鼎談=岩崎 稔×小田原琳×粟飯原文子
<死があふれかえるこの世界で、アフリカの問いを頼りに生きる>
アシル・ンベンベ著『ネクロポリティクス 死の政治学』(岩崎稔・小田原琳訳、人文書院)刊行を機に
カメルーン出身の思想家アシル・ンベンベ氏の主著『ネクロポリティクス 死の政治学』(人文書院)が翻訳刊行された。世界を席巻する「死の政治学」と呼ぶべき状況を分析し、精神科医でもあったフランツ・ファノンと「ケア」の思想に現代の隘路からの出口を求める、現代思想の最重要著作だ。
刊行を機に、訳者の小田原琳氏・岩崎稔氏と、かねてよりンベンベ氏の著作に親しんできたアフリカ文学研究者の粟飯原文子氏に鼎談をお願いした。(編集部)
岩崎 わたしたちは「ネクロポリティクス」という問いに強く触発されていましたが、その翻訳には想像以上に時間がかかりました。底本にした英語版も、原著のフランス語版も、とても緊張感を孕んだ表現から成り立っています。ンベンベは論理的に議論を積み上げて話を進めるタイプではない。しかし、論じ難いものを論じ、描き難いものを描こうとしているその文体が彼の魅力でもあります。
本書で際立つのは、変な言い方かもしれませんが、人を殺す語彙、傷や痛みをめぐる表現など、ある意味で陰惨な言葉が実に頻繁に現れている点です。翻訳しながら、それが現代のもっとも過酷な現場や状況の手触りなのかと想像していました。その議論をようやく日本語で届けることができて、訳者二人としては少しほっとしています。そこで今日は、ずっとンベンベの仕事を読んでこられた粟飯原さんに、ンベンベの思考の意味をあらためて読み解いていただこうと思います。
粟飯原 ンベンベは私個人にとっても大切ですし、アフリカ研究においては当然参照すべき思想家として見られています。私がイギリスに留学した2000年代前半から、英語圏でも主に『パブリック・カルチャー』誌の論考を通じて、読まれて当たり前の存在でした。
ンベンベはアフリカ出身の思想家ですが、その言論はアフリカという場に押し込められるべきではないと強く思います。アフリカは例外性や差異において語られ、理解されがちです。しかしンベンベ自身も述べているように、アフリカを世界から切り離された対象としてではなく、むしろ世界との連関や同時性のなかで考えるべき。そういう意味でも、彼がヨハネスブルクを拠点にしていることは重要でしょう。アフリカという場、アフリカ人/黒人の経験に軸足を置きながら、世界を解読し、世界に開かれた思想を提供し続けているのです。
岩崎 わたしたちがンベンベを紹介したいと考えたのは、まさにその視角からです。ポストコロニアルと言いながら、アフリカを結局は地方化して片づけてしまう姿勢は、彼が提示した問題を矮小化することに他ならないと思います。
粟飯原 本書で述べられる通り、奴隷制や植民地支配の経験が世界の本質的な一部をなしていることは忘却されている。しかし、これは当然ながら世界史的な問題であるわけです。彼の著作は、現代思想に携わり、ヨーロッパ研究に従事している人こそが読むべきだと思います。私は現代思想が袋小路に行き着いているという印象を抱いているのですが、ンベンベはそこに現れた輝く星のような存在だと感じています。
小田原 本書に描出されている惨劇が、パレスチナにおいて完全に再現されています。ヨーロッパ研究の世界に身を置く者として、ユダヤ人をめぐる歴史的経緯を理解しているからには、ガザで行われる圧倒的な不正義を批判しないではいられません。ンベンベの議論は、ヨーロッパ中心主義的に発展してきた欧州あるいは日本の人文学の諸研究が、まさにそこから考えるほかない出発点を抉り出しており、その点で訳者としては本当に痛々しかったのです。ヨーロッパ中心主義はずっと批判されてきましたが、では果たしてどうやってそこから出ていくのか。出口の一つが、既に「ヨーロッパ」という概念が破綻しているという事実にあると思います。
粟飯原 昨年日本語訳が出た『黒人理性批判』(講談社)の冒頭にもある通り、「ヨーロッパはもはや世界の重心を構成していない」。この現実を重く受け止めるべきですね。
