2025/06/27号 1面

対談=伊高浩昭×柳原孝敦<追悼・マリオ・バルガス=リョサ>

対談=伊高浩昭・柳原孝敦 <追悼・マリオ・バルガス=リョサ> 「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引した最後の作家  4月13日、ラテンアメリカ文学を代表する作家マリオ・バルガス=リョサが亡くなった。長年にわたりラテンアメリカ文学を牽引し多数の著作を残した。一方で、1990年のペルー大統領選に出馬するなど、文学以外の面でも活躍をみせた。  このたび、ジャーナリストの伊高浩昭氏と東京大学教授の柳原孝敦氏に、バルガス=リョサの作品・作風や半生を振り返ってもらった。(編集部)  伊高 ペルーのノーベル文学賞作家、マリオ・バルガス=リョサが4月13日に亡くなりました。いわゆる「ラテンアメリカ文学ブーム」の先頭に立った人物の一人ですが、ラテンアメリカをはじめスペイン語文学の専門家である柳原さんから見て、バルガス=リョサはどのような作家でしたか?  柳原 ラテンアメリカ文学ブームの中で最初にスターになり、ブームを牽引した作家の中で最後まで生き残っていた人物ですから、ラテンアメリカ文学ブームはいわば、バルガス=リョサにはじまり、バルガス=リョサに終わったと言っても過言ではありません。それに、小説自体もとても面白いので、ファンは多いと思います。  作風という観点から申し上げると、初期の作品はだいぶ複雑でしたが、70年代の『パンタレオン大尉と女たち』や『フリアとシナリオライター』を執筆したあたりで、複数のプロットを別々に語り、それがやがて一つになっていくという形を確立し、それがバルガス=リョサの作風として定着します。そして、その語り方は後の世代に相当影響を与えました。  伊高 とはいえ、初期の『都会と犬ども』や『緑の家』、あるいは『世界終末戦争』あたりをバルガス=リョサの代表作として挙げる人が多いようですね。  柳原 私は、今でも『緑の家』が一番好きですよ。  今挙がった『緑の家』や『世界終末戦争』の舞台に通じますが、バルガス=リョサはアマゾン地帯にかなりコミットした作家だということも言えて、初期の作品のみならず、晩年の大作である『ケルト人の夢』にもアマゾンは描かれます。そういう意味でも、私としてはアマゾンを描いたバルガス=リョサが一番面白いと思っています。  伊高 柳原さんは『緑の家』のどのような部分が好きなんですか?  柳原 形式の複雑さでしょうか。そこが私にとっては面白い。飽きないといいますか。なおかつ、テーマも多用で、修道院、先住民、国境警備隊、地方の名士などの人間関係が複雑に絡み合っていて、そういったところもとても面白く読みました。  伊高 そのような複雑さを帯びた作品が、70年代頃に変化し、違うスタイルを確立した、と。それによって印象もだいぶ変わりましたか?  柳原 初期に比べて、とてもわかりやすくなりました。加えて、軽いテーマも取り上げられるようになります。それこそ『フリアとシナリオライター』では、たしかにペルー社会の問題を扱っている面もありますが、かといって変に政治的ではないので、本当に軽い感じです。だけど、軽いテーマであっても面白い作品として仕上げてくるので、だからバルガス=リョサ作品を読むのは面白いのです。  伊高 ところで、バルガス=リョサの作風の変化は、彼の政治的、思想的な変化と重なるところがあると思いませんか。というのも、彼は1959年元日のキューバ革命に影響を受け、当初はフィデル・カストロを礼賛していたのですが、後に反カストロに回った例などがあるからです。  柳原 小説以外の面では本当に反動的になりましたよね。作品でいえば、例えば『チボの狂宴』では、ドミニカ共和国の独裁者トゥルヒーリョの暗殺問題を扱っていますし、2025年8月発売予定の『激動の時代』では、ハコボ・アルベンス時代のグアテマラのクーデターに、いかにダレス兄弟やユナイテッドフルーツが関わっていたかを描いている。