2026/09/18号 6面

メソポタミアのボート三人男

メソポタミアのボート三人男 高野 秀行著 竹内 修司  誠に不勉強で申し訳ないことに、評者は「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」をモットーに、英語、仏語を能くするほか二十五以上もの言語を学んで三十余年にわたって辺境地探査を続け、四十冊近くの著書をものして「エンタメ・ノンフ(ィクション)」作家を自称し、数々の賞を受けているこの本の著者の作品に、これまで触れる機会を持たなかった。が、この作で著者と出会えたことを嬉しく思う。  タイトルからも分かるように、英国作家ジェローム・K・ジェロームの名作とされる『ボートの三人男』にあやかった本作の特色は、この川下りの同行者、著者が長年兄事する八歳年長者と二人だけのコンビなのに〝隊長〟と奉る「世界で最も川を旅した男」こと山田高司。環境活動家にして歴史に詳しきダジャレの名手、しかもこの書の随所に克明なイラストを添えているこの人の、なんとも魅力的な言動に、ジェロームのテムズ河遡行中の仲間たちの傑作エピソードを思い起させるものがあったからだろう。三人組とあらばもう一役、それはこの二人コンビが一人漕ぎの小ゴムボートを連ね、要所から要所まで数日間の宿泊地点を定めたその場所へ必要物を持って先回りドライヴする現地のトラベル・ガイド。登場するこの二人の個性も巧みに書き分けられて読ませる。  だが、この書の最大の読みどころは、その舞台がチグリス・ユーフラテス両河それぞれの源流であるムラト川、ムンズル川を下ることにある。トルコ、イラン、シリア、イラクに跨るこの中東地域は、人類最初の文明発祥の地であり、今日は世界最大の石油資源を蔵し、同じイスラム教ながら宗派によって対立するこれら国家群と、その国境を跨いで生きる、国家を持たない世界最大の民族と言われるクルド人の存在が様々な国際政治問題を惹起している、現代世界で最も注目を集めている地域である。  ボート・コンビはこの地の川を下りながら、宿泊地と定めた村や町で、人類に、農業という最大の生存の糧を生み出したこの周辺の自然・文化の変貌に対応しつつ生きる人々と、短いながら温かい接触・交歓を重ねる。「一般的には川の幅が広くなるほど、旅の面白さは減じる傾向にある。川幅が狭い方が面白い。自然や人の生活を身近に感じるし、変化に富む。だから下流よりは上流の方が、本流よりは支流の方が楽しい」。「川は上から下に水が流れる。源流域で何かが生まれ、それが下流域に伝わって、より適した環境で大きく育つ……川と歴史は遡るべし。川の源流は文化の源流でもある」。いずれもこの旅の体験から得られた至言だろう。  住民たちとの交流については「片言でも地元言語を話すと、みんなの顔がパッと明るくなって話が弾む」、「ただの通りがかりのガイジンがいつの間にかすっと地元の人たちの中にはいっていく」と著者は記す。土地の人天性の人なつこさもあろうが、やはり著者独特の人柄アプローチの賜物であろう、それがこの書の魅力だ。レポートの肌理は細かく、密度は濃厚。四百ページに近いこの長編には、紹介したい場面や名言は〝隊長〟発も含めて数多いが、いまやそのスペースはない。トルコとイラクでのクルド人扱いの相違など、機微に触れる問題の指摘も少なくないのだが。  悠久の流れが、その岸辺に住み着く人間の本性を示し、人間の営みの原型と、置かれた自然環境によって生ずる差異。政治権力や宗教の影響力の進退によって変化する時代の大勢に、順応しつつ、或いは抵抗しつつ生存する人間の在り様には変わりないのか?  実に様々なことを、このヒューマン・ウオッチャーの新著は考えさせてくれる。  上質のエンタメ作品としてばかりでなく、文化人類学、国際政治学、宗教学、地政学などの観点からも評価され得る作品ではなかろうか。(たけうち・しゅうじ=元編集者)  ★たかの・ひでゆき=ノンフィクション作家。著書に『謎の独立国家ソマリランド』(第三十五回講談社ノンフィクション賞、第三回梅棹忠夫・山と探検文学賞)『語学の天才まで1億光年』『酒を主食とする人々』『イラク水滸伝』など。一九六六年生。

書籍

書籍名 メソポタミアのボート三人男
ISBN13 9784087700398
ISBN10 4087700399