- ジャンル:特集
- 著者/編者: マルクス・ガブリエル
- 評者: 浅沼光樹、中村徳仁
対談=浅沼 光樹×中村 徳仁
<ガブリエル―錯綜する人間の哲学>
マルクス・ガブリエル『意味・無意味・主観性』(青土社)刊行を機に
ドイツの俊英マルクス・ガブリエルの新刊『意味・無意味・主観性』(浅沼光樹訳、青土社)が上梓された。世界的知識人としての発信が目立つガブリエルだが、彼の本業たる哲学理論家としての一つの決算がここになされた形である。訳者の浅沼氏と、シェリングを専攻しガブリエルの思想にも詳しい中村徳仁氏に、本書の成果とガブリエルの哲学について語っていただいた。(編集部)
中村 私が浅沼さんと出会ったのは2018年、まさに大々的な来日とともにガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)が翻訳され、また雑誌『現代思想』や『読書人』での特集〔2018年6月29日号1・2面〕が組まれた時期でした。それから8年経った今、2024年に出版されたばかりのガブリエルの理論的著作が日本語に翻訳されました。
浅沼 ガブリエルの邦訳著作には、共著やインタビュー録、専門家ではない一般読者に向けた書籍など様々ありますが、今回の『意味・無意味・主観性』は、彼の仕事の中で一番の本筋に当たるものです。かねてより彼は、「意味の場」と呼ばれる複数の文脈や枠組みに何かが現われることが存在するということだとする多元主義的な存在論を提唱してきましたが、本書はそうしたベーシックな彼の体系を大きく改訂した重要作と考えてよいでしょう。ガブリエル自身、本書は「イノベーション」だと語っています。
一般読者には、本書で打ち出される「可謬主義」、つまり私たちは間違うことができる存在者である、ということに焦点を当てる議論は、「ポストトゥルース」的な新しい人間像を打ち出しているものとして捉えられているようです。それはその通りなのですが、私としてはそのような人間像がこれまでとは異なる概念を用いて表現されていることに特に注目し、本書を彼の従来の思想を一歩先に進めたものとして捉えたいと考えています。
中村 本書の「イノベーション」をどう理解すべきでしょうか。ガブリエルはこれまでも『なぜ世界は存在しないのか』などで「私たちには可謬についての理論が必要だ」と述べてきました。可謬主義が彼の一貫したテーマであることは事実です。例えば、彼のデビュー作であるシェリング論『神話の中の人間』(未邦訳)でも既に、我々は神話=イデオロギーの自己生成プロセスに常に巻き込まれ錯綜していると主張しています。また『超越論的存在論』(人文書院)では、世界の偶然性や不完全さが強調されていました。あるいは、彼の重要概念である「無世界観」や「意味の場」もまた以前から語られてきた主題です。キーワードは共通している。そのうえで、本書が「革新」と言えるのはどこでしょう。
浅沼 可謬主義はごく初期から、懐疑主義への批判とセットで主張されてきたもので、特に目新しい主題というわけではありません。しかし、解題にも書きましたが、以前は「精神〔Geist〕」や「実存」と呼んできたものを、本書では「無意味」と表現するようになりました。「世界は存在しない」などといったきらびやかなテーゼと比較すると、「主観性」を語るための語彙がいまひとつ古臭かったのです。しかし今回、「意味」概念や、「唯一の包括的な世界はない」という「無世界観」に加えて、新たに「無意味」の概念を導入したことによって、そのような不揃いな印象が取り除かれ、哲学としてずっと洗練されたものになりました。
以前から僕はガブリエルに対し、「人間」という主題への掘り下げが浅いのではないかという批判をしてきましたが、本書でガブリエルは、「無意味」という概念でもって人間を規定しなおしており、その点に大変興味をひかれました。これはかつてハイデガーが人間を「現存在」と呼んだのに匹敵するような、ガブリエル独自の人間についての新しい見方と言えるのではないでしょうか。
ですので、中村さんの問いに答えるなら、本書の要点は、主観性という主題に回帰したことにある、というよりは、主観性を無意味として捉えなおしたことにある、と言ったほうがいいのではないかと、そう思っています。
中村 仰る通り、ガブリエルは本書で人間を再定義しました。目を引くのは、自らが想定する「錯綜する主観性」を説明するためにプラトンの対話篇『テアイテトス』に登場する鳥小屋の比喩を援用した箇所です。鳥小屋を飛び回る無数の鳥の中から、求める一羽を捕まえるためにはそれらの中を搔き分けなければならない、という議論です。何かを正しく知るためには、誤った判断をするリスクがつねに伴う。このようにして、人間の主観が錯綜した場として理解されるわけです。