そうした体制側の悪を剔抉するような作品も書く一方で、体制に批判的なラテンアメリカ左翼勢を一緒くたに腐して、時にはアメリカ合衆国寄りの発言をしていました。もしかすると、彼の中で作品と普段の言動に矛盾はなかったのかもしれませんが、読者からするとそこの乖離は明らかで、むしろ興味深いです。  伊高 バルガス=リョサは生前のインタビューで、影響を受けた文学者の一人としてウィリアム・フォークナーを挙げていました。フォークナーのどういうところを気に入っていたと思いますか。  柳原 端的に言うと語り口ですね。加えて、フォークナーはアメリカのいわゆるディープサウスを描いたので、それが彼らラテンアメリカの人々にとって共感を得るところだったのだと思います。それにバルガス=リョサはフォークナーのほかにも、様々な作家からの影響についても言及していて、ギュスターヴ・フローベールやジャン=ポール・サルトルの名前を挙げています。実際、最後の小説のあとがきには、小説はこれで最後で、あとはサルトル論を一冊出すと書いていますよ。  伊高 結局、そのサルトル論は実現しなかったのですか。  柳原 今のところ出ていないのではないでしょうか。そもそも、どれくらい書いていたのかも定かではありません。でも、最後の最後にサルトル論を出すというところに、いつまでも自分が社会参加する知識人であるという、彼なりの態度表明なのではないかと思います。  伊高 バルガス=リョサを語る上で欠かせないのが、ガブリエル・ガルシア=マルケスとの対比を含めた関係性でしょう。世界的にもこの二人がラテンアメリカ文学の双璧だという認識が定着しているようですが、柳原さんはこの二大作家をどのように比較しますか?  柳原 バルガス=リョサは本当に真面目で、あまり冗談も言えないような人。ガルシア=マルケスは反対に何でも冗談にしてしまう人だと、それぞれの人間性を認識しています。特にガルシア=マルケスは何に対してもはっきりと言明はせず、のらりくらり躱していて、私はそういったガルシア=マルケスの態度にシンパシーを覚えます。  伊高 物事を曖昧にする、いわゆる〝マジックリアリズム〟ですね。ただし、この呼び方は米国人が付けたもので、本人たちはそう総称されるのは本意ではなかったようですね。  それぞれの作品を読み比べても、ガルシア=マルケスはマジックリアリズムの使い方が実に絶妙で、それに比べるとバルガス=リョサには正面から構えたリアリズムの真面目さゆえの、どこか説明的で、読者に自分で考えを押し付けるところがあります。  柳原 バルガス=リョサはあくまでもリアリズムに徹し、幻想的な何かでごまかそうということはしませんでした。そのあたりはフローベール好きな面の表れだと言えます。  あともう一つ大きく違う点を言うなら、バルガス=リョサは時にテロリストと呼ばれるようなある体制、国家に反逆するような人を、かなりの割合で作品に取り入れています。作品によっては中心に扱うこともあるし、中心に扱わない場合でも、何らかの形で小説に入れています。かたや、ガルシア=マルケスの場合は、『族長の秋』に出てくる独裁者のような、あまり褒められないような人物の物語も、ある種の英雄譚に仕立てようとしている。このあたりに、両者の気質の違いが見える気がします。  伊高 たしかに、ガルシア=マルケスは一種のパロディを厭わずにやりますね。  柳原 バルガス=リョサはどんな作品でも少数派に目を向けますので、その眼差しにはとても共感が持てます。  伊高 両者の作風の違いは、それぞれの生い立ちにも表れている気もします。ガルシア=マルケスの場合は、『百年の孤独』のマコンドのモデルになったコロンビア北部、カリブ海に面するサンタ・マルタ近郊の町の出身ですから、カリブは彼にとって重要な意味を持っています。一方、バルガス=リョサはアンデスの山腹にあるアレキーパの出身です。  柳原 その意味においても、彼らが見てきた世界はまったく違いますよね。そして、ガルシア=マルケスは、ほとんどの作品でカリブ世界を描いています。  