、レムが来るという。
沼野 確かにスケールの大きな文明観を持っている点でも、近いかもしれません。
若島 たとえば『枯草熱』や『捜査』のような探偵小説ふうの作品も、レムが書くといっぷう変わったものになりますよね。一般的には探偵小説の犯人は当然人間なので、キャラクターをいかに書くかということになります。ところがレムが書くとそうはならない。
キャラクターが出てこない小説の行き着くところが、偽書評集である『完全な真空』や『虚数』になるのだろうと思います。どちらもとても好きな小説です。
沼野 『完全な真空』や『虚数』などのメタフィクション的な作品から、批評家のジョン・レナードがレムを「科学文化のボルヘス」と呼んだとか。それに対してレムは、ボルヘスと一緒にされては困るといった発言をしています。普通の作家なら喜びそうなものですが。レムに言わせると、ボルヘスの書く話には、図書館のカビ臭さがあって、認識の本質や直感的霊知に興味を持っているとは思えないと。
レムの言葉は辛辣ですが小気味よくて、よくも対話においてこれだけ明晰に語れるものだと思います。医学や科学のかなり専門的な話も端的に語りますからね。翻訳では仕方なしに「ですます」調にしていますが、訳者はそれぞれレムの語調の雰囲気を活かすことに苦心しました。
若島 そういう中で今回驚いたのは、オー・ヘンリーの短篇を愛読していると言っていたこと。
沼野 いまどき何を、と思いますよね。「職人芸」だと言うのはわからなくもないですが。
若島 知らなかったレムを知れました。ヌーヴォー・ロマン以降のフランス文学は読んだけど何ひとつ残らなかった、とかね。とにかく視野が広いですね。
常々、レムに関する翻訳事情を考えると、日本は恵まれていると感じていました。『レムかく語りき』の巻末にビブリオがついていますが、日本でレムが訳された最初は一九六一年。六〇年代から翻訳されているんですよね。
沼野 六一年の邦訳は『金星応答なし』でした。レムのデビュー作を、櫻井正寅さんによるドイツ語からの訳で早川書房が刊行しています。その後、六五年に『ソラリスの陽のもとで』を飯田規和さんが、六七年に『泰平ヨンの航星日記』を袋一平さんが、ロシア語から訳出しました。
それから日本でも工藤幸雄さんや、私の東大での恩師だった吉上昭三さんなど、ポーランド語の優れた専門家が出てきて、レムもポーランド語から訳さなければという流れになっていきました。SFプロパーの翻訳家としては、深見弾さんの存在が大きいのですが、深見さんは元々ロシア語が専門で、ソ連のSFの紹介を一手に引き受けてきました。結局翻訳は、語学力の問題に帰結してしまうのですが、我が身に照らしても、ポーランド語を後から学ぶ際に、ロシア語が出来ることがある種の障害になることもあるんですよね。
そうした段階を経て、今回のレム・コレクションは、ポーランド語翻訳の第一線の方々が担当されるところにたどり着いたというわけです。
若島 僕はレムを英訳版で読むことが多かったので、英語圏でのレムの受容ということを考えるのですが、日本に比べて遅れています。英語圏でレムが翻訳された最初は一九七〇年です。
沼野 アメリカで最初に出た作品は何ですか?
