2026/08/28号 7面

小林洋二氏による鎌田哲哉氏「庄司薫の死に触れて」(本紙七月一七日号)への応答(7)

<庄司薫の言葉に導かれて> 鎌田哲哉への手紙~ぼくの庄司薫追悼 小林洋二 本紙二〇二六年七月一七日号1・2面掲載の「庄司薫の死に触れて 「みんなを幸福にする」の行方」(鎌田哲哉氏寄稿)に対して、本文中で触れられた小林洋二氏から応答が寄せられた。全文を掲載する。(編集部)  『「みんなを幸福にする」の行方』(『週刊読書人』七月一七日号、1・2面掲載)、とても興味深く読ませてもらいました。ぼくの仕事を、好意的に評価してくれていることに、まずは謝意を表します。  ただし、内容的にいえば明らかに褒めすぎで、「多数の弁護士が調査制度発足の時点で惑溺していた希望的観測と異なって、小林が今日の痛ましい制度運用を正確に予測できたのもそのためだ」というけれども、医療過誤に真剣に取り組んでいた弁護士たちにとって、この制度の限界は初めから明らかであり、ぼくだけがそれに気付いていたわけではありません。この制度の実現を求めて闘ってきた医療過誤被害者の遺族も、制度発足を報じる記事に、「小さく産んで大きく育てる」と苦渋に満ちたコメントを残しています。  それにもかかわらず、この制度は、発足から約一〇年の間に、報告された医療事故の分析に基づいた再発防止提言を二一本まとめるという、それなりの成果を挙げてきました。また、小さく生まれたこの制度を、いくらかでも大きく育てようという医療事故被害者たちの運動は現在も続いていて、それに寄り添って定期的に街頭宣伝を行っている弁護士たちもいます。ぼくもいくらか関わってはいますが、その運動の中で、ぼくが果たしている役割はさほど大きなものではありません。    *  さて、庄司薫のことです。  鎌田が、大江健三郎に対する庄司薫の優位にこだわっていたこと、正直なところ、気付いていませんでした。でも、学生時代に、この二人の作家の関係について、鎌田と話した記憶はあります。  庄司薫が、福田章二名義の『喪失』で中央公論新人賞を得た一九五八年は、大江健三郎が、『飼育』で芥川賞を受賞した年でもあること。  それから約一二年を経て、『赤頭巾ちゃん』の中で小林(もちろんぼくではなくて作中人物の小林です)が語る、「おれは小説なんかもうやめたんだ。……いまや一つには中島みたいなやつの時代らしいんだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の疲弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ…」という台詞は、大江文学を念頭に置いたものだと思われること。  一九六〇年以降、『赤頭巾ちゃん』発表までの約一〇年間にわたる空白、つまり、庄司薫自身のいう「総撤退」の理由が、まさにここに語られているのではないか、ということ。  ぼくは、高校時代から現在に至るまで一貫して大江健三郎の信奉者であり、鎌田と知り合った頃には、一時期熱中していた庄司薫に対してやや批判的になっていたから、いま思えば、鎌田にとっては、あまり愉快な話ではなかったかもしれません。    *  とはいえ、鎌田がすっかり暗唱していたという、「たとえばぼくは二年生の時……言うなればそれだからこそ、ぼくはかえってほんとうに素直な気持ちで、東大法学部へ行こうという気になったのだと思う」という薫くんの言葉は、ぼくにとっても懐かしい文章です。ぼくは、確かに、この言葉で、東大法学部(正確には文科一類)に進学することに対する抵抗感を克服しました。そんな「抵抗感」に共感してくれる人がいまどきどれほどいるかよく分からないし、そんな「抵抗感」を云々すること自体が、薫くん風にいえば「厭ったらしい俗物の典型」にも思えるのですが、それを認めないことには、この場で庄司薫を語る意味はありませんよね。なにより、その「抵抗感」こそが、鎌田とぼくとの共通点だったんだから。  しかし、そこに進学した後、ぼくが実践してきたのは、「みんなを幸福にするためにどうすればいいか」を考え続けることではなくて、むしろ、薫くんの兄貴が書いたという、『馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説』の一つ、「逃げて逃げて逃げまくる方法」でした。  もしなんかの問題にぶつかったら、とにかくまずそれから逃げてみること、特にそれが重大な問題であると思われれば思われるほど秘術をつくして逃げまくってみること、そしてもし逃げ切れればそれは結局どうでもよかった問題なのであって、どうしても逃げ切れない問題があったらそれこそ諸兄の問題で……。  