中村 この話題と、今回「主観性」という言葉が再浮上していることから、ガブリエルが最初期に精神分析学者スラヴォイ・ジジェクと共に著した『神話・狂気・哄笑』(堀之内出版)が想起されます。錯綜や混乱は、まさに精神分析の重要テーマです。そしてジジェクは、中期シェリングの思想を意味〔Sinn〕と無意味〔Unsinn〕と狂気〔Wahnsinn〕の三つ組みで読み解きました。人間はまさに意味と無意味のあいだの宙づりを生きる、中途半端で狂気的な存在です。そこからの影響は定かでないですが、ガブリエルも混乱や錯綜といった主題へと踏み込むに至っています。にもかかわらず、本書では精神分析への言及が避けられています。どうして精神分析を捨ててしまうのでしょうか? 実はこれは、ハーバーマスをはじめとした現代ドイツ思想一般に対しても抱いてきた疑問なのですが。
浅沼 精神分析については何も語られていないので、本書をもとに正面から答えることは難しいかもしれませんけれども、ありうる答えの一つを推測することはできるのではないかと思います。というのも、精神疾患を本書で論じられているような意味での「錯誤」ないし「誤謬」の一種と解しうるならば、本書におけるガブリエルの一般的な見解は、精神疾患にも当てはまると考えられるからです。たとえば本書で「狂気」に類する主題を扱っているのは、「詩」の無意味を論じている箇所でしょうが、そうした無意味は、「世界は存在しない」ということに伴って必然的に生じる意味の場の普遍的な「混乱」に、その存在論的な根拠をもつとされています。
だから本書では、「無意味」は単純に取り除かれ克服されるべきもの、あるいはそうしたことが可能なものとしては理解されていません。むしろ、それを立脚点にすることが目論まれているんですね。いずれにせよ、見つめているものはジジェクと同じです。しかし、対応の仕方が異なります。ガブリエルにとって「錯誤」や「誤謬」は、克服すべきものというよりは、それなしには人間が人間でなくなるような条件としての側面が強調されているように思われます。「明るさ」や「楽観主義」が揶揄されることが多いガブリエルですが、その根底にこのような現実主義的な、ある意味ニヒリスティックとも言える認識があることはあまり注目されていないようです。彼にしてみれば、「錯誤」や「誤謬」を根絶できるという思い込みのほうがよっぽど素朴な楽観主義なのですが。
中村 なるほど。彼は現代を「暗い時代〔dark time〕」と表現します(『暗い時代における道徳的進歩』(講談社・近刊)として書名にもなっています)。そうした状況を対処可能だと考える点で楽観的ですが、世界自体がそもそも支離滅裂だから人間の精神も錯綜してしまうのだとする価値観は、ジジェクと同様に悲観的と言えるでしょうね。
最近私が驚いたのは、ジジェクが昨年発表した『量子的な歴史〔Quantum History〕』(未邦訳)という分厚い理論書の結論部で、ガブリエル批判に相当な紙幅を割いていたことです。ガブリエルの議論を自分の議論と差異化する必要性を感じたのでしょう。ジジェクは、イスラエル・ガザに関するガブリエルの発言は彼自身の「道徳的実在論」と整合しない、ダブルスタンダードだと批判します。そして、「結局我々は本当に暗い時代にいる」などと結び、ガブリエルを人間学的楽観主義、自身を人間学的悲観主義とみなすのです。
二人は時局的な発言に関しては真逆ですが、暗い時代認識を共有してもいるのかもしれません
浅沼 ジジェクについては、僕自身はシェリング論(『仮想化しきれない残余』青土社)ぐらいしかまともに読んだことがなく、熱心な読者ではまったくない、ということを最初に断わっておきます。ですので、見当違いなことを言っているかもしれませんが、お話をうかがう限りでは、ジジェクの場合、ペシミズムから脱出する可能性として革命的行為を希求する、ということになりますか。もしそのように理解してよければ、ガブリエルとは違いますね。ジジェクのような革命的な飛躍は考えていないのではないでしょうか。
中村 ジジェクの果たした大きな功績は、イデオロギー批判の重要性と困難さを理論化した点に認められるでしょう。「人間は誤りを誤りだと十分にわかっていながら、なおも欲してしまう」というシニシズムの問題を、ドイツの哲学者スローターダイクから引き継いで見事に描き出したわけです。そうした問題にまで、後続のガブリエルの矛は、はたして届いているのでしょうか……。
