対談=谷口 功一×木村 草太
<近代の原理から憲法を考える>
憲法記念日特別企画
5月3日は憲法記念日。日本国憲法は制定以来約80年にわたり改正されてこなかったが、今日の諸問題は世論を改憲に導くかもしれない。立憲主義や改憲問題、憲法をめぐる日本の政治状況について、法哲学者の谷口功一氏と憲法学者の木村草太氏にお話しいただいた。(編集部)
谷口 今回はある意味、異色の対談ですね。木村さんとは都立大で同僚になって以来20年になります。また、学生時代に井上達夫先生のゼミに出席していたのを合わせるともっと長い付き合いです。ですがお互いに知らないことも多いですね。
今回は憲法記念日の企画ということですが、私は毎年憲法記念日に、その日の新聞の朝刊を全種類購入して、憲法特集を読み比べる「奇習」を続けています。各紙特集のテーマですが、だいぶ昔とは変わりました。20年位前にこれを始めたときは、やはり9条の問題が中心でした。それがピークに達したのは2015年の平和安全法制制定時です。しかしあれが成立した後は先細りになっていき、今はジェンダーやセクシュアリティの話題が増えていっているように感じます。
平和安全法制によって、実質的には改憲したのと同様の効果が見込めるほどに、政府ができることは増えています。そこで闘ってももはや意味はない。だから、左派の政治闘争の新たなフロントラインとして、ジェンダー/セクシュアリティの問題がフォーカスされているのではないかと見ています。
木村 私も毎年新聞には一通り目を通しますが、各紙、世論調査の仕方に特徴があることがわかります。大雑把に9条改正に賛成かどうかと問う新聞もあるのですが、讀賣新聞は憲法9条について、1項と2項を分けて質問するのです。それによると、1項を変えることには反対が多く、2項は賛成が多い。1項の改憲は侵略戦争の解禁を意味しますから、この質問は憲法を正しく理解しているかどうかの一つの分水嶺となります。ちなみに、9条全体の改正を問うと、およそ五分五分から少し反対が多いくらいとなります。
谷口 その際、各紙、世代分析はあまり細かくしていないですよね。以前、平和安全法制制定の際、週刊誌のAERAがかなり詳しい分析をしたことがありました。男女と年代で細かく分けてみると、若年層と高齢者層との違いが浮き彫りになりました。若年層は改憲に賛成だけれども、高齢者には圧倒的に反対が多い。
これは最近の選挙での投票行動にもはっきり表れています。若い人にとっては立憲民主党や共産党が「保守」なのだそうです。いくらなんでも、と思いましたが、どうやらそうらしい。むしろ維新のような政党の方が、体制を変革するという一点において「革新」だと捉えられているようです。私たちとはかなり政治感覚が違うのだと感じます。
また、都立大の一年生が受講する基礎ゼミという授業で、「憲法9条についてどう考えるか書いてきてください」という課題を出したことがあります。立場は不問で、どのように自分の意見を正当化するのか記述する課題です。私が学生の頃は、改憲派だと述べることにかなり高いハードルがあったのですが、当時の一年生が提出したレポートを見ると、真っ向から「改憲すべき」と書いてあるものが多かった。そういう意味でも、良いか悪いかは別として、昔とは大きく変わったなと感じるところがあります。
木村 学生たちは何がやりたくて改憲を主張したのでしょうか。その課題を出されたのは2000年前後、イラク戦争をやっていた頃のことですか?
谷口 いや、民主党政権の頃、対中感情が急激に悪化していく時代だったと思います。それに第二次安倍政権期に差し掛かっていたのも大きかったでしょう。基本的にあの頃の学生はみんな安倍首相を支持していましたから。就職がすごくよかったですし。ただ、そういった政治的な事柄をおおっぴらに話しているかというと、そんなことはありませんでしたね。
木村 しかし、9条を変えなければできないこととは何でしょうか。例えば、台湾有事で、台湾に自衛隊を派遣することとかをイメージしているのでしょうか?
