ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 438
シネフィル文化の精神的父・バザン
HK ヌーヴェルヴァーグの面々の批評家時代の映画の評価を見ると、ゴダールは見た作品のおおよそに対して、「見に行くだけ無駄」と考えていたように見受けられます。ロメールも同様で、非常に厳しい見方をしていました。ドゥーシェさんは二分していて、「傑作」と「見に行くだけ無駄」の二択しかなかったようです。
JD ゴダールやロメールの言い分は、とてもよくわかります。私たちはその点において共有するものがあります(笑)。デミルもルイ・マルも良い映画作家ではない。それに対して、真に見るべきはロッセリーニやニコラス・レイです。当時の私は、彼らに対しては「傑作」に近い評価を与えていたはずです。その点に関しては、今日でも意見を変えることはありません。そして、現在の多くの映画作家や映画批評家は、私たちの選択に納得してくれていると思います。
HK 『カイエ』の構成だけを考えると、過去のものでも今日のものでも、それほど大きな変更があったようには見えません。今でも、最初の方に特集のページがあり、その後に新作映画に関する記事が続く構成になっています。「十人委員会」も現在でも続いています。
JD はい。『カイエ』が採用した編集方法が、映画批評誌としての完成系に近いからでしょう。注目すべき映画、映画監督のインタビュー、映画論といった記事があり、新作映画や新刊の紹介の記事があり、「十人委員会」の頁がある。現在では、多くの映画批評誌が似たような構成を採用しています。そして、同じような映画について、同じような記事を書いている。しかし、『カイエ』は最初から、そうした構成をとっていたわけではありません。「十人委員会」の欄は、私が編集に関わっていた時代に、つまり創刊から数年後につくられたものです。創刊当時の『カイエ』には、この欄はありませんでした。
『カイエ』は、アンドレ・バザンによって創刊されました。バザンは、私がパリに行くよりもずっと以前から、映画批評家として様々な媒体で活躍していました。戦後のパリや地方の都市で、シネクラブの創設にも熱心に携わっていました。そうした点においてもバザンは、フランスのシネフィル文化の精神的父の役割を果たしています。バザンは、パリにおいては、主にカルティエ・ラタンの映画館でシネクラブを行なっていました。同時期には、モーリス(=後のエリック・ロメール)も同じ場所でシネクラブを行なっていました。バザンは、第一次世界大戦が終わった一九一八年の生まれで、ロメールよりも二歳年上です。私たちヌーヴェルヴァーグの世代よりも、おおよそ十歳くらい年上にあたります。バザンとロメールは、同じ場所でシネクラブを行なっていたこともあり、顔は見知っていたようです。しかし彼らは、それぞれが別のシネクラブを行なっていました。私、ゴダール、リヴェットは、モーリスのシネクラブに通っていました。トリュフォーは、バザンについて回っていました。
一九四九年には、ジャン・コクトーの呼びかけで、カルティエ・ラタンにシネクラブの「オブジェクト49」が興ります。そのシネクラブは、有名なビアリッツの「呪われた映画祭」を開催することにもなります。私たちヌーヴェルヴァーグの面々が、映画館で単にすれ違うだけの関係ではなく、共犯関係になったきっかけは、その映画祭です。そこで私たちは、トリュフォーとも出会いました。我々は年が近く、あっという間に意気投合しました。フランソワは、すでにバザンのことをとてもよく知っていたので、私たちとバザンを引き合わせました。そして最終的に、私はパリへの帰路を、バザンの車で戻ることになりました。
そんな風にして、ヌーヴェルヴァーグの面々は出会いましたが、パリではしばらくの間は別々の活動が続きました。ロメールは自身のシネクラブを続け、バザンは「大衆教育」の活動に携わりながら、映画論の記事を書き続けていました。ロメールはシネクラブの会報として『ガゼット・デュ・シネマ』を創刊します。たったの四号しか発行されませんでしたが、ゴダールや私の映画批評家としてのデビューとなった批評誌です。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