浅沼 イデオロギー批判の理論をベースに革命的行為に向かうというのであれば、ガブリエルの世代では、ジジェクたちのポストモダン世代とはイデオロギーに対する態度があきらかに違っているようです。今世紀の初頭に実在論へ向かった人々は、イデオロギー批判と実際の社会改革の行為の間には簡単には架橋できないギャップがあると考えて、独自の道を模索しようとしました。情動への注目などはその代表的なものの一つです。ガブリエルもまたそのようなポスト・ポストモダン的な姿勢を共有しているわけですが、本書ではそうした先行世代との違いは、イデオロギーを「誤謬」の一種と見なしつつも、同時にそれを単純に否定するのではなく、その肯定面、ある種の有用性を強調するという姿勢によく現われているように思われます。
中村 はい。しかもその議論が本書の結論部に位置しているので、非常に驚きました。無知、イデオロギー、プロパガンダ……これらを価値中立的に見ている。ふつうは否定的にのみ理解されがちですが、人間が共同して社会を営むうえでは不可欠な要素であると、肯定的にも捉えているわけです。最近、隆盛している「無知学」への言及なども印象的です。
浅沼 ガブリエルのそうした姿勢は「虚構主義」を相当にくわしく論じている点からも読みとることができます。「虚構主義」というのは、本来「誤り」だったり「意味」をなさないものを、それを理由に単純に却下するのではなく、むしろそうした性格をわきまえた上で、それを真理の探求のために有効利用することですが、そこにも真理と虚偽が切り離しがたく結びついている様子が見てとられるわけです。虚偽の中にも批判されるべき用法とそうでない用法があり、それを区別していくべきだということですね。だから単純なイデオロギー批判とは一線を画しているのだ、と僕は理解しました。
中村 『なぜ世界は存在しないのか』では、「ユニコーンは実在する」といった命題が有名になりました。ピンと来なかった読者も多かったのではないかと思います。しかし本書の地点まで来ると、賛否はともかく、そのような命題の社会存在論的な意義がわかってきたように感じます。
例えば、2023年に刊行した前著『諸々のフィクション』(未邦訳)の冒頭は、ヘーゲル『大論理学』で有名な〝Das Sein ist Schein.〟(存在は仮象である)という警句をひっくり返して〝Der Schein ist Sein.〟(仮象は存在である)、つまり虚構もれっきとした実在であると宣言して始まります。そこでガブリエルは、第一部を虚構的実在論、第二部を心的実在論、第三部を社会実在論に当て、我々が抱いている虚構をもとに社会がどのように立ち上げられていくのか、段階的に描いています。構成からしても、ヘーゲル主義が色濃い著作でした。
一方、今回の『意味・無意味・主観性』では、「誤り」に強くフォーカスされており、シェリング的な色彩も漂っているようです。この二冊の間には一年ほどしかないので、そこまで大きな変化があったと考えることは難しいですが、確かに社会実在論の展開の仕方にある程度の変化がある。
浅沼 いやむしろ、相当大きい変化があったと僕自身は受けとめているのですが、どうでしょうか。ガブリエルは、ドイツ古典哲学の遺産を英米系の分析哲学の文脈と照らし合わせながら、なお完全にはそこに翻訳しきれない重要な概念として「精神」に注目し、それを現代に復活させようとしていたのですが、「精神」という概念はヘーゲルを強く連想させます。それをいったん封印し、「無意味」の次元にまで掘り下げるとともに、彼の研究の出発点でもあった後期シェリングへの一種の回帰を見せているのは見逃してはならない変化だと思うんですね。
そうした見地から、解題ではシェリングの『人間的自由の本質』の悪論が誤謬論に転用されているということを指摘しましたが、ここではそこにガブリエル独自の視点が加わっていることも付け加えておきたいと思います。その一つが、中村さんがいま仰ったような「社会」という観点ですね。社会のなかで私たちは、ものごとには間違っているものと正しいものがある、という区別を学びます。こうした基準を我々自身が内面化するから、間違いと正しさも区別ができるようになる。一足飛びに革命に飛躍するような話ではないでしょう。
中村 ガブリエルは子どもや教育に関する著作もいくつか出していますが、『諸々のフィクション』ではとくに、次のようなことを語っています。イデオロギー批判や体制転覆よりも制度改良が重要である。制度というものはそもそも完璧ではなく、我々の錯綜した心が客観化されたフィールドなのだから、そのただ中で揉み合って少しずつ訂正と改良を重ねていくことが肝要なんだ、と。さらにその漸進的な改良の過程では、「構想力〔Einbildungs-kraft〕」が重視されています。日本では三木清が、諸個人の構想力が神話や制度、技術へと発展していく中で客体化していく過程を論じていますが、それに近いことをガブリエルもまた考えているように思います。
浅沼 人間について自分の言葉で語ることができるようになったのは、やはりものすごい進歩と言えるように思われます。
