滅びゆく惑星で 第19回
増田俊也
AIは感情を持つようになるのかということがたびたび議論される。人と同じように喜び、怒り、恋をするような存在が、いつか現れるのか。技術者も哲学者も、真剣にそれを論じている。
仮にAIが本当に心を持ち、恋愛をし、一緒に台所に立って料理をこしらえ、休日にはデートに出かけるような存在になるとする。そのためには何が要るか。答えははっきりしている。子供のころから、自分自身の体で、無数の偶発的な出来事を体験し、積み上げていくことだ。
膝を擦りむいて痛かったこと。好きな子に無視されて胸のあたりが冷たくなったこと。夏の日に食べたかき氷が冷たくてこめかみが痛んだこと。母親に理不尽に叱られて布団のなかで泣いたこと。そういう誰にも設計できない予測もつかない出来事の堆積が、人の心というものを少しずつ形づくっていく。心とは、体で拾い集めてきた偶然の総和なのだ。
ならばAIにもそれをやらせればいいということになる。センサーのついた体を与え、幼少期から歳月をかけて世界を体験させ、失敗させ、傷つかせ、喜ばせる。何十年もかけて、偶然の出来事を一つひとつ積ませていく。しかし、ここまで考えて、私は苦笑してしまった。なんのことはない。それはもう、ロボットでもAIでもない。人間そのものではないか。
カルシウムを主成分とする骨格があり、その上に蛋白質と脂質でできた臓器や筋肉が張りつき、全体を皮膚という外界との隔絶シールドで包み込む。手足があり、痛覚があり、記憶を溜める器官がある。もちろん歩くときは直立二足である。そうして時間をかけて偶然を体験させる――それはつまり、一人の人間を、一から育てるということにほかならない。
わざわざ莫大な費用と技術をつぎ込んで、そんなものを作ってどうするのか。人間なら、男と女がいれば、勝手に一人でき上がる。育てるのに金がかからないとは言わないが、少なくとも国家予算を投じる必要はない。心が欲しいなら、子を産んで育てればいい。それがいちばん早く、いちばん安く、いちばん確実なのだ。
結局、「心を持ったAI」を突きつめていくと人間の再発明にたどり着く。私たちは、すでに完成された奇跡のような装置を一人ひとり抱えていながら、それとそっくりのものを、わざわざ機械で一から作り直そうとしている。
感情を持つAIができるかどうか私にはわからない。
だが、もしできたとして、それが人間と見分けのつかないものだったなら、私たちはただ、途方もない遠回りをして人間にたどり着いただけである。滅びゆくこの惑星の上で、それはずいぶんと壮大な、そして少しばかり間の抜けた道楽だ。(ますだ・としなり=小説家)