若島 『ソラリス』です。フランス語からの重訳で。
沼野 ああ、登場人物の名前も変えてしまったんですよね。フランスらしい粋な訳ではあるのですが。
若島 そして『ソラリス』がポーランド語から英訳されたのは、二〇一一年のことです。
沼野 確か、電子書籍のみの刊行でしたよね。訳者はビル・ジョンストンというアメリカ有数のポーランド文学研究者ですが、『ソラリス』を最初に刊行した出版社が、紙版で別の訳を出すことを許さなかった。
若島 そうなんです。
六〇年代のニュー・ウェーブの時代に、ジュディス・メリルがアンソロジストとして、海外の新しい小説を精力的に発掘していました。日本でも『年刊SF傑作選』(全七巻)として東京創元社から文庫版で刊行されましたが、これがSFかというようなものまで拾われています。ところがレムはまだ英訳されていなかったのでそこに入らなかった。短編さえ一九七〇年にダルコ・スーヴィンというSF批評家が、アンソロジーに一本入れただけです。
そこには冷戦という時代的な問題もあったわけですが、アメリカで訳されるようになった七〇年代には、『完全な真空』が刊行されますから、ようやく英語圏の人間が追いつきかけたときには、レムはすでにSFから足を洗いつつあったというわけです。
一九七三年からは、いわゆる「レム事件」も起こり、英語圏でのレムの受容はさらに遅れました。
沼野 レムはアメリカSF作家協会から名誉会員の称号を受けたものの、アメリカのSFを酷評したために怒りを買い、結局、名誉会員資格を剝奪されたという事件ですよね。
若島 やり玉にあがったのはフィリップ・ホセ・ファーマーというSF作家で、その代表作をレムが酷評しました。それに対してファーマーも激烈な抗議文を書いていますが、その中には、レムは英語を読めているのか、という中傷も混じっていました。
それから、これは後から出てきた批判ですが、レムが取り上げている作品は四〇年代ぐらいまでの古い時代のSFで、六〇~七〇年代当時の新しいSFは読んでいないのではないかというものもありました。実際には根拠のない批判ですが、アメリカのSF関係者には、東欧の作家であるという、ある種の偏見をもって見られるところがあったのではないか。
さらにレムの西側に対するエージェントとして、フランツ・ロッテンシュタイナーという翻訳家がいましたが。
沼野 ウィーン在住で、ソ連東欧SFの西側での窓口にもなっていた人ですね。
若島 レムの言葉を、ロッテンシュタイナーが増幅して訳しているのではないかという噂もあって、つまりレムの言葉が、アメリカにそのまま受け入れられることが、当時難しい状況だったのかもしれないと想像しています。
沼野 隔世の感がありますが、東西冷戦中でしたし、当時は言葉の壁が高かったということですね。
実際レムは、英語はあまり得意ではないと晩年に認めていますが、話すのが苦手だったということで、おそらくドイツ語もフランス語も英語も、読むのはほとんど問題なかったと思います。それぐらいの頭脳の持ち主ですから。
フィリップ・K・ディックは、「レムはソ連の調査機関ではないか」と疑っていたとか。
若島 FBIに通報までしていますね。
沼野 それはディックの妄想が過ぎる気がしますが(笑)。
若島 「レム事件」で、アメリカSF作家協会と苛烈な争いをし、レムは、もうSFを読まないと、SFと絶縁することになりましたが、そのときに唯一レムが得たものがあるとすれば、アーシュラ・K・ル=グウィンとの出会いだったと思うんです。
レムは、ル=グウィンの『闇の左手』について、いい作品だけど、残念ながらゲセンという両性具有の惑星の人間たちが、男性にしか見えないと批評しています。それに対しル=グウィンは『ソラリス』こそ、男性しか出てこないではないかと読むわけです。ただし男性ばかり出てくる中に、不在の女性というものが立ち現れてくる、ここが面白いのだと。おそらくレムは、自分と同じぐらいの知性を持った人間がSF界隈にいることを知ったのだろうと思います。二人による往復書簡集もポーランドで出ていますね。
沼野 二〇二一年に出ました。
実は書簡も、レムは驚くべき量を残しています。几帳面な人なので、特に海外に送る重要な手紙は全てタイプして、カーボンで複写まで残しているんです。レムの死後に、ポーランドの作家スワヴォーミル・ムロージェクとの分厚い往復書簡も出版されました。
レムに最もたくさんの手紙をもらったのは、アメリカの翻訳者マイクル・カンデルです。この人の英訳は優れていると高く評価されています。
カンデルはレムの作品を読み、非常に驚き、ほれ込んだらしいんです。しかし、難解なところも多いので、レムに質問攻めのような手紙を送った。それにレムが非常に真面目に答えたんですね。レムは英語圏できちんとした翻訳が出て、自作が評価されることが重要だと思ったのでしょう。中には短編エッセイぐらい長い手紙もあります。カンデルがレムにあてた手紙は出版されていないので、どの程度の質問を何語で送ったのかが気になるのですが。