「天才」と持て囃されて登場した彼ですが、2011年に「新しい実在論」という思潮を立ち上げてから本書刊行まで10年以上かかっている。それこそが僕にとって印象的なんです。「イノベーション」と言うのは簡単ですが、これだけ時間がかかるものなんだ、と。
中村 「自分の言葉」というなら、今回彼は、意味・無意味・主観性の三つの概念を独自の仕方で提示し直したとは言えるでしょう。だとすると、「イノベーション」を経た後の彼の思想はなおも「実在論」と呼ばれるべきなのでしょうか。
浅沼 彼の出発点はやはりポストモダン的な文化相対主義だったと思います。もちろん批判の対象という意味なんですが、だからといって単純に否定するのでもない。ホーリズムに逆戻りするわけにはいかないからです。だから一方では、すべてを包括する対象としての世界を否定して相対主義を徹底させながらも、他方で社会構築主義的と見なされる人間の活動もあくまで実在に根差したもの、実在の一部と考えます。
文化相対主義は出発点にすぎません。行き着くべきところは文化多元主義でなければならない。しかしそうした多元主義は、人間の構築主義的な活動をふたたび実在へと埋め込むことによって実現されるのです。本書でも基本的に同じ考え方をしていると思います。ですから彼は実在論を維持していると見てよいのではないでしょうか。
中村 ガブリエルはあくまでも「実在」という言葉を使い続けています。しかし、同じ言葉であってもその中身はやはり改訂されてきているようにも思われます。本書で気づいたのは、文脈的実在論を提唱するフランスの哲学者ジョスラン・ブノワと、解釈学的実在論を展開するドイツの哲学者A・F・コッホの存在感です。ガブリエルに触発されて、ここ十年で浮上した「新しい」実在論者たちとの対話が、本書では重要な役割を果たしています。その二人も近々、邦訳が出るとうかがっています。
中村 またガブリエルの実在概念に関して特徴的なのは、それがやはり世界概念を否定しながら成立しているということです。今回の本で面白かったのは、ハーバーマスと会見した際の議論に関する長い注です。今春亡くなったハーバーマスもボンでのシェリング研究からスタートしていますし、二人には共通点もあります。他方で、ポスト形而上学を唱えたハーバーマスでさえ「世界」という概念には手を付けませんでした。彼は「〈自然の進化〉〔…〕に埋め込まれている〈社会的領域の進化〉という「世界内の出来事」について説明してほしい」と言った、とガブリエルは証言しています。ハーバーマスはあくまでハイデガー=ヴィトゲンシュタイン由来の「世界」という概念に頼って漸進的な進歩を考えましたが、ガブリエルは「世界」に頼らない。この対比が指摘できるように思います。
浅沼 ハーバーマスはもしかしたら先輩風を吹かせたのかもしれませんね。シェリング研究の先輩として、ガブリエルの理解に釘を刺した。最近のハーバーマスしか知らない人には意外かもしれませんが、彼もシェリングの研究から出発し、ガブリエルと同じく若き天才としてもてはやされた過去があります。ただハーバーマスはシェリングの中期思想、具体的には当時発見されたばかりの『諸世界時代』の第一校(未定稿)を非常に重視し、「積極哲学」と呼ばれるそれ以後のシェリングの思想の展開を『諸世界時代』からの決定的な後退と捉えて、厳しい口調で非難していました。これに対してガブリエルの博士論文は、まさにその『神話の哲学』という「積極哲学」の体系の一部門をとりあげて論じているんですね。深読みと言われたら確かにそうなんですが、ハーバーマスがガブリエルを批判するとき、暗に彼のシェリング解釈も批判しているように聞こえるときが僕にはあります。
それはさておき、僕が気になるのはもう少し広い文脈です。ガブリエルはこれまでは、形而上学的な存在論から形而上学なき存在論へという大まかな流れはともかく、詳細な哲学史的展望は提示してきませんでした。けれども彼が実際にしていることを見ると、背後には独自の哲学史理解があるようにも感じられます。
例えば、本書ではフレーゲやウィトゲンシュタインへの言及が頻繁に行われています。彼らの思想は英米系の言語分析哲学の文脈で論じられるのが普通ですが、ガブリエルは彼らをドイツ語で執筆した哲学者として、カントなどと同列に特に区別することなく論じています。こうしたことの背後には、独自の哲学史ないしドイツ思想史の理解があるのではないか、と思うのです。
中村 確かにそうですね。思想史的な観点では、ライプニッツへの言及が気になります。『なぜ世界は存在しないのか』でも本書でも、モナド論の読み替えを試みています。「神なきモナドロジーを構想している」と語ったこともあるようです。フレーゲやヴィトゲンシュタインの読解の裏テーマとして、ライプニッツが潜んでいる可能性はないですか?
