幸徳秋水
馬渕 浩二著
木村 政樹
幸徳秋水という登場人物が日本史という物語に不可欠だと感じられるとすれば、それはまずもって大逆事件について語る際にその名に言及する必要があるからではないか。このことは、大逆事件がフレームアップだったという説が常識となっている今日においては、当たり前のことに思えるかもしれない。だが、ここには一考すべき問題が含まれている。たとえばもし、大逆事件という出来事を歴史に刻むことが肝要なのだとすれば、そこでは秋水の人生は物語の主軸となっているわけではなさそうだ。にもかかわらず、その歴史叙述を通して秋水は幾多の人々に記憶されてきた。ここには固有名をめぐる逆説がある。人物重視の歴史ではなく、出来事重視の歴史においてこそ、秋水という人物が特筆すべき存在となる、という逆説が。
本書では、「幸徳秋水」を「大逆事件」の呪縛から解き放つことが提唱されている。だからこそ、評伝という形式が採られているのだろう。一見したところ、それは無謀な挑戦に思える。すなわち、秋水個人の歴史を辿る限り「大逆事件」を消し去ることはできないのではないか、と。だが、このような批判は、問題の所在を取り違えているように思う。というのも、出来事中心の歴史観を相対化するために、秋水という人物に焦点が当てられているのだから。著者は、秋水の「テクスト」を読み、その「可能性の中心」を取り出すべきだと考えている。
これも一見した印象では、文学研究領域において「テクスト論」として提起された話題を蒸し返しているように思えるかもしれない。すでに「カルチュラル・スタディーズ」的な方法では、作家の固有名に紐づけられたカノンを批判することが典型的な戦略となっている。とすれば、やはり評伝というスタイルは罠なのではないかという疑問が浮かぶ。しかしながら、大逆事件という歴史的コンテクストのなかの秋水、という視角を問い直すことに本書の主眼があるのだとするならば、秋水のテクストが読まれるべきだという結論に至るのは理の当然である。しかし、それは「テクスト論」への回帰であるとみなしてよいのだろうか。
著者は、幸徳秋水が未完であることを強調し、新たな秋水像の構築を読者に委ねようとする。だとすれば、本書はそのための手立てであって、「テクスト論」の実践ではないといえよう。では、その先の秋水像のあり方は、どのようなものとして展望されるだろうか。それは本書のサブタイトルに記されたテーマに関連しているだろう。著者によれば、秋水は「理想的、革命的、急進的ならんことを欲す」と述べただけでなく、「生涯を通じてこの姿勢を取り続けたと言えるのではないだろうか」とのことである。これに対して、秋水の一時の決意を人生全体に拡大解釈するものだと難じたとするならば、それはいささか的を外した読み方となるだろう。
あえて私見を記すならば、「理想的、革命的、急進的」という語で特徴づけられる秋水の生き方とは、ある目指すべき「主体」を想望しつつ「自己」を彫琢してゆく営みの謂ではないだろうか。それはミシェル・フーコーが「自己のテクノロジー」として思考した問いを思い起こさせる。このような「自己」のあり方は、近代日本における革命的知識人の「考古学」を行なうことによってみえてくるだろう(以上の方法論に関する評者の立場については、近年の一連の拙稿を参照されたい)。著者は、秋水の社会主義、無政府主義に儒教や老荘思想が関わっているところに読み直しの可能性を見ているが、ここから広げてゆくならば、「志士仁人」といった「主体」に関わる言説も分析の対象に入ると思われる。また、本書では各章の最後に秋水の漢詩が引かれているが、漢詩を作るという営みと「自己」の形成の関係についても考えてみたいところだ。
むろん、以上は本書がいうところの「未完の幸徳秋水」について、評者の関心に沿って記したものにすぎない。著者の狙いはまた別のところにあるのかもしれないし、また別の論点から問いを立てることもできるだろう。いずれにせよ、秋水のテクストは再読されるべきだという本書の指摘は肯綮に中るものだといえよう。(きむら・まさき=東海大学文学部日本文学科准教授・日本近代文学)
★まぶち・こうじ=中央学院大学商学部教授・倫理学・社会哲学。著書に『連帯論』『貧困の倫理学』、共著に『いまを生きるための倫理学』など。
書籍
| 書籍名 | 幸徳秋水 |
| ISBN13 | 9784623099566 |
| ISBN10 | 4623099563 |