谷口 具体的に何をするためというわけではないんです。みんな深く考えているわけではないですよ。
谷口 ところで、ここ10年程、「立憲主義」が盛んに論じられるようになったのは注目すべきことだと思います。学生も、世に出回っている書き物も、新聞も含めての話です。私は東大での学部時代、高橋和之先生や樋口陽一先生に憲法を教わりましたが、立憲主義について意識したことはありませんでした。
木村 私も憲法一部で「立憲主義」に特別にフォーカスした話があった記憶はないですね。2012年に磯崎陽輔氏が、「立憲主義に反する」という言葉は意味不明だという趣旨の発言をSNSで発信して、猛烈な批判を浴びたことがありました。彼は芦部信喜先生に憲法を習ったそうなのですが、教科書にもほとんど記載がないし、授業のノートを引っ張り出してきても書かれていない。同年代の片山さつき氏にも尋ねたけれど、授業で聞いた覚えはないと。やはり私や彼らが学んだ当時、「立憲主義」はあまり強調されなかったようなのです。憲法で権力を拘束するという出発点は、憲法の授業の当然の前提だったということでしょう。
谷口 立憲主義概念を前面化させたのは樋口憲法学なのでしょうかね。
木村 樋口先生は立憲主義の意味合いを強めたのだと思います。改めて確認すると、立憲主義とは、主権国家をつくる以上は憲法を制定し、国家に安全装置をかけなければならないとする思想のことです。今日では、どんな憲法をつくる際にも当たり前とされています。この広義の立憲主義に対して、次第に狭義の立憲主義にスポットライトが当たるようにもなっていきました。すると、公私二元論や人格の尊重といった議論に繫がっていく。
谷口 立憲主義についてのもっともよい説明は、長谷部恭男先生が述べるようなロールズ的なものでしょう。正(just/right)と善(good)を分離するところから始まる。これは元々、宗教戦争への反省が念頭に置かれたものでした。「善」とは「善き生の諸構想」と呼ばれるもので、各人が持っている、信仰をはじめとしたさまざまな人生のプランのことです。何を善とするのか、どれを信ずるべき宗教とするのかという点で殺し合っていては、みんな死んでしまう。だから、善とは区別された万人が守らなければならないルールとして「正」を立て、政治(正・公)と宗教(善・私)とを分離したわけです。政教分離は、善から独立した形で正当化されなければなりません。そして、善が正を侵食してしまうのは境界侵犯である。公私区分の境界を絶えずパトロールするのが立憲主義だというのです。
そのため政府は、各人の善き生の諸構想について、促進もしなければ禁圧もしません。価値中立的な国家観であり、法哲学で言われるリベラリズムとかなりの程度一致するような考え方だと言えます。これに対する異論はほとんどないのではないでしょうか。
木村 公私の区分を否定すると、国家や憲法が個人の内心や自由を侵すことになります。
谷口 ただし、ここには私自身確信が持てない部分もあるのです。昔、世田谷市民大学で講座を持っていた時に、印象的な質問を受けました。この大学には、かつて高級官僚をしていたような高齢の方も多くいらっしゃいます。そんな学生たちに対して、「憲法規範は普遍的に正当化できるものでないとダメで、安倍晋三首相が言うような、日本の国柄のような具体的でローカルな文脈の思想は入れ込むことはできない」と講義しました。
すると学生の一人が、「なぜダメなのか、どうしても得心がいかない」と質問しに来られた。先ほどしたような立憲主義の説明を懇切丁寧に行ったのですが、「頭では理解できるけれど、やはりなぜ国柄を入れてはいけないのかわからない」と言われたんです。