浅沼 これについては手掛かりが少なく何とも言えませんね。少なくとも本書ではモナドロジーは批判的に扱われているようですが。例えば本書の注の一つでは、モナドロジーを「あらゆる対象は他のあらゆる対象から完全に隔離された一個の宇宙である」という教説と要約した上で、このような教説(モナドロジー)もまた一つの対象(モナド)であるなら、他者との通路をもたないという意味でモナドロジー自体が不可解なものになってしまう、と言われていました。
中村 話が変わるようなのですが、ガブリエルは来月『AIと倫理的知能』(KADOKAWA)という新書を出版します。彼のAI論は一見よくわかりません。例えば、人間同士ですら倫理的規範に関する意見は不一致なのだから、AIの価値についても統一的な見解を得ることは不可能だ。逆に、AIから「人間はどうあるべきか」という価値の問いについて教えてもらえばいい、などと語る。AI脅威論や終末思想といった昨今の悲観主義について問われると、彼はその風潮には乗らずに上述の議論をするのです。どうにも変な感触があります。その新書を手に取ってみないと判断はできませんが、本気で言っているのかいまいちわからない……。
浅沼 AIについては、僕は人文系の人々に向けてわかりやすく書かれた書籍しか読んだことがなく、仕組みや問題点などについてごく基本的なことしか知りません。ご指摘の本も未読なので、何とも言えませんが、AIの出現が人間の自己理解に何らかの影響を及ぼすということなら、十分に同意できます。
ただ人間の自己理解の未来ということで言えば、個人的にAIの話題以上に興味深いと思うのは、最後に中島隆博さんの〈共に人間になること〉〔Human Co-becoming〕という概念が深い共感をもって引用されている、ということです。これはガブリエルの言う道徳的進歩が、必ずしも西洋的な理想にとらわれていないことを示しています。中国的なもの・儒教的なものもまた視野に入っているのです。
このように異なる文化的背景をもつ人々が、互いの価値観を尊重しつつ、協力しあうことなしに、人間は人間になれないのだという見解には、ガブリエルの多文化主義が鮮明にあらわれており、しかもそれがアジア人である中島さんの言葉によって表明されているのは、「共に人間になること」のガブリエルなりの実践とも読めます。こうしたことを念頭に置くと、中国の大学に赴いて中国語で講演することにも、たんなるパフォーマンス以上の意味があると言えるのではないでしょうか。
本書における中島さんへの言及は、別の角度からも捉えられるのではないかと僕は思っています。つまり、ここでガブリエルの「新しい実在論」の改訂版は中島さんが中心となって押しすすめている、いわゆる「世界哲学」の試みと交差していると見ることもできるのではないでしょうか。「世界哲学」というのは、哲学イコール西洋の哲学という前提を疑問視し、哲学の概念を非西洋的思惟のさまざまな伝統を包括しうるように拡張することによって、哲学そのものの脱西洋中心主義を貫徹しようとする試みのことで、2010年代終盤から急速に勃興してきた今最も注目されている哲学動向の一つです。
この動向では、ドゥルーズやデリダやなど西洋的思惟の克服や脱構築を企てたとされる哲学者たちが実際にはいまだ西洋中心主義的な哲学概念に深く囚われていたことが暴露されるとともに、その克服のために日本哲学やアフリカ哲学などの非西洋的哲学の抜本的な見直しが行われるという事態が生じていますが、こうした動向と交差するようなものとして、ガブリエルによる中島さんへの共鳴を受け止めることもできるのではないでしょうか。つまりそこにはガブリエルの「世界哲学」的な関心が表明されているのではないでしょうか。
要するに、本書におけるガブリエルの思索は2000年代後半から2010年代前半のポスト・ポストモダン的実在論から2010年代後半から2020年代前半の世界哲学へ、という動きを反映している一面があるということなのですが、どうでしょうか。
