- ジャンル:文学研究・評論
- 著者/編者: サイディヤ・ハートマン
- 評者: 矢澤美佐紀
奔放な生、うつくしい実験
サイディヤ・ハートマン著
矢澤 美佐紀
どれほどの外圧があり、たとえ打ち捨てられようとも、自分の魂の声に従ってこそ生きる価値があると信じること。生きのびるための消極的な自由などには目もくれず、ただひたすらに束縛されぬうつくしい生をつかもうとする、若い黒人の女たちの奔放な叛乱に心がふるえる。
本書は、奴隷制をめぐる歴史の空白を書き起こした『母を失うこと 大西洋奴隷航路をたどる旅』(二〇〇七)に続く、サイディヤ・ハートマンの待ちに待った新著だ。前書と同様に翻訳を担った榎本空は、ハートマンが企図した、女たちの生命に宿る即興的でアナーキーな「コーラス」が増幅する躍動を、弾力に満ちたリズムや響き、時にたっぷりとした抒情的文体によって鮮やかに伝えている。読み応えのある「解説」のなかで、ハーン小路恭子は「二十世紀前半のアフリカ系アメリカ人の生に注目したという点では新境地」だと指摘する。前書で発現された、アーカイヴの限界に叛いて書く手法は、ここにおいていっそうの先鋭化と成熟を見せていると言えるだろう。
これは歴史から疎外された、若い黒人の女たちによる逃亡の物語の実在を証するテクストである。奴隷制廃止後にかたちを変えた剝き出しの差別と暴力。彼女たちは「自由であるかのように生きてみよう」というラディカルな想像力のみを武器に、白人の支配や性的暴行がはりついた家事労働から逃れ、南部から北部のフィラデルフィアやニューヨーク・ハーレムへと移動する。そこでは警察が売春婦などの犯罪者や倒錯者とみなし、監視や逮捕、処罰、収監による囲い込みを行っていた。さらに、黒人エリートである社会学者のW・E・B・デュボイスや社会改良家も、黒人の地位向上という正義を前にして、放埓な性を矯正し更生させることに躍起になる。しかし、女たちは「絶対的無秩序なプログラム」としての不逞な日常を繰り広げることで抗った。価値基準や法律やらの分類法から解放された対抗的な物語を創り出すべく、肌の色の境界線を無視してゲットーを漫歩し、テネメントの中廊下やキャバレーでクィアな関係性を包摂した居心地のよい性愛を謳歌する。そして、まるで多声的な音楽を奏でるように親密さを育んだ。それこそが「生きることそのものを芸術とする実験」だったからである。
第Ⅰ部「シティの道はずれの道をゆく彼女」、第Ⅱ部「ブラックベルトの性的地理」、第Ⅲ部「うつくしい実験」の三部から成り、名前を奪われた人物たちは「少女1・2」や「家事労働者」、「暴徒」や「コーラス」のように表記され、搾取される「有像無像の群衆」の固有の実相が熱度の高い文章によって明らかにされる。とるに足らぬとされた、サヴァルタンの生が記録され保存されることは稀だ。アーカイヴの権力による歴史の喪失にさからって、ハートマンが採用したのが「批評的作話」だった。ハートマンは、家賃集金人の日誌、社会学者の調査書や論文、事件や裁判の公的記録、スラムの写真などの膨大なアーカイヴと格闘する。資料や書き手の眼差しに付帯する限界を見据えながら、綿密な調査と五感のはたらきによって隠蔽された数多の声の細部を掬い上げる。歴史の空白と対峙し、それを埋めるのではなく「空白そのものに焦点を当てる」(ハーン小路恭子)。そこに響いていたはずの吐息や叫び、唱和に耳を澄ませ、それらが紡いだ物語を再創造するのだ。
多層的なテクストにおいて、例えば、白人によって裸体をさらされながらも心の内では身体をじっと固く閉じ、凍ったような瞳を向ける年端もゆかぬ黒人少女の安価な写真が提示される。ハートマンは、「執り行われた暴力は、ニグロ研究の一環として、解剖学の授業として、それ自体において正当化」されようとも、「彼女はすべてを隠蔽し通した」と結論づける。そして、そこにとらわれている少女の姿に、奴隷制から連綿と続く性暴力に対する「怒りの協奏」を看取するのだ。あるいは、当時としては珍しくレズビアンをカムアウトし、男装のエンターテイナーとして名を馳せたグラディス・ベントレーを、同時代の代表的な黒人映画監督であるオスカー・ミショーが手がけたかもしれない架空の映画の主人公として設定する。手記や公的な記録を補助線として、「巨漢で、なまめかしく、チョコレート色の」クィアなベントレーが、複層的な差別のもと、二つの性の境界で負った苦しみがありありと炙り出されるのである。
榎本が「訳者あとがき」で言及しているように、全編を通じて想起されたのは『苦海浄土』などの石牟礼道子やハン・ガンの世界だ。そして、それはとても楽しい発見だった。「この世の苦悩を感受できる資質者」(石牟礼「黒い女神たちの虹」)たる作家らによる、東西の壁を越えて響き合う女たちの豊かな声に、差別のない寛容な世界への希望を見た。本書が指し示すのは、確かにあったにも拘わらずないことにされた人類史であり、壮大な叙事詩。歴史と文学と映像の領域を超えた、いたましくもうつくしい祈りとしての芸術の実践であった。(榎本空訳、ハーン小路恭子翻訳協力・解説)(やざわ・みさき=法政大学非常勤講師・日本近現代女性文学)
★サイディヤ・ハートマン=作家・研究者・思想家。コロンビア大学ユニバーシティ・プロフェッサー。邦訳された著書に『母を失うこと大西洋奴隷航路をたどる旅』、本書の原著で全米批評家協会賞(批評部門)ほか多数の賞を受賞。
書籍
| 書籍名 | 奔放な生、うつくしい実験 |
| ISBN13 | 9784326852062 |
| ISBN10 | 4326852062 |