このことがずっと頭に引っかかっていたのですが、ある時次のことに思い至りました。19世紀のドイツで巻き起こった、法典論争と呼ばれる議論です。この法典論争では、従前採用されていたフランス民法典をそのまま用いるべきか、それともかつて用いられていたゲルマン法を復活させるべきかで対立が生じました。ドイツには、近代法を作り上げるうえで、ゲルマン的な風俗や歴史を重視する人たちがいたわけです。法典論争と直接は関係しませんが、童話を収集したグリム兄弟もこの文脈の中に位置づけられます。彼らがなぜ童話を集めたかというと、そこにドイツの民族としての記憶が宿っていると考えたからに他なりません。
こうした、国家固有の風俗という問題が近代法制定には介在している。日本が模範としたヨーロッパの国においても、国柄的なものをまったく排除して法が制定されたのではないのだから、ローカルで特殊なものを必ずしも拒まねばならないという話にはならないのかもしれないと思うのです。
日本における憲法学では、共同体論的あるいは共和主義的な解釈はずっと峻拒されてきました。しかし、ルドルフ・スメントの統合理論に言われるように、憲法自体を動態的な構造として見てみると、国民の統合を図るうえでは歴史の力がそれなりに大きいものとして存在するのではないかと思います。もちろん、それが日本保守党的なものであっては困るのですが、とはいえ歴史的でその国固有の文脈にあるものが憲法を駆動させるために必要だ、と考える方途はあるのではないかと思います。
谷口 今、日本では参政党が伸長していたり、高市首相自身もかなり強い右翼的な傾向を持っていたりするわけですが、この現象もわからないわけではありません。ナショナルだったり愛国的だったりするものが出てくるのは自然なことで、これをもっといい形で国民統合へと働かせることはできないのか。
木村 しかし、それをまさに憲法典でやらなければならないのかどうか、という論点はありますね。
憲法は、そうした国民統合が既にできていることを前提として、国家権力を統制するという順番で登場してくるものであるように思われます。近代では、主権国家はナショナリズムを基盤に成立し、国家をつくる以上はセットで安全装置を打ち立てるという話になる。国家の主権とセットとして立憲主義的な憲法があるという論理が標準です。
谷口 消極的立憲主義観のようなものですね。私は憲法はもっとダイナミックなものであっていいのではないかと思っています。権力構築を肯定的なものとして捉えることができるからです。
かつてあるところで、法学者と政治学者の権力観は異なるという話をしたことがあります。法学者は、権力は邪悪なものだとみなし、それを統御・抑制することを課題として理解します。確かにここには当たっている部分がある。しかし政治学者は、権力はなかなか作り上げることができない希少な資源だから、それをどうやってうまく育てていくかという発想をします。要するに、権力は過剰なものであるか過小なものであるかという違いですね。
私はというと、どこか法学者らしからぬところがあり、どうやって権力を構築していくかという側面の方に興味があるのです。だから、統合理論における第四段階、実質的統合に含意されているような歴史の文脈も、憲法を考えるうえで含みこんでしまってもいいのではないかと考えています。
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木村 少し前に、長尾龍一先生が、日本の場合、自由に選挙を行うと議席の三分の二くらいが保守政党になる傾向は戦前から変わらないと指摘されていました。
谷口 そうですか?
木村 最近の政治家の方が、日本は政治に対して無関心な層が7割、2割が保守で1割が革新だと分析しているのを耳にしたこともあります。このバランスでは、特段の事情がなければ、三分の二が保守になるということでは。
谷口 なるほど。実際、政治や憲法に興味を持つのはどこか奇矯な人なのだと思います。私はスナックについての研究もしているのですが、そこにいるのは、まさに正規分布でみたときの中央値にいる人たちですよ。
木村 すると政治にほぼ関心のない層?
