<旅の道連れ、同行三人>
小手鞠 るい
小学館の『現代国語例解辞典』(2006年発行)と岩波書店の『広辞苑 第七版』(2018年発行)――この二冊を常に手元に置いて、愛用し続けています。
コンパクトで軽い前者は、執筆中はパソコンのすぐそばに、ゲラを読んでいるときには校正紙のすぐそばに置いて、しょっちゅう手に取り、ページをめくっています。そこに指が当たることが多いせいでしょう、表紙の〈解〉の文字は擦り切れて、真っ白な円形になっています。
この辞書は、アメリカで暮らすようになってから、買い求めたものです。三十四年ほど前の渡米時に、日本からアメリカへ送った荷物の中に入れておいた辞書を買い換えようと思い、ニューヨークにある紀伊國屋書店を訪ね、店頭で一冊ずつ、内容を確かめた上で「これがいい!」と、判断を下して買いました。
判断の理由は、例文が充実している、ということ。わたしがこまめに辞書を引く背景には、この単語には、どのような形容詞、どのような動詞を使えばいいのか、あるいは使うべきなのか、を知りたい、という思いがあるから。この辞書は、その要求に見事に応えてくれています。古くなってきたので、あるとき、別の版元のコンパクトな辞書を買ったのですが、だめでした。よって、その辞書は夫(アメリカ人)に譲り、わたしはまた、この小学館の辞書に戻ってきました。
煉瓦のように重く、ずっしりしている後者は、サイドデスクの上に、常にページを開いた状態で置いています。辞書専用のデスクです。小学館の辞書だけでは納得できない場合や、情報が足りないと感じた場合や、さらに再確認したい場合などに使っています。
日本に住んでいた頃から、特に雑誌のフリーライターとして仕事をするようになってから、きょうまでの四十年あまり、辞書を引かない日はなかった、と言っても過言ではないほど、辞書はわたしにとって、親しい友人のような、頼りになる姉貴のような存在です。
ネットサイトに出ている辞書は、何度か使った経験がありますが、途中でポルノ広告が出てくることに嫌気が差して以来、一度も使っていません。言葉の意味を調べようとしているのに、なぜポルノ(しかも、幼児ポルノのこともありました)広告を見せられないといけないのか。こんなことが許されている日本って、世界の恥だと思った。今はもう、そういう広告が出ないようになっていることを祈るばかりです。
また、ネット上では、辞書に限らず、日本語が横書きで出てきますよね。あれが嫌です。日本語とは、縦に流れてゆく言葉だとわたしは思っています。日本語は、横文字ではない。こんなことを思っているわたしはきっと、時代遅れなのでしょう。しかしながら、時代に遅れることも、小説家にとっては、ある種の武器なのではないかと、開き直っている昨今です。いずれは廃れてしまい、そこから腐っていくことが目に見えている流行り言葉に影響されないためにも、脳内環境を汚い言葉で汚染されないためにも、わたしは断固、紙の辞書を使い続けるつもりです。
大小二冊の辞書は、わたしの旅の道連れのようなもの。小説への旅、言葉への旅へ、きょうも同行三人で出かけていきます。
二冊の辞書を使うことの意義は大きい、と、日々実感しています。たとえば「間髪を容れず」という言葉があります。わたしは長きにわたって「間髪」というのは、二字熟語である、と思い込んでいました。けれども、あるとき、なんらかのきっかけがあって、辞書を引いてみたところ「間髪」という言葉が、どこにも見当たらないではありませんか。小学館の辞書にも、岩波書店の辞書にも載っていない。
いったいなぜ?