中村 思弁的実在論の起点となったカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院)は、今年で原著出版20年です。邦訳出版も10年前。振り返るべき時期に来ているのだと感じます。実在論から世界哲学へといたる流れを考える上では、ガブリエルもその中に位置づけられる「現代実在論」が持つ三つの横断性が関係していると思います。まず一つ目は、領域横断性です。実在論的転回以降、哲学は人類学や芸術、量子物理学など、さまざま分野に跨った議論をいっそう展開するようになった。
二つ目は、先ほどのご発言のメイントピックであった、地域の横断性です。必ずしも中心にはいなかった人たちが思潮の担い手となっている。昔であればパリやアイビー・リーグに中心人物たちが集中していましたが、今では「周辺」とされている地域で活躍する思想家たちが注目されるようになっています。依然として用いられる言語は英語が多いですが……。
そして三つ目、20世紀に横たわっていた英米哲学と大陸哲学の分断を超える試みです。自分の哲学的問いこそが大事なのであって、使える遺産は学派に囚われず縦横無尽に使うべきだと。この発想は、実在論運動の重要な契機だったのではないかと思います。
ただ、21世紀初頭の20年がその第一段階だったとしたら、この5、6年で生じているのは第二段階なのかもしれません。まさに浅沼さんが焦点を当てた、西洋と非西洋の越境の試みが本格的に盛り上がっていく段階です。例えば、香港出身の哲学者ユク・ホイの言う『ポスト・ヨーロッパ』(岩波書店)あるいは『東西の彼岸』(中央公論新社)です。彼はまさに、ロンドン大学ゴールドスミスカレッジで2007年に行われた、思弁的実在論のワークショップに学生として当時参加していました。20年経った今、その彼が世界的プレイヤーになっているわけです。今後は、わざわざ「現代実在論」などと言わなくても、それの良いところが発展していき、またその限界も乗り越えられていくのではないでしょうか。そうだとすると、もはや「現代哲学は停滞している」と皮肉る必要はないのかもしれません。
浅沼 山内志朗さんが世界哲学の文脈において、周辺と中心の対比において前者を重視する議論をしています。思弁的実在論のムーブメントに関わった人たちも、哲学アカデミズムから外れた周辺の人物が多いですね。ユージーン・サッカー(『この惑星の塵のなかで』浅沼光樹訳、青土社)はメディア学の教授ですが、哲学の関連領域であるものの英米哲学のメインストリームではない、比較文学や比較宗教学、出身の人や、そもそもアカデミズムに属さない人も多い。思弁的実在論がヨーロッパの中の非ヨーロッパだったとすれば、そのような周辺の台頭が「世界哲学」においてもっと直接的な仕方で顕在化してきたと言うこともできるかもしれません。
「世界哲学」では、英語のグローバルな一元支配に抵抗するような形で、 複数の言語の間での翻訳という一種の間接的なコミュニケーションが再評価されているのも、非常に面白いです。複数の西欧言語で書かれた論文と日本語の論文とが一緒に掲載されている日本哲学の国際ジャーナルがあるそうですが、日本人が日本語で哲学し、そのまま日本語で世界に発信するのがおかしくないという、そうした未来もありうるのかもしれません。
ここで中島さんに話を戻すと、ガブリエルと交流のある日本の哲学者や研究者は、中島さん以外にも複数いらっしゃるんですが、僕個人としては、ガブリエルの「可謬主義の哲学」と東浩紀さんの「訂正可能性の哲学」を比較してくれる人がいたら、あるいはちょうどユク・ホイとしていたように、当人同士が実際に対話してくれたらいいな、とつねづね思っています。
中村 そうした周辺に対するまなざしというのは、西洋が自らのアイデンティティを再考する契機でもあります。最近公開された、クリストファー・ノーランの映画『オデュッセイア』が世界的にヒットしています。あの映画の中心的なメッセージは、これまで西洋が歩んできた道のりを振り返り、誤りについて「謝る」ことからアイデンティティを再出発させよう、というものだと解釈できます。哲学においてもこうした展開の萌芽が見えます。
それに絡めると、この過去の「誤り」について「謝る」というモチーフは、宗教哲学への入り口だとも言えそうです。ガブリエルにおいてそうした展開は見込めるでしょうか。