ぼくが弁護士になったのも、弁護士をやっているうちに医療過誤の患者側代理人という分野に特化してしまったのも、結局は、逃げまくっているうちに、そこにしか居場所がなくなってしまったからです。年をとるにつれて逃げ足が遅くなり、いまはHPVワクチン薬害問題という大物にとっ捕まって、二進も三進もいかない状況を、それなりに愉しんでいるのですが。    *  庄司薫に話を戻せば、彼が、赤・白・黒・青の四部作で提起し続けたのは、「みんなを幸福にするためにどうすればいいか」を考える純粋さを、自分を、あるいは他者を傷つけないで保ち続けるための戦略論でした。  時に凄惨な事件を引き起こしてしまうその純粋さと、いかに向き合うべきか。 「だが、何であれ、純粋というものはいつでも私に恐怖を覚えさせる」 「純粋さのなかでも何が、とりわけ、あなたに恐怖をおぼえさせるのですか?」私はたずねた。 「性急な点だ」ウィリアムが答えた。  ………反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれてくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人が出るように。恐れたほうがよいぞ、アドソよ。預言者や真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人々を自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして破滅に至らしめるからだ。 (ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』)  その戦略は、一貫しているようでいて、学園紛争から七〇年安保闘争当時に発表された赤・白・黒と、学生運動の武装化と内ゲバによる自滅を経た七五年に発表された青では、やや様相が異なります。前三作では、活動領域がほぼ自宅周辺に止まり、言葉を交わす相手も、仲間内や、せいぜい兄貴の友人たちに限られていた薫くんが、『青髭』では、新宿の街でさまざまな人に出会い、十字架回収委員会、葦舟ラー号、戦闘的風見鶏といったイメージに翻弄され続けます。舞台は、アポロ一一号が月面に着陸した一九六九年七月二〇日の新宿に設定されてはいますが、作品の中に流れているのは、政治の季節が終わり、若者たちに対する社会的共感が急速に失われていった七〇年代の空気そのものです。  ぼくたちが十代の最後を過ごした駒場キャンパスは、挫折感、あるいは挫折の予感といったものに、分厚く覆われていました。それは、薫くんが、『青髭』という物語の最後に、つまり四部作の最後に辿り着いたところの延長線上にあったのだと思います。  鎌田が一律に駄作と切り捨てる『赤頭巾ちゃん』以外の作品の中で、その荒涼たる状況に対する庄司薫なりの「受け止め方」あるいは「受け止めかね方」が溢れているこの『青髭』という作品に、ぼくはとても愛着を覚えます。     *  実質的にはたった四作しか作品を残さなかった庄司薫ですが、文学的遺産としてはそれなりに大きいものがあるのではないでしょうか。例えば、橋本治の「桃尻娘」シリーズでの饒舌な女子高生風の語りは、先行した庄司薫の文体抜きには考えられません。村上春樹の作中に登場する架空の作家デレク・ハートフィールドは、実は庄司薫をモデルとしたものだという説もあります。比較的新しいものでは、河野裕「階段島」シリーズにもその影響を見ることができます。  その文学的遺産は、法律の道に進んだいまのぼくにとっては、単なる趣味的な鑑賞の対象に過ぎません。でも、逃げて逃げて逃げまくっているうちに辿り着いたいまの仕事の中で、ときおり、ほんとうに、「みんなを幸福にするためにどうすればいいか」を考え続けている人たちに出会うことがあります。例えば、自分の医療事故がそれなりの解決をみた後でも、再発防止を願って運動を続けている医療事故被害者たちがまさにそうです。ぼくが三〇年間にわたって関わっているハンセン病問題も、そしていま、闘いの真っ只中にあるHPVワクチン問題も、そういった人たちに支えられています。  いまのぼくに、「解釈するだけで自己完結するチャチなコマネズミ」であることをいくらかなりと免れている部分があるとすれば、それは彼らとの出会いによるものです。そして、彼らと出会うことができたのは、薫くんの言葉で、法学部に進むことの抵抗感を克服できたからこそとも言えます。  「『赤頭巾ちゃん気をつけて』の問いは以上のように我々を導いた、あるいは、この程度にしか導くことがなかった」と鎌田はいいます。  確かに、ぼくは、ある程度、庄司薫に導かれました。  お蔭さまで、こうしてなんとかやってます。(こばやし・ようじ=弁護士・九州合同法律事務所)