谷口 そうです。むしろ、政治の話をする人はいやな客ですよ。初めて会った人に「自民党のことをどう思いますか?」なんて聞かれたら、帰りたくなりますよね。
しかし面白いことに、高市首相が今回の衆院選で大勝する前にスナックを訪れると、ママたちはみんな高市首相を応援しているんですよ。彼らは別に右翼の人ではない。高市氏が上流階級ではない出身で、女性で、たたき上げでガラスの天井をぶち破っていることに対して、みんなすごく応援しているんです。
ですが、私が行くようなお店は地域で割といいお店なので、お客さんには自民党支持の人が多い。そしてそのお客さんは、高市首相のことをぼろくそに言うことがあります。これが、ママたちには我慢ならないのだそうです。今回高市氏が首相に就任した時、世間は批判したけれど、これはミソジニーとしてしか受け止められないだろうと思いました。
木村 不思議なのは、少数党が女性をリーダーに立てたときには応援しないのだろうかという点です。例えば、蓮舫氏が民進党の代表になった時に、無関心層の女性が熱心に支持した記憶はありません。
谷口 高市首相の場合は特殊で、初めての女性総理大臣だということで応援しているのだと思います。
木村 例えば、共産党が田村智子氏のような女性党首を立てたといっても、それで人気が出るということはないですよね。女性が首相になったから応援しているのですか?
谷口 いえ、総裁選の前からママたちは応援していました。
木村 そうすると、女性党首を立てれば野党が人気になるという傾向はないと。
谷口 そうですね、それは関係ないのではないでしょうか。社民党はずっと福島みずほ氏が党首ですし、かつては土井たか子氏もいました。
木村 無関心層の基本的な政治的共感は自民党に寄せられているということでしょうか?
谷口 いえいえ、総裁選だからなのです。他党の党首が誰だとしても、国政にはあまり大きな影響は与えないでしょう。
木村 少数党の女性リーダーを応援すればいい、というふうにはいかないのですね。
谷口 自民党の総裁選は、事実上総理大臣を決める選挙ですよね。自民党が政権与党だから、こうした現象が起きているのだと思います。これが民主党政権の時の総裁選であれば、きっと全然違っていたでしょう。
木村 なるほど。仮に今の野党が政権につく状況なら、その党首が女性かどうかは重大事になると。
谷口 はい。先ほど木村さんが「7割は無関心層」だと言及されましたが、まさにそのとおりで、高市首相への支持はイデオロギー的なものではないんです。ましてや推し活なんかでもない。女性が国政の頂点に立つということは、素の意味で重要なことなのだと思います。少なくない数の人が忘れてしまっていますが。
私も高市首相の全てを肯定できるわけではありません。ですが、今の状況では何を批判したところで影響しませんよね。60%を超える支持率があるのですから。その背景には、今述べたような根強い応援があるのだと思います。
木村 象徴としての意義ですね。確かに、石破政権からの政策転換に支持率上昇の理由があるとは思えません。ただ、先の総選挙は政権としてほぼ何もやっていない段階でのものだった点は気に留めておく必要がありそうです。「責任ある積極財政」と言う割に、手堅く予算編成をしていますし。本当に自身がやりたいことをやり、期待ではなく政策で評価される段階になった時に、どのように判断されるのかは未知数ではないかと思います。
木村 しばしば、メディアは政治家が「憲法改正」に熱意があるかどうかを報じますが、そもそも「憲法改正」という争点はこの世に存在しないのです。自衛隊の海外派遣の拡大だとか、合区の解消だとか、そういった個々の政策課題があり、現行の法律でできないなら法律改正として争点になり、憲法で禁じられているなら憲法改正として争点になるという順番です。いいかげん、「憲法改正」という争点の報じ方はやめるべきでしょう。
冷戦期は、憲法改正論というと9条改正論のことを指していて、改憲派は再軍備・海外派兵解禁、護憲派はそれに反対という図式がありました。今は、憲法改正の論点が多様化しているので、「憲法改正」といっても何を意味するか分かりません。ただ、おそらく高市さんは、自衛隊の海外派遣の可能性を広げたいという個人的な考えはお持ちでしょう。