浅沼 ガブリエルはもっと深いレベルで宗教の問題にコミットしているのだとは言えませんか。宗教というのは特定の「神聖な価値観」を絶対的なものとして奉ずる都合上、和解の可能性のない対立や分断を生みだします。イギリスの宗教哲学者・神学者のジョン・ヒックは、この分断に基づく宗教間の対立を現代社会の最大の問題の一つと見なして、それを克服するために、宗教多元主義を唱えました。異なる「神聖な価値観」を信じるもの同士がどうしたら協力しあえるのかという問題意識です。しかしこれは理論的に十分基礎づけられていたとは言い難かった。
ガブリエルはその基礎づけを引き受けることで、宗教の問題にコミットしているのだと理解できないでしょうか。宗教の多元主義が成立するためには、まず存在論のレベルで多元主義が確立されている必要があります。そのような基礎がなければ、宗教多元主義はたんなるお題目にとどまるでしょう。
最近、スティーブン・スローマンという認知科学者の『信念のコスト〔The Cost of Conviction〕』(未邦訳)という本を読みました。彼は、人間には善悪に関する二つの判断基準が欠かせないと言います。一方は、究極の価値観に基づくもので、他方は帰結主義的/功利主義的な考えです。つまり、信念に従った行為が正しいとする見方と、行為がもたらす結果の良し悪しに照らしてその行為の善悪を判断する見方です。そして我々には、神聖な価値を必要とするときもあれば、その価値に中毒してしまうときもある。神聖な価値の独り歩きを必要に応じてストップすることができないために、分断が引き起こされると主張するのです。
ガブリエルの仕事も同じような動機に基づいていると考えることができるでしょう。ただ彼の場合、究極の対象としての世界は実在しないのだから、どんな人も自分の意見を絶対的な形而上学的真理として主張することはできません。こんなふうにして「神聖な価値観」の中毒を防止しようとしているわけです。だからガブリエルがある種の「神聖な価値観」を主張しているように見えるときでも、それはいわば本当の意味で絶対的なものとして提示されているというよりも、一つの訂正可能な見解として討議の場へと投げかけられていると見なすのが妥当だと思います。
中村 社会学者ピーター・バーガーは、「聖なる天蓋」という有名な議論で、宗教の役割は、人間の生死に「意味」を与えることで、世界の「無意味さ」から守ることだと指摘しました。それに引き付けるなら、意味と無意味を実在として再定位するガブリエルの思想は、世界に意味を与え返す一種の宗教論として読むことも不可能ではないですね。
浅沼 いろいろ話してきましたが、ガブリエルの哲学は全体として「文化相対主義」から「文化多元主義」へという方向をもっていると解するのが、一番わかりやすい理解の仕方だと思います。さまざまな概念装置はそのための手段にすぎません。このような全体的な方向性を背景にして、いわば間違うことの豊かさへと目を開き、知を求める人間のありのままの姿を描きだそうとしているのが本書だと言うことができます。こうした認識の上に対話は築かれるというわけですね。そうした人間のありのままの姿をガブリエルは「無意味」と呼んでいるのですが、それは伝統的あるいはシェリング的な言葉では「自由」と言いかえられると思います。ペソアの詩にもあるように、人間とは無数の意味の場の隙間にある「あいだ」そのものなのです。
中村 多元主義へと向かうための試行錯誤を「可謬主義の哲学」として実践している、というわけですね。ガブリエル、そして現代哲学の世界的な展開がますます注目されます。(おわり)
★あさぬま・こうき=立命館大学客員研究員・ドイツ観念論。著書に『非有の思惟』『ポスト・ヒューマニティーズへの百年』『人間ならざるものと反政治の哲学』など。一九六四年生。
★なかむら・のりひと=三重大学助教・ドイツ哲学・思想史。著書に『シェリング政治哲学研究序説』、共訳書にガブリエル『超越論的存在論』など。一九九五年生。
書籍
| 書籍名 | 意味・無意味・主観性 |
| ISBN13 | 9784791778065 |
| ISBN10 | 4791778065 |