伊高 ガルシア=マルケスがカリブ・コロンビアを中心にした比較的狭い世界を扱ったのに対して、バルガス=リョサはブラジルもそうですし、晩年にはアイルランドにまで視線を向けている。  柳原 『ケルト人の夢』ですね。  伊高 そう考えると、バルガス=リョサの取り扱う題材の幅の広さを感じます。  柳原 そのバルガス=リョサとガルシア=マルケスを結びつける場所がアマゾンです。それこそ、『ケルト人の夢』にはコロンビアとペルーの国境地帯が描かれますが、その地域は1932、3年に行われたコロンビア・ペルー戦争の舞台でもあり、ガルシア=マルケスはこの戦争にだいぶ興味を持っていて、二人が仲良くなった頃に共作でコロンビア・ペルー戦争をモデルにした小説を書かないかと持ちかけた、というエピソードもあります。  伊高 両作家には有名な逸話があります。70年代にバルガス=リョサが突発的にガルシア=マルケスを殴り倒したのです。理由があったにせよ、みな驚きました。実は私は、両作家それぞれにインタビューしたときに、この喧嘩についても質問したんですよ。  柳原 それを聞くのはすごいですね(笑)。  伊高 この質問に対して、ガルシア=マルケスは「あなたは昨日の記者か」と言った。つまり、古いことは聞くな、という意味です。対してバルガス=リョサは「私は、彼がノーベル賞をもらった時に祝電を打っているし、とてもいい仲ですよ」と答えたので、この口ぶりからも、彼の紳士的な真面目さがうかがい知れる。一方の魔術的作家は「あなたは昨日の記者か」です。  そう言われて実はしめたと思った。この作家得意のマジックリアリズムの手法は、このような具合に作動するのかと気づいたからです。  柳原 そこで決定的な一言を引き出していれば大スクープでしたが、大事なことを言わないところはさすがです。  伊高 そんな両者にはジャーナリストとして共通点もある。  柳原 そうですね。  伊高 バルガス=リョサのキャリアはAFP通信社からはじまっていますし、ガルシア=マルケスも地元紙の新聞記者として特に調査報道で活躍し、また「プレンサ・ラティーナ(キューバ国営通信社)」の創設時にはハバナに駐在していた。両作家はジャーナリストとして出発し、政治社会状況に関与していた。  ただ、ガルシア=マルケスには有名な記事があるのでよくわかるのですが、バルガス=リョサの当時の署名記事を読んだことがなく、元記者だといわれても私にはピンとこなかった。  柳原 でも、そうした記者時代の経験はバルガス=リョサの中に生きていて、作家になってからも、作品づくりのための現地取材をかなりやっています。晩年に出した『ケルト人の夢』を書くにあたっては、舞台にもなったコンゴにまで足を運んでいますし、遺作となったLe dedico mi silencio(未邦訳)では、登場人物の生誕の地を訪ねますし、60年代、まだ駆け出しのころには、友人の詩人にしてゲリラ戦士だった人物の足跡を追って、彼が殺された現場やキューバにも行ったという話も仄聞します。ですから、たしかに記者時代に目立った記事は少なかったとはいえ、何かにつけて取材をするという態度を常に持っていた人でした。  伊高 私も記者だからわかるのですが、何かを書くにあたって十分取材しないと安心できないんですよ、自分自身が。  柳原 とりわけバルガス=リョサはリアリズム的な小説の書き手なので、現地の雰囲気を読者に伝えるための風景描写を細かく積み上げながら文章を書いていました。そのためにも現地取材にはかなりの比重を置いていたと思います。  伊高 マジックリアリズムは取材↓隠喩化↓文章表現という過程を辿るはずで、やはり取材が基にあるでしょうね。  柳原 あれはあれで、現実からの積み上げがあり、あえてその通りに書かないだけじゃないでしょうか(笑)。いずれにしろ、二人とも作家として活躍してもなお、取材というのは厳密にやっていた人たちだと思います。    (1面よりつづく)  伊高 ガルシア=マルケスは2014年に、そしてこの4月にバルガス=リョサと、いわゆるブームを牽引した二大作家が順次この世を去ったわけですが、それに伴い下の世代の作家たちからすると、この二人に取って代わってようやく上に行けるというような意識はあると思うのですが、柳原さんの目にはどう映りますか。  柳原 もちろんそれはあるでしょうね。  伊高 そうなると、誰が次の時代のリーダーに名乗りを上げるのか。  柳原 一時期、ロベルト・ボラーニョが次の時代を牽引していくだろうと、なんとなくみんなそう思っていたところがありましたが、早くに亡くなってしまったので、それが叶わずにとても残念でした。そう考えると、今度は誰になるんでしょうね。面白い作家はたくさんいますが、かといって二大作家に並び立つほどの世界的なスターになることも考えにくい。  ひとつはっきりしているのは、今は女性の作家たちが元気だということです。それに関連したエピソードがあって、バルガス=リョサが晩年に、フェミニズムは文学の敵だ、みたいな発言をしたら、ある若い女性作家が、「フェミニズムも文学もバルガス=リョサを必要としていない」と反応して、だいぶ話題になりました。  ここからも見えてくるのは、二大作家が残した作品から下の世代の作家たちもそれなりに影響を受けていると思いますが、これからも影響を受け続けるというよりは、すでに受け取りきった後という感じではないでしょうか。若い世代にしてみれば、ガルシア=マルケスが亡くなったあたりから、時代は変わったという意識に切り替わっているような気がします。  伊高 柳原さんは時代が変わったとおっしゃいましたが、それこそあのブームに匹敵するラテンアメリカ文学の偉大な時代は二度と来ない気がします。  柳原 おそらく、文学作品で扱われるテーマが当時とは様変わりしているので、そういう意味でも、ブームの頃のような社会的インパクトを持ち得ないのだと思います。  伊高 今は、インターネットはおろか、AIもだいぶ進化し、便利過ぎる面がある。それによって大きなテーマを見いだしにくいのかもしれませんね。  柳原 ただ、下の世代が二大作家と距離を取るのはいわば諸刃の剣で、なぜならラテンアメリカ以外の世界の人びとがラテンアメリカ文学に求めているのは、とりわけガルシア=マルケスのいわゆる〝マジックリアリズム〟なんですよね。でも、下の世代にしてみれば、それはほとんど差別用語的なレッテルであって、いくら世界が求めたところで、あのタイプの作家はもう出てこないでしょう。  伊高 なるほど。  柳原 ですから、今のラテンアメリカ文学事情というのは、文学作品が扱う主題が特段、国別や地域別という区別なしに、世界的に共通するようなテーマが扱われつつある現在の世界文学の流れに沿っていて、ラテンアメリカといった地域性や、コロンビア、ペルーのようなお国柄とは関わりなしに、それなりに面白い小説を書いている作家がこの地域にもいるというぐらいの感じです。  伊高 私も長いことラテンアメリカを取材してきて、政治や文化をつぶさに見てきましたけれど、文学面では二大作家及びブームで出てきた作家、たとえばオクタビオ・パスやカルロス・フエンテス、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、あるいは詩人のパブロ・ネルーダらの作品が果たした役割は大きかったように感じます。なぜなら、私たち日本人含めた、ラテンアメリカ以外の地域の人びとは、彼らの作品を読むことによって、ラテンアメリカとは何か、アイデンティティや文化、可能性など、多くを学ぶことができましたから。  柳原 そうだと思います。  伊高 こうした、ラテンアメリカの大作家たち、とりわけバルガス=リョサの小説が日本の小説家たちにも影響を与えていると思うのですが、どのような点で、それが窺えますか。  柳原 私も、日本の誰のどういう作品に、というのがすぐに出てこないので、影響についてここで申し上げるのは難しいですが、ファンが多いのは間違いないです。  例えば、作家の星野智幸さん。