谷口 保守の人であっても賛成する人はいないのではないでしょうか。今回のイランの件に関しても、ナショナリストだったらなおさら反対するでしょう。
木村 イラン攻撃の場合、憲法以前に、国際法上の適法性がないでしょう。
谷口 現実的には平和安全法制をつくったことによって割と何でもできるようになっていますからね。憲法に「自衛隊」を明記すると言っている人もいますが、私はそれには反対です。やるなら「日本国軍」と書き込むべきです。私は自衛隊は軍隊であると正面から認めるべきだと思っていますから。
あるいは、9条をまるごと削除するか、2項を削除するのが一つの課題にはなってきます。ですが、それをやるためには膨大な政治資源を注ぎ込まなければならない。そんな馬鹿げたことはやるべきではありません。他にやるべきことはいくらでもあります。特に、社会保障改革をするべきです。
木村 2015年安保法制は、条文自体は、日本が武力攻撃を受けない限り、武力は行使できないと理解できるものです。現在のイランに関し、憲法・法律上、派遣ができないというのは当然でしょう。政府は、2015年以降も、「なんでもできる」がそれは専守防衛の範囲で、というラインは引いていますね。ところで、社会保障制度に切り込むのも、かなりの政治的資源を使うのでは。
谷口 維新にこそ、率先してやってもらえばいいと思います。そのために彼らは与党にいるのですから。
年金や医療費の問題こそ最も重要な問題だと私は思います。冒頭、憲法にまつわる課題としてジェンダーやセクシュアリティが取り上げられることが増えていると話しましたが、私はいわゆる「アイデンティティの政治」が行き過ぎているところがあるのではないかと思っています。ここ20―30年の左派はずっとマイノリティの話をしている。
それ以前の左派運動は、基本的に労働組合のことをしていました。労働運動が左派の本領だったのだけれど、ある時からアイデンティティの政治へとトレンドが移り変わっていった。ポストモダン的な問題が盛んに研究されていますが、それが極まるところまでいって、トランプが登場したと私は理解しています。あれは完全にバックラッシュですね。白人で男性であるというだけで特権者呼ばわりされることへの。一方では、アイデンティティの政治が行き過ぎているのが問題と思います。
谷口 他方には、左派が金や仕事の話をしなくなった問題があります。私は古い「左翼」を復活させてほしいと思っているのです。「サヨク」ではなく、昔ながらに労働運動をやるような漢字「左翼」に息を吹き返してほしい。
両者の区別は、磯田光一氏が『左翼がサヨクになるとき』(集英社)で論じたものです。昔の左翼は第一にマルクス主義者でした。マルクス主義者であるということは、国家観を持っているということです。そして彼らの基本的な教養は国学や鷗外の『礼儀小言』にあると磯田氏は論じます。それらを自らの血肉にしたうえで、左翼運動していた。このような左翼にもう一度戻ってほしいのです。
木村 野党は、それぞれに雇用現場の改善を訴える政策をPRしますが、それで支持が広がる状況ではないですよね。
谷口 それこそが国民民主党の政策課題に他ならないでしょう。
ところで、私は平和運動を嫌悪しています。右翼でも侵略戦争をすべきだと主張している人なんていないので、殊更にそれを行うことには何の意味もない。首相官邸前で平和運動をしている人には明確に反感を持っています。やるなら、彼らはイスラエル大使館に行くべきです。イスラエル軍こそ、彼らの本当の敵なのですから。
しかし、今の労働運動のなかでは憲法9条の議論が必ず出てきますよね。しかしそんな話をするくらいなら、定期昇給や雇用条件の話をしてほしいのです。折角の労働者の運動なのに、無駄なことに労力を費やしている。
木村 平和運動の中核は、第二次大戦時の対外侵略や国民弾圧を背景にした伝統的な日本政府に対する強固な不信があります。それが、日本政府が戦争に加担しないようにする運動につながります。ただ、現在のウクライナや中東での戦争は、日本政府が引き起こしたわけではない。日本政府への抗議とは別に何ができるか考えるべきということですね。