若島 レムはわりとインタビューもたくさん受けているようですが、ポーランドでレムはどれくらい自由な発言ができたのでしょうか。アメリカのSFファンが出しているファンジンに寄稿をしているのですが、レムの〝はっちゃけぶり〟が見えるんです。それを、母国で自由な発言ができないゆえの、アメリカのファンジンという自由な言語空間での書きっぷりだったのかなと想像していたんですが。
沼野 当時の社会主義圏で生きる作家の環境は複雑でした。ソ連に比べるとポーランドははるかに自由度が高かったけれど、レムは外向きには反体制的な姿勢を見せず、政治に不満や批判があっても、強く打ちだすことなく権力との微妙な距離を取りながら生きてきたのではないかと思います。
私がレムに対面したのは体制転換後でしたが、「検閲で苦労したことや抑圧などはありませんでしたか」と尋ねても、「全然ないよ」と言って、それ以上は語らなかった。その時は額面通り信じてしまったのですが、『レムかく語りき』からは、当局との関係は相当複雑だったことが見えてきます。
『レムかく語りき』はスタニスワフ・ベレシというポーランドの批評家を相手に、戒厳令の頃から数回に亘り行ったインタビューが収められています。レムは全ては活字にならないと思っていたのかもしれませんが、ここでは、忖度なしに語ってしまおうと思っている感じがするんです。それ以前の公式なものとは、ずいぶん違う発言が含まれています。
べレシはインタビューを開始した時点では三〇代でまだ若く、レムを尊敬しながらも挑戦しようという姿勢も見えて、丁々発止の掛け合いになっているところが面白いですよね。
若島 打ち明け話や裏話も出てきます。
沼野 注を相当付けないと、日本の読者にはコンテキストがわからないので、そこは苦労しました。
たとえば文壇の誰それがホモセクシャルだったというような、活字にするのは憚るような話も平気でしていますしね。
当時のポーランドでは、同性愛自体は犯罪ではないけれど、社会的に烙印を押されることではあり、秘密警察がその事実をつかむと、それを弱みとして使用して、協力を強要するなんてこともあったようです。
そういう社会状況は、西側の人たちにはわかりにくいでしょう。
いずれにせよ、何につけレムは歯に衣着せず物を言いますから、彼に酷評されたアメリカの作家たちはかなり頭にきたことでしょう。
若島 「レムとSF」という話もしなければと思っているのですが、レムは今回のインタビューの中でも、いわゆる「SF」を批判しています。しかしそこでレムが言うのは、SF作家がいて、出版社があって、取り巻きがいてという、コミュニティとしてのSFだろうと思うんです。小説の可能性としてのSFを捨てたわけではない。
沼野 コマーシャリズム、商業主義のもとで書かれるSFを堕落とみなし、作品を通して人類の認識が深まるような何をも感じられないと言っていますね。レムはつまり、SFというものに、より高次のものを求めていたのでしょう。
若島 SF史の中で具合が悪いのは、六〇年代から七〇年代に移るところで、ニュー・ウェーブがアメリカに波及し、作家たちがその時代の中で、新しい作品としてSFを書き始めるわけです。全般的に見れば非常に活気のある時代です。そしてこの時代に活躍した作家たちが、軒並みニュー・ウェーブの枠組みで括られることになってしまった。
最近、英訳版のレムの未訳短編集The Truth and Other Storiesを読んだのですが、キム・スタンリー・ロビンスンというSF作家が序文を書いています。彼のような七〇年代にSFを読み出した人には、レムもニュー・ウェーブの作家だと映ったらしいのです。さらにレムが認識や意識をテーマに描いたことを、ニュー・ウェーブにおけるインナースペース(内宇宙)への探求と捉えてしまった。そうしたレムの受容のズレは、SF史にとっての問題ではないかと思います。
その流れでいくと、アメリカの文学界では六〇年代から七〇年代にかけてポストモダニズム的な作品が盛んになりますが、『完全な真空』や『虚数』をその範疇と考える人もいるかもしれません。しかしレムがなぜあのようなところへたどり着いたのかを考えれば全くの認識違いだとわかるはずです。
レムは人間の認識や理性、社会の限界を超えていくような、どうやって解き明かすのか不可能に思える諸問題を設定し、書くことで真剣に探っていく。現実にはあり得ない無謀な試みにチャレンジすることで、思考で現実を超えていくところがレムの作品の面白さです。行き着くところは極限ですが、極限をこれほど興味深く描けるのは、偉業ですよね。
沼野 レムがあるところで言っているんですが、自分は一人でSFの歴史を繰り返してしまった。これはレムの生涯を追ってきた私にも納得がいく言葉です。