彼は『ケルト人の夢』をめぐるシンポジウムに登壇していましたが、そこでの発言で、「すごく緻密に書いているので、非常に憎たらしいんだ」みたいなことをおっしゃっていた。嫌で嫌でしょうがないけど、面白いから読んでしまうのだそうです(笑)。  伊高 「憎たらしい」とか、「嫌で嫌で」というのは「好き」の裏返しでしょう。昔は恋する娘がよく使った手法です。  柳原 星野さんの目には、あまりにも頑張って勉強して、取材して、ちゃんと書いたぞっていう感じが、わかりやすくむき出しで映っていて、それでも小説は間違いなく面白いからつい読んでしまう、ということだそうです。だからといって、彼が影響を受けているかどうかまではわからないのですが。  伊高 日本でのラテンアメリカ文学の受容ということでいうと、ブームの流れで二大作家を中心に、その周辺の作家までだいぶ翻訳されたと思いますが、今活躍している下の世代の翻訳状況はどんな感じなのでしょうか。  柳原 伊高さんがおっしゃるように、ブーム直後の80年代ぐらいに集団的に訳されて、その当時、紹介からこぼれたブーム世代の作家も、今はちょこちょこと紹介されていますし、加えて、1970年代以降に生まれた新しい世代も、地味ではありますがそれなりに訳されています。  悲劇的なのは、40、50年代生まれぐらいの作家で、それなりにいい書き手が揃っていますが、日本ではあまり紹介されていない。もちろん、日本でも人気のあるイサベル・アジェンデとか何人かはかろうじて紹介されているのですが、この世代のスペイン語圏の作家たちが、日本ではあまりにも知られなさすぎる。  伊高 それはどうしてですか?  柳原 たぶん、影に隠れちゃったんでしょうね。それよりも新しい世代の人たち、例えば私も訳しているフアン・ガブリエル・バスケスや、最近の女性作家たちはポツポツとではあるものの紹介はされ続けているので、そういう意味でも、40、50年代生まれの世代の作家に比べると幸運だと思います。  伊高 ここからは、私の取材話も含めてバルガス=リョサの政治的な側面についてお話ししていきます。  バルガス=リョサは90年にペルーの大統領選に出馬して、アルベルト・フジモリに敗北しますが、その前段として、当時のペルーはどういう状況だったのか。  80年代後半のペルーは、トゥパク・アマルー革命運動(MRTA)と、センデロ・ルミノソ(輝ける道)の二大ゲリラ勢力が暴れまわる大変なテロの時代であり、同時にペルー政治史上最年少大統領のアラン・ガルシアが経済政策に失敗して、極度のインフレを招き、国際社会の信頼を失っていました。  そうした、治安も経済状況もめちゃくちゃな状況のなかで、バルガス=リョサはいつの間にかペルーの財界保守層からの支持を集め、あれよあれよと支持率トップの大統領候補に躍り出ます。ただ、バルガス=リョサ本人は、アクシデントで大統領候補に担がれてしまったと言っていました。  私は当時、リオデジャネイロを拠点にあちこち取材して回っていて、ペルーにもよく足を運んでいましたから、大統領候補になったバルガス=リョサにも会いに行ってインタビューしました。その時はまだ彼以外に有力候補がいなかったので、あたかも自分が次期大統領みたいな振る舞いで私の前に現れました。私も彼に調子を合わせて、大統領になったら何をやりますかなどと聞くと、「いやいや、まだまだ」と言いつつ、嬉しそうにいろいろなことを喋ってくれました。  取材は1時間半くらい続き、大半は政治の話でしたが、最後に時間が余ったので文学のことやさっき言ったガルシア=マルケスとの関係などについて聞き、付け加えで「マエストロは趣味をお持ちですか?お酒やタバコは好きですか?」といった平凡な質問をすると、「私は酒もタバコもやりません。私の唯一の悪い、変えられない趣味は文学です」と答えました。それを聞いて私は、大統領になろうとしていることも悪い趣味ではないかと心の中で思ったものです。  柳原 たしかに(笑)。  