谷口 労組の第一目的は労働条件の改善ですよね。
木村 政府が戦争を決めたとき、労働者は大きな被害を受けます。例えば、大戦中には海軍の軍人よりも民間の船員の方がたくさん亡くなりました。その意味で、平和運動は労働問題と無関係ではありません。こうした思いが、労働運動と平和運動を結び付けるという構造は無視できません。
労働条件の改善の一環として、戦争に動員されないような世界にしましょう、という目標の設定は妥当でしょう。ただ、平和運動だけをやって、賃金や休暇制度、派遣労働者の権利などに目を向けなくなっては労組の本末転倒ということですよね。
谷口 惰性で運動が行われている点は大きいのではないかと思います。その結果として、若い人たちは嫌忌感を持つわけですよね。労働運動自体は重要なものだから、その運動を広げていくためにもそういったものを排除してほしいと私は強く思います。アイデンティティの政治ではなく再分配の政治でやりましょうよ、と。左翼にも現実的なものに関わってほしい。
木村 今、谷口さんは左の惰性について話されましたが、右の惰性もあるんですよ。「憲法改正」と言っておくと受けるというのが一定程度あるので、たとえ本当は関心がなくても、政治家は言わざるを得ない。
谷口 右も左も堕落には歯止めがありませんね。ただ、参政党に関しては、私自身は賛同しませんが理解できる部分もあります。普通にまじめに働いている善男善女で支持しているひとも少なくないと思います。ヨーロッパでも極右政党が伸長してきているわけで、普遍的な現象なのだから、参政党のような政治現象は馬鹿にせずシリアスにとらえた方がいいでしょう。そうでもしないと、オルタナティブとして政権を取れる政党がないですから。立憲民主党や中道改革連合などに期待はできません。
木村 現行の小選挙区を中心とした制度では、野党がまとまらないと勝てません。しかし、現在の野党は、カリスマ的な党首のワンマン政党が並立し、相互に「自分は他の党とは違う」をPRする状況です。これでは、党首候補が複数いる、様々な行政分野をカバーできる専門的な議員がたくさんいる、様々な国民の意見を吸収するために多様な立場の議員がいる、といった政権をとるための要素を備えた野党が育っていくストーリーが見えません。
谷口 ですので、先ほども言いましたが、野党には権力を構築していってほしいんです。どうやったら勝てるかというのを考えてやってほしい。
谷口 ところで一つ聞いてみたいことがあるのですが、木村さんはポストモダニズムについてどのように受け止められていますか? LGBTの話を含め、文化左派の基本的な駆動力の一つとしてポストモダニズムの存在が大きいように感じます。
木村 私はモダニストなので、ポストモダニズムに立脚した憲法論にはシンパシーはありません。同性婚にしても、トランスジェンダーの権利にしても、近代的な人権論の枠組みで十分に根拠づけられるでしょう。
谷口 最近の若い憲法学者にも、ポストモダニズムに依拠したカルチュラル・レフトが増えていますよね。
木村 それは法哲学者らしい指摘ですね。そういう角度から考えたことがあまりありませんでした。ただ、憲法学者の議論を見ていて、少数派の権利を多数派に浸透させるときに必要な緊張感に欠けていると感じたり、一方で、社会問題に対し妙に冷笑的だと感じたりすることは増えています。
谷口 ポストモダン的に、ジェンダーやセクシュアリティの権力構造を発見しなければならないという至上命題を文化左派は共有していますね。認識的不正義などの理論に依拠する議論もそうです。あの手の主張は社会学などではもっと先鋭的に展開されたわけですが、なぜ今頃になって憲法学において急速に強くなっているのか、不思議です。
木村 少し考えてみたい論点ですが、近代のグラウンド・セオリーを避ける傾向に由来する気がします。問題を細かく設定する研究が増えている。
谷口 それはどこの分野でもそうですけれども。