社会主義リアリズムから出発し、メタフィクションにたどり着いて、一九八七年、まだまだ書ける余力がある頃に、小説はもう書かないと宣言した。いろいろな人がその真意について質問したけれど、結局よくわからないんです。とにかく小説として自分が書けるものはもう書いてしまったと。社会的な抑圧も乗り超えて、これ以上先には行けないところに行きついた。そういう自覚をもつレムのような人は、稀有だと思います。
その後は、社会時評的な新聞コラムだけを書き続けました。薄い本なら十冊ぐらい作れそうな数がありますが、ほんの数編を除いて、ほとんど日本語には訳されていません。
若島 ぜひ紹介してほしいものです。ビブリオを見ていて、科学哲学の『中国語の部屋の秘密』、時事評論の『セックス・ウォーズ』も読みたいと思いました。アーシュラ・K・ル=グウィンとの往復書簡集は、日本の少なくない読者が、読むことを望むのではないでしょうか。
沼野 レムの書いてきたものを単純にSFと分類していいのかという問題はありますが、ともかくもSF史上最高の古典的名作と言える『ソラリス』には、レムには珍しく、人間の認識の限界や理解できない他者との遭遇という主題の他に、ミステリアスな記憶と愛のロマンスといった要素が描き込まれています。レムは本来、愛やロマンスを書く人ではないので、何かの間違いで入ってきてしまった感じではあるのですが、そこが名作たる由縁ではないかとも思います。二〇世紀の世界文学の中でも特異な位置にある、現在でもなお超えるものはないような名作です。ぜひ今、読んでもらいたいですね。
若島 僕もやはり、レムの作品で最も巨大なものは『ソラリス』だと思います。メルヴィルの『白鯨』における「鯨学」にあたるような、「ソラリス学」という架空の知識が繙かれていくところなども一つの読みどころで、その辺りにレムの作家性がある気がしています。『ソラリス』を新たにどう読み直すかを考えることは、今日的に意義のあることだと思いますし、つまるところSFとは何なのかを考えることにも通じますよね。
レムはSFへの批判として「つまらない問題をつまらない具合に解決する」と言っています。確かにSFの黄金時代にこそ、そういう作品が多かったように思います。レムの場合は、単純なSFのアイデアではなく、人類にとって究極の答えを求める方向に小説が向かう。インタビューの中でも「人間のため、そして宇宙での人間の立ち位置のための格闘」だと語っています。そうした姿勢で書かれるからこそ、これからも様々な読み直しができるのではないかと思っています。
沼野 レムのユーモアや諧謔も見逃せません。それから現在進化の著しいAIと人間との関係性をはじめ、あたかも現代を鋭く風刺しているかのような先見性は、短編の中に多く見ることができると思います。シンギュラリティやAIの制御不能リスクの議論など、科学が人間の認識をどのように変えていくのかという問題も扱われ、半世紀前の東欧で、これほどに未来を見通すものを書いたのかと、改めて驚くでしょう。
若島 僕は大学で、英語で短編を読むという授業をしていたとき、第二期に新訳版で出ている『電脳の歌』から、何編か扱いました。これはレムの作品の中でも、最もユーモアにあふれた作品だと思っています。それから『虚数』の中に入ってる作品もいくつか授業で扱ったのですが、やはり面白いんですよね。
余談ですが私が唯一、小説を読んでゲラゲラ笑ったのが、『完全な真空』の「ロビンソン物語」でした。車内でこらえきれず笑ってしまったんです。ユーモアは、レムの作家性に通じる大切なものだと理解しています。
沼野 ただ、なかなか高度なユーモアなので、普通の読者に通じないことも多そうですが。
若島 確かにそうですね。「レム事件」もユーモアが通用しなかった事例かもしれません。
沼野 アイロニーや逆説など、レムの駆使するレトリックはいろいろありますが、彼は言葉遊びも好きですよね。未知の世界を描くための新造語も出てきますから、翻訳には苦労させられますが(笑)。
『電脳の歌』の中に、コンピュータに難しい条件を出して、その条件を満たす詩を作れというと、瞬時にわけがわからないナンセンスな詩が出てくるという話があるんです。新訳では、芝田文乃さんが工夫して訳してくれていますが、もともとむちゃくちゃな捧腹絶倒の詩なので、訳せと言われてもとても無理な話なんです。
これは何十年も前の作品ですが、今はAIにこれこれの条件でこれこれのテーマが盛り込まれた詩を書けと命令すれば、かなり上手にやるようですね。レムの後追いで現代のAIにやらせてみたら、どのぐらい面白いものが出てくるのか、そういう実験的な読み方もできそうです。
若島 彼があまりにも膨大で幅広い知識を持ち、未来を予測してしまうので、実はレムは偽装で超高性能なコンピュータなのではないか、というジョークがSFファンの間では語られることがあるようです。確かにレムには、本人自身に電脳を感じさせるようなところがある。
沼野 実は最近は、レムの作品の中にホロコーストの痕跡を探して読むという新しい展開も起こっています。