岩崎 私自身もヘーゲル哲学やフランクフルト学派の思想からスタートした人間です。ヘーゲルの主と奴の弁証法をフランツ・ファノンがレイシズムに即した他者論として読解し、さらにンベンベが本書でそれを深めていく過程に接するとき、自分自身が内側からバラバラにされるかのような感覚を味わいました。しかし同時に、やはりこの道を行くべきだとも感じるのです。しかも、ヨーロッパから第三世界へという形で単純に反転するのではない。ンベンベの提示している問いは、反グローバルであると同時に、アフリカと世界を繫ぐグローバルな問題でもあるわけですよね。
粟飯原 これまでンベンベを読んできて、アフリカと世界を繫ぐヒントをいくつも得てきました。今、とりわけ三つの現象が思い浮かびます。
一つは資源戦争の問題について。コンゴ東部では、スマートフォンなどの電子機器に欠かせないレアメタルをめぐって争いが起こっています。ここまでは誰もが知っている事実ですが、それだけではありません。不要になった電子機器が今度は、ガーナをはじめアフリカ各地に持ち込まれて集積されているのです。採掘されて私たちのもとに届けられたものが、ゴミとなってまたアフリカに戻されている。アフリカと世界のこの循環を考えるとき、ンベンベの議論を想起せずにはいられません。
二つ目は、アフリカにICT大国と呼ばれる国がいくつかあることに関連します。その一つ、ケニアでは、AI関連の米国企業が技術者を安価な労働力として使い捨てているのです。彼らはデータラベラーやコンテンツモデレーターとして、ヘイトスピーチ、暴力的な画像、児童虐待やレイプなどの動画を監視し削除する仕事を担います。四六時中そうした情報にさらされ、PTSDを発症する者が大量に出ています。AI産業が労働者から人間性を剝奪していて、アフリカがその現場になっている。
三つ目はイギリスの政策。保守党政権時代、いわゆる不法移民をルワンダに移送する決定をしています。現在の労働党政権になって破棄されたものの、この現象はまさしく「敵対する者」「不要な者」を囲い込んで、民主主義の根幹に内在する暴力を不可視にしようとする、本書で何度も描写されている構図そのものです。ンベンベは収容所をそのメカニズムの典型として論じていますが、この例では実際にヨーロッパの外に配置し、視界の外に追いやろうとしました。
つまり、アフリカは様々な〝不要なもの〟を処理する場所と見做されている。これはやはりアフリカの問題ではなく、世界の問題です。
小田原 三つ目の例は強制〝送還〟と呼ばれるわけですが、その実、移民・難民は自分がやってきた土地ではないところに送り出されているのですよね。私はイタリア史を専門としていますが、この国はアルバニアと協定を結び、収容施設を建設させて〝送還〟しています。この様式は世界に〝輸出〟されていて、例えばアメリカは中米で同様のことを行っています。つまり植民地主義の時代以来、アフリカが人民抑圧の様々な技術の実験場となってきました。アフリカがヨーロッパを可能にしてきたわけです。この点において、ンベンベが提示したアフリカという問題系を軽く扱ってはいけないと思います。
岩崎 挙げてくださった三つの例はどれも示唆的ですね。資源とゴミをめぐる残酷な収奪と循環。ITテクノロジーが垂れ流す憎悪に破壊される心。そして収容所という形式のもとでの「不要な人間」の拘束、送還、廃棄。そのすべての場面に異様なほどに死があふれかえっています。剝き出しの身体と最先端の技術が組み合わされ、相互に嵌入しあって、とんでもない状況が生じています。まさにITによるディストピアの光景です。
岩崎 それから、ンベンベは、小田原さんもさっき言及されたように、パレスチナで起こっている事態を「入植者植民地主義」として一貫して厳しく批判してきたひとでもある。
粟飯原 アパルトヘイトを経験した南アフリカ共和国には、パレスチナに共感を寄せている人が非常に多い。そうした類似性に基づく連帯が重要な一方で、両者は高度なテクノロジーによる支配の有無において区別される。ンベンベはこの差異をきちんと押さえたうえで、ガザやヨルダン川西岸の問題を正面に見据えて思考しています。
小田原 この問題を考える際に重要な原理が、先ほど粟飯原さんが触れたレイシズムです。日本においてもこれが深刻化しています。しかし、日本社会において人々は、その振る舞いがレイシズムであることを自覚しないままに、レイシスト的な振る舞いをしているように見えるのです。私たちの日常がレイシズムに満たされていることを実感します。