戸惑いながらページをめくっているうちに、気づきました。小学館版では【髪】の項目の例文として「間、髪を入れず」が出ています。岩波書店版でもやはり【髪】のところに、しかし、例文としては「間髪を容れず」と出ています。つまり、読点の有無、および「入れず」と「容れず」の違いがあったわけです。面白いなと思いました。
日本語は本当に面白い、奥が深い。
それ以来、読書中「間髪」に出合うたびに、その本のページの角を折る癖が付いてしまいました。実に多くの作家が、作品の中で「間髪を入れずに」と書いています。この場合の「に」は、誤用に当たるのでしょうか。わたしは一応「間髪を容れず」を使うようにしているのですが。
この二冊以外には『広辞苑 第七版』の付録も、たいへん重宝しています。異字同訓の漢字の使い分け例が示されているページなど、めくり過ぎて、ぼろぼろになっています。
たとえば、変える、換える、替える、代える、の使い分けなどは、いちいち毎度毎度、性懲りもなく確認してから使っています。
ほかにも「さり気なく」は間違いで「さりげなく」が正しいことや、鯛のおかしらは、頭だけじゃなくて「尾頭」なのだということや「どうぞよろしくお願いいたします」は間違いで「どうかよろしくお願いします」が正しい、というようなことも、実はつい最近、弘法大師辞書様から教えてもらったばかりです。そうそう、わたしは「ください」はすべて「下さい」と書いていたのですが、それも真っ赤な間違いでした。
自分の書く原稿だけじゃなくて、ほかの作家の書いた作品を読んでいるときにも「あれ?」と思うと、辞書を引いています。
確認すること自体が楽しい。間違い探しが楽しい。辞書を引くのが楽しい。
同じ言葉を、何度、調べたって、いいではありませんか。子どもだったら「一度、辞書を引いたら、その言葉と意味は覚えておきなさい!」と、指導されるのでしょうが、わたしは大人です。大人は、覚えなくていい。勉強なんて、しなくていい。テストで良い成績を取る必要もない。大人はただ、辞書と遊んでいればいい。言葉と戯れていればいい。
自分が、紙の辞書を使う最後の世代になっていることは、自覚しています。あとどれくらい旅の時間が残されているのか、わからないけれど、わたしは死ぬまで、紙の辞書を使い続けるでしょう。同じ言葉を何度も引いて、前に調べたときに引っ張ってあった赤線やマーカーの跡を発見しては「あ、また同じ言葉を調べたね、覚えてないね」と、自分で自分を笑ってやる。このような大人の楽しみと、言葉と遊ぶ権利を、手放すつもりは毛頭ありません。(こでまり・るい=作家)
<「物」か「機能」か?>
金原 瑞人
ぼくが最初に手にした電子辞書はセイコーインスツル(SⅡ)の上級英語型電子辞書のモデル「SL9000」で、『リーダーズ英和辞典』、『リーダーズ・プラス』、『ジーニアス英和大辞典』、『新編英和活用大辞典』、Oxford系英英辞典類などが収録されていた。おそらく二〇〇八年以前のことだと思う。
SⅡの上級者英語電子辞書はその数年前から出ていたが、その頃、主に大学生協の生協書籍部で扱うようになったらしく、法政大学の生協書籍部の知り合いから、「使ってみて、もし気に入ったら、紹介を書いてください」といって渡された。
使ってみて、驚いた。こんなにたくさんの辞書が、単4電池をふくめて二五〇グラムの電子辞書に入っているのだ。収録されている紙の辞書の総重量は十五キロから十八キロ。そんなに重い多数の辞書を手軽に、自在に使えるのだ。
それまで英和は『ランダムハウス英和大辞典』を使っていた。これが便利だった。この大辞典は、元々は四巻本で、それが二巻本になり、やがて一巻本になったのが一九九三年。そのときにすぐ買った。内容も豊富なうえに、訳語が新しい。というわけで、これは座右の書だった。まず椅子の右側に置いておいて、わからない単語が出てくると右手で持ち上げて開き、調べ終わると、左手に持って上下運動を五回してから、左側に置く。次に単語を引くときは、左手で持ち上げて開き、右手で上下運動を五回してから右側に置く。これをくり返していると、上半身は運動不足にはならない……ような気がしていた。ダンベルのかわりだ。