伊高 選挙は公示直前にフジモリが立候補し、またたく間にバルガス=リョサとの差を詰めていき、気がついたときには逆転確実という状況まできたため、バルガス=リョサは降りると言い出すのですが、周りがそれを許さず、最終的には決選投票でフジモリの圧勝を許してしまった。  選挙戦に敗れたバルガス=リョサは、勝者のフジモリを称えて握手したのですが、あのときは彼にとっての人生最大の屈辱だったのでしょうね。まもなくスペインに渡り、そのままスペイン国籍を取得して、居ついてしまうのですから。自伝『水を得た魚』を出したのはその翌年でしたでしょうか。ただ、ここでは大統領選での敗北についてはあまり触れていないので、彼は本心を隠しているのではないかと勘ぐりました。  それ以来、彼はことごとく左翼をけなすようになります。挙げ句のはてに、スペインの極右団体VOXと一緒にシンポジウムをやるほどでしたし、2011年のペルーの大統領選の候補者だったケイコ・フジモリとオヤンタ・ウマーラを指して「ガンとエイズの戦い」とひどい差別発言をしている。そんなことを大作家が言っていいのかと。とにかく右翼、保守支持の色分けをはっきりさせていました。  柳原 自身が大統領選に負けたことでだいぶ旗幟鮮明になった感じがありますよね。  伊高 負けた反動とはいえ、あそこまで極右と行動を共にするようになるのは正直不可解でした。彼の人の良さが利用されたのかもしれません。いずれにしろ、なんて浅はかなことをしているのだろうかと、私は晩年の彼を見ていました。  柳原 彼も人間ですから、当然間違いもします。遡れば83年にセンデロ・ルミノソがウチュラハイ村で起こしたジャーナリスト虐殺事件の記事をバルガス=リョサが書いているのですが、それがあまりにも問題だらけで、しばしば論争の種にもなっています。  伊高 彼はその事件の調査委員会の長で、軍部の主張に概ね沿った結論を出したようでしたが、そこに問題があったと当時うんぬんされました。  柳原 事件の背景にある事実関係を読み誤っているところがありました。この事件が、80年代ペルーの内戦状態を作り出すきっかけにもなったのですが、実はその頃から政治には関わっていたのです。  大統領選挙に関しても、真面目な人柄だからこそ、自分がやらなきゃ、という感じだったのだろうと思います。しかも当時は、ペルーが内戦状態だっただけでなくて、隣のコロンビアでは、それこそ大統領候補が演説中に暗殺される事件もあった。そういう時代に大統領選挙に打って出るというのは、たしかに勇気のある行動でしたが、負けたことで結果的におかしくなりましたね。  伊高 負けた翌年に『水を得た魚』というのも、どうなんだろうという気もします。  柳原 先ほど伊高さんは、『水を得た魚』では本心を隠しているとおっしゃったけれども、あの本の中では、何もかも左翼が悪いみたいなことを書いているので、隠しきれてはいないですよ(笑)。  伊高 ところで、柳原さんは今、バルガス=リョサ関連の仕事を何かされているんですか?  柳原 ここではあまり具体的な話はできないのですが、先程名前を挙げたバルガス=リョサの遺作Le dedico mi silencioの翻訳を行っています。  伊高 日本語題は決まっていますか?  柳原 まだ仮ですが、今のところ「沈黙をあなたに」で進めています。ペルー音楽をテーマにした作品ですね。  伊高 だいたい原題どおりですね。どんなストーリーなんですか?  柳原 主人公は貧民街に住む冴えない学者崩れの音楽愛好家で、たまたま出会った天才ギタリストの演奏に感銘を受け、その追っかけになるのですが、追っかけになった矢先にギタリストは死んでしまいます。主人公はギタリストの死に大きなショックを受ける一方で、音楽的な感動があまりにも大きかったため、そのギタリストの足跡を本に残すことを決意し、取材で彼の生地にも足を運びます。  主人公は、天才ギタリストをペルー音楽の集大成だとみなします。そして、ペルー音楽には様々な問題を抱えたペルー社会と国民を一つにまとめる力があるのだと理解し、そういった論調の一冊を書き上げます。