レムは若い頃、現在のウクライナのリヴィウという街に住んでいたのですが、ここは戦時中ナチスドイツに占領され、ユダヤ人が大量に連行されて殺された、ホロコーストの舞台となった街でした。レムはどうにか生き延びた経験があり、それが終生消えないトラウマになっていたのではないかと。
今回のインタビュー集でも、リヴィウでのことが回想されていますが、何でも仮借なく語るレムが、どうしても語らないことがあるんです。その語らなさから、レムはサバイバーズ・ギルトを背負っていたのではないかと推測することもできます。その語らない言葉が、小説の中にホロコーストの影として埋め込まれているのではないかと。アグニェシュカ・ガイェフスカという研究者が、そのような視点からの興味深い研究書を出しています。
レムの小説は『電脳の歌』でも『ソラリス』でも、地球からはるかに離れた宇宙で展開されるわけです。社会主義時代に地球上のことを書いたら、政治的に規制されるけれど、宇宙なら何を書いてもいいだろうという自由もあった。しかし宇宙を舞台に、暴力や虐殺のテーマが現れてくる。そこを深く探っていくと、ホロコーストに繫がってくるという読みなんです。
慎重に再検証するべきだとは思いますが、一つの読み直しの方法ではありますよね。
若島 ウェルズの『宇宙戦争』でも、レムが何を褒めているかと言えば、第二次世界大戦で何が起こるかを予言しているようだ、ということです。第一期の『主の変容病院』や『挑発』では、よりダイレクトにナチスやホロコーストが扱われていますが、別巻のインタビューでは、その映画化について描き方の杜撰さを猛烈に批判しています。レムがいかにナチスの所業を、細部まで記憶にとどめているのかがよくわかる資料となっています。
沼野 『電脳の歌』の「いかにして世界は助かったか」という短い寓話のような作品は、なんでも生み出せるロボットに「無」を作れと要求したら、世界がどんどん消えていってしまうという話です。この短編の原題Jak ocalał światの「ocalał(生き残った)」という言葉は、戦後ポーランドで頻りに使われていた単語なんです。ポーランド語の原文を見ると、ホロコーストからの「生き残り」の意味を響かせていることが明らかですが、その影を翻訳で伝えるのはなかなか難しいことですね。
ガイェフスカはテキストの分析のほかに、詳しい実証的な伝記研究を通して、レムがユダヤ人であるという出自をいかに目立たないように苦慮していたかの検証もしています。
私はレムについて、今後そう大きな仕事はできないと思いますが、最近の伝記研究も踏まえて、自分なりのレム像を書いておきたいとは思っています。
最後に一つ、小さなエピソードを。レムのご子息がアメリカ留学時代、お父さんは手紙をよくくれたけれど、話題は銀河やブラックホールのことばかりだった。母親に、「どうしてお父さんは内面の話をしてくれないのだろう」とこぼしたところ、お母さんは「お前のお父さんの内面はブラックホールや銀河なんだよ」と答えたと。
若島 いいエピソードですね。
沼野 レムの作品には、生身の人間が出てくる恋愛小説のようなものはほとんどなくて、レム自身、個々の人間の心理より、世界や宇宙といったより高次な問題に目を向けている、という人でした。でもこれこそがレムの、ある意味での人間性とも言えますよね。レムの作品は卑俗な生活をあまりにも超越していますが、もう少し人間くさいレムについても、何か書くことができたらと思います。
若島 読みようによっては、今回の別巻のインタビューにもそういうところが出ていたのではないでしょうか。
沼野 そうですね。なかなか訳すのが大変でしたが、幸い後藤正子・菅原祥・木原槙子さんという優秀な若手ががんばってくれたのでなんとか刊行に漕ぎつけて良かったです。
私自身は半世紀かけてレムと付き合ってきましたが、正直に言えば未だに読み切れてないし、よくわからないところも多い作家です。未翻訳の批評や書簡などの刊行を含め、残された仕事はたくさんありますが、そろそろ次世代にバトンを渡す潮時でしょう。レム・コレクションが完結した今はただ、今後も読み継がれるべき作家だと、改めてレムのすごさを思います。(おわり)
★ぬまの・みつよし=東京大学・名古屋外国語大学名誉教授・ロシア東欧文学。著書に『徹夜の塊』三部作(『亡命文学論』『ユートピア文学論』『世界文学論』)、編著書に『世界は文学でできている』全五巻、訳書にレム『ソラリス』、ナボコフ『賜物』など。一九五四年生。
★わかしま・ただし=京都大学名誉教授・アメリカ文学。翻訳者・詰将棋、チェス・プロブレム作家。著書に『乱視読者の帰還』(本格ミステリ大賞)『乱視読者の英米短篇講義』(読売文学賞)、訳書にナボコフ『ディフェンス』『ロリータ』『アーダ』など。一九五二年生。
書籍
| 書籍名 | レムかく語りき |
| ISBN13 | 9784336071378 |
| ISBN10 | 4336071373 |