「SL9000」の不便なところは、これができないところだ。それに『ランダムハウス』が入っていない。にもかかわらず、この軽さと便利さは驚異だった。ただ、三キロほどのおもりをつけたかった。
それはさておき、すぐに紹介文を考えて書籍部に持っていき、いろんな宣伝に使ってもらった。
とたんに、英語の教員から非難の声が上がった。紙の辞書がいかにすぐれているかについて、何度きかされたことか。「軽ければいいのか?」と何度、糾弾されたことか。「軽薄短小」の弊害について何度、説教されたことか。
しかし、悪貨は良貨を駆逐する(?)。気がつくと、紙の辞書を持ってくる学生が激減した。教員も同じだ。
似た経験をしたのがOxford English Dictionary(オックスフォード英語大辞典、通称:OED)。ぼくが持っていたのは全十巻+Supplements四巻。その後、この十巻と四巻が統合され、さらに新しい単語を加えて一九八九年に発行されたのが「OED 第2版 (OED2)」。全二十巻。定価二十八万円前後。さすがにこれは買わなかったのだが、なんと、これがCD-ROM版で出た。これはすぐに買った。二十巻がCD一枚にまとまるのか⁉ 所詮、文字情報はたいして容量を食わないということなのだろう。とにかく使いやすかった。それに、文字の大きさが自由に変えられる。
となると、本棚を一段以上使っている十四巻は不要になるわけで、英語関係の知人に「送料のみで、送ります」と声をかけた。ところが、だれからも「送って!」という返事がない。え、噓だろ! 二、三十万出して買った辞書だ。それを無料でゆずろうというのに⁈
かなりして、ひとりだけ「はい、いただきます」とメールをくれた人がいて、その人に送って、本棚の一段が空いた。それから数年して、ある単語の歴史的な用法を知りたくて(CD-ROMが行方不明だった)、その人に、OEDのその部分をコピーして送ってほしいとメールしたところ、「すいません。やっぱり邪魔で、捨てちゃいました。図書館でコピーして送ります」。えー⁈
現在、OEDを引こうと思うと、公式オンライン版(OED Online)のサブスクリプションを使うのが一般的なのだが、かつて紙版十四巻を所有し、さらにCD-ROMをなくしてしまった者としては、いまさらオンライン版を使う気にはなれない。というか、そもそもOEDを使わずにすませるようになってしまった。便利なサイトも増えたし、AIも賢くなったし。
さて、便利なサイトで思い出したのだが、スマホやタブレットの辞書アプリの普及のおかげで、いまやもう電子辞書も時代遅れになってしまった。カシオは電子辞書の新しいモデルの開発中止を宣言した。まいったなあ。この年齢の者にとっては電子辞書が手軽で便利なのだ。なにより使い慣れている。どうしよう。そろそろ電子辞書に見切りを付けて、新しい流れに乗るべきなのか、いまのうちに電子辞書をたくさん買っておくべきなのか。死ぬまで使うとしたら、何台買っておけばいいんだろう。
しかし紙の辞書がなくなり、CD-ROMの辞書がなくなり、電子辞書がなくなりつつあるいま、そういったものが請け負っていた役割をネットなどがすべて代替するようになっていくと、やがて「辞書」というものさえなくなるのではないか。そんな気さえしてきた。
以下、ChatGPTが「この終わり方では少し弱いのではないか」といって、付け加えてくれたまとめの言葉。
【そもそも辞書とは「物」なのだろうか。それとも「機能」なのだろうか。
紙の辞書は、たしかに物だった。重さがあり、置き場所を取り、引くという身体の動きがあった。電子辞書になると、それは小さな機械になったが、まだ物ではあった。しかしオンラインやAIの時代になると、辞書はもはやどこにもない。ただ「調べられる」という機能だけが空中に漂っている。
もし辞書が機能にすぎないのだとすれば、なくなることはない。だが、あの重さや、上下に五回振った感触までもが消えてしまうのだとすれば、やはり何かは失われているのかもしれない。】(かねはら・みずひと=翻訳家・法政大学教授)+ChatGPT