木村 はい。そうすると、意図せざるところにおいてもポストモダン的になってきます。モダンの価値観、つまり普遍的な原理から出発することをしないで、個々の問題だけを見る。だから、例えばトランスジェンダーやポリアモリーの方が、「国家と個人」、「普遍的な人権」、「平等原則」といった近代的な枠組みの中で、どのように位置づけられるのか、という問いは軽視される。結果として、ポストモダン的な議論にシンパシーが生まれる。そんな感じでしょうか。
谷口 個々の問題を見る、という点からすれば、私が性同一性障害特例法の立法に関わったのも、具体的に困っている人がいるから彼らをどうにかしてあげたい、という気持ちからでした。しかし、トランスジェンダーの議論になってくるとすごく頭でっかちな話が多くなってくる。ここにはよくないものがあると思います。
木村 谷口さんが特例法制定のためにとったアプローチは、立法においてもモダニスト的に説明することが可能ですよね。
谷口 むしろモダニスト的にしか説明できません。具体的に困っている人がいるからそれをどう救済するかという、ただそれだけの話ですよ。近代のプロジェクトとしてやっている。
木村 同性婚問題にも同じようなアプローチのバリエーションがあります。秩序を攪乱するポストモダン的にやるのか、モダニスト的にやるのか。私はモダニスト的な手法を採用しているつもりです。
谷口 アメリカのトランプは反DEIを掲げていますが、これも一定の意味でのポストモダニズムを背景にしたカルチュラル・レフトへの反発によるものです。世界的に見てポストモダニズムは決して過ぎ去った影ではないのだと思います。
DEIやSDGsなどは、まさしく自然法ですよね。近代法では禁止されている徳目の列挙です。我々人類は法実証主義や功利主義で長年にわたって自然法的なものを駆除してきたのに。道徳を強制するのはやめてほしいわけです。私はそういう意味で、かなり古典的かつ単純な形で法と道徳の関係を理解しています。例えば、裁判官が説教するのも絶対に私は許容しません。淡々と判決文を口にするべきです。
木村 裁判官は、要件の当てはめをやって、人の行動を形式的に統制するのが仕事ということですね。内心の教化に踏み込むと、司法システムが成り立たなくなります。
国会議員や最高裁判事が男性ばかりとか、大気汚染はいくらでもOKという態度は明らかに問題があるわけですが、それが、人の内心に備わる自然の徳目だという位置づけではいけないということですよね。それをやり始めると、そのような徳目を持っていない人が、自然の本性に反する堕落した存在で、内心の矯正教化の対象にしないといけないことになる。
結果として、公権力が私の内心の領域を侵略してきて、立憲主義に反する事態にもなります。
谷口 だからこれはイデオロギーの問題ではないのです。右と左の問題ではない。手続きを守れるかどうか、という話です。共存の枠組みとして、基本的には適正な手続きを守るとか、ダブルスタンダードをしないとか、そういうことが重要なのです。これは簡単なことのように思えるかもしれませんが、やはり難しいんです。共生の作法のミニマムな部分を死守することが、イデオロギーの違い以前に一番大事なことです。
木村 そうですね。DEI・SDGsに連なる政策を実現する場合も、あくまで議会制民主主義の手続きを通じ、反対する人の理性を信じて説得し、多くの有権者の理解を得て進めるべきで、反対者を道徳に反する堕落した存在だと貶めてはいけませんね。
今年度、最高裁は、「結婚の自由をすべての人に」訴訟の判決を書くことになります。原告たちは、「婚姻の脱構築」とか、「古い婚姻感の打破」といったことではなく、婚姻の法的効果の不平等と、実生活での困りごと、不利益を丁寧に論証してきました。
昨今、憲法改正論議でも、その他の政策論議でも、人格攻撃や罵倒の手法が多用されています。今年の憲法記念日は、善の構想がそれぞれに異なっていることを認め合い、相互に尊重し合う近代的な立憲主義に立ち返るきっかけにしてほしいですね。(おわり)
★たにぐち・こういち=東京都立大学教授・法哲学。著書に『日本の水商売』『立法者・性・文明』など。一九七三年生。
★きむら・そうた=東京都立大学教授・憲法学。著書に『幸福の憲法学』『平等なき平等条項論』など。一九八〇年生。