その本は一躍話題を呼び、主人公は絶頂の時を迎えるのですが、やがてその論調は批判され、最終的に落ちぶれる、というストーリーです。  この作品でバルガス=リョサは、ペルー音楽がナショナリズムを歌っているのだと本気で思っているところがある一方で、今更そんなものは通用しないと言おうとしているのではないか。どれだけ真面目にペルー音楽の力を信じているのか、あるいはそれをどれだけ揶揄しているのか、その真意は正直わからないです。  いずれにしろ、題材として扱っている音楽の部分では、実在する歌手やギタリスト、作曲家たちの名前をたくさん挙げています。私はそういうミュージシャンのことをよく知らなかったので、あれこれ調べつつ、YouTubeやCD、あるいは配信で聴きながら翻訳を進めているところです。  伊高 特に、歌詞の場合は意味の解釈が難しいでしょうね。  柳原 加えて、ペルーの民衆音楽を扱っている研究者はそんなにいませんから、作品名を翻訳するにあたって、その作品が日本でどのようなタイトルで一般に認識されているのか、バルガス=リョサが挙げた固有名詞に定訳があるのかどうか定かでないまま作業を進めているので、この小説の翻訳の難しさを痛感しています。  なお、Le dedico mi silencioというタイトルは、天才ギタリストが死ぬ直前に実在の歌手のツアーに帯同したものの、バンドメンバーと上手くいかず辞めるのですが、そのときに「Le dedico mi silencio」と言います。それがそのままタイトルになっています。  伊高 どのくらいのボリュームの作品ですか?  柳原 300頁ぐらいですから、バルガス=リョサの作品としてはそこまで長くないし、どちらかというと軽い感じの作品です。それこそ『フリアとシナリオライター』とか、『つつましい英雄』くらいのボリュームをイメージしてもらえばいいと思います。この作品についての詳細は、後日正式にアナウンスされると思いますので、そちらをご期待ください。  伊高 なるほど。晩年の、ある種のペルーナショナリスト的な側面が、最後の小説にも出ているのですね。  柳原 それもどこまで本気なのかはわからないですよ。物語の時代設定は1990年前後が中心で、現在のようにグローバル化の反動によるナショナリズムが叫ばれていなかった時期です。とはいえ、その時代の本気の表れだと言えばそう読めるし、その反面、90年の時点で過度にナショナリズムを称揚するような人に対して、それはおかしいだろうと言っているようにも見えます。  伊高 つまり、批判的な捉え方もしている。  柳原 だけど、やっぱり半分くらいは本気だったんじゃないかな(笑)。  伊高 そこが、自分はペルー人だというアイデンティティなのでしょうね。国籍を取得したとはいえ、自分はあくまでスペイン人ではないのだ、と。  柳原 バルガス=リョサはどの作品でも、ペルーと繫がりのある題材を選んでいますよね。『世界終末戦争』の舞台となったブラジルはアマゾンで繫がっていますし、『楽園への道』のゴーギャンと祖母のフローラ・トリスタンはペルーとの関係のある人だし、あるいは、『ケルト人の夢』のロジャー・ケイスメントもペルーに来た人である、と。そういう意味でも、一貫してペルーにこだわったところはあったと思います。 (おわり)  ★マリオ・バルガス=リョサ(一九三六―二〇二五)=ペルー生まれの作家。一九六三年に『都会と犬ども』でビブリオテーカ・ブレーベ賞を受賞し、六六年に代表作となる『緑の家』を刊行。他にも『世界終末戦争』、『ケルト人の夢』など著書多数。二〇一〇年にノーベル文学賞を受賞。なお、母方性Llosaには、ジョサ、ヨサ、ショサの呼び方がある。  ★いだか・ひろあき=ジャーナリスト・ユーチューブ番組「デモクラシータイムス」『ラテンアメリカ ニュースダイナミクス』解説者・立教大学ラテンアメリカ研究所学外所員。元共同通信記者。  ★やなぎはら・たかあつ=東京大学教授・スペイン語文学、現代文芸論。著書に『映画に学ぶスペイン語』、訳書に『第三帝国』『物が落ちる音』『グルブ消息不明』など。