粟飯原 日常生活や人の無意識にまで及ぶレイシズムを、ンベンベはナノレイシズムと呼んでいますね。
小田原 それを戦後日本はレイシズムと名指してきませんでした。しかし疑いなく人種差別です。
岩崎 そのとおりですね。また、パレスチナをめぐる問題でもう一つ確認したいのは、2020年にドイツで起きた事件です。ンベンベは芸術祭「ルールトリエンナーレ」の基調講演者として招待されていたのですが、親イスラエル派のグループや政治家は、「反ユダヤ主義」という理不尽なレッテルを使って指名撤回を迫る一大キャンペーンを張りました。コロナ禍でトリエンナーレの企画自体が中止になりましたが、別の機会にジュディス・バトラーも同様の攻撃に晒されています。
そのような形で、パレスチナで起きている――かつてナチスがユダヤ人に対して行ったことを今度はネタニヤフやシオニストが行っている――もう一つのホロコーストをめぐる政治的論争の当事者になりました。イスラエル軍に抗議する声を類似の論理と手法で抑圧し排除することは、アメリカやヨーロッパで続いています。
ンベンベはレイシズムが引き起こした極北の事態としてのホロコーストをよく理解しつつ、しかし、それをめぐる「単独性」の議論を強く問題視しています。ある犠牲者の集合的記憶を「犠牲者意識ナショナリズム」という隘路に入り込ませ、犠牲者を特権化し、最悪の加害者に転化させてしまうこのロジックを、彼はもっとも精密に批判しているひとりです。
小田原 犠牲者になれる人が決まっており、なれない人もまた決まっている、という論理ですね。
岩崎 はい。ねじくれたこの状況は絶対に解決しなければならない。ホロコーストの加害とコロニアリズムの加害は、その差異は押さえつつも、レイシズムという思考システムのなかのふたつのコロラリーとして一体に考えるべきだと思います。他者というものを理解不能な存在に変えてしまうプラクシスに批判の照準を据えて、世界史を考え直さなければなりません。
ただし、もちろん日本にも、例外的にレイシズムの問題に取り組んでいた人はいます。例えばフランス文学者の鈴木道彦。そのときはファノンを読むということが大きくそこに関わっているのですよね。ンベンベの仕事も、日本の私たちの目線をあらためてファノンに引きつけてくれます。
岩崎 小田原さんは訳者として、ジェンダーや身体の配慮にとくに留意して翻訳作業を進められました。
小田原 本書が、ファノンと〝ケア〟とを結びつけて論じているのにははっとさせられました。壊れたものを修復する実践としての〝ケア〟ですね。
注目したいのは、人種主義とセクシュアリティが交差する点です。女性と男性とで、人種主義的な傷つけられ方が異なる。もちろん、女性の方がより一層物体化されているとはいえ、あるジェンダー体制のなかで現実に生きている人々がいかに傷ついていくのかを、治療の観点から見たときに、ジェンダー的な差異が浮き彫りになっていると思いました。シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』(以文社)を翻訳した際にも感じましたが、民主主義が何かを他者化して自己を定立しようとする際に、セクシュアリティが焦点とされる。
岩崎 粟飯原さんは、ヴィジャイ・プラシャド『褐色の世界史』(水声社)を日本に紹介されています。そこからもかつて多くを学ばせていただきました。『褐色の世界史』は最終的に、「第三世界」という一時期希望を孕んでいた構想自体が、外側から、そして内側からも抹殺されてしまうというように、非常に厳しい現実を突きつけて終わっていましたね。あの本のエピグラムもファノンの言葉でした。
粟飯原 プラシャドが、第三世界は理念やプロジェクトとして確かに生き延びているという視座のもと、やはりファノンから出発していることは重要です。ファノンに限らず、20世紀の脱植民地化の過程を生きた人々は、「新しい人間」「新しい思想」を生み出すことこそ、世界を変えることなのだと信じていました。プラシャドもその精神を批判的に継承しつつ、希望の灯を絶やさず活動を続けているように思います。
では、新しい人間とは何か。黒人は歴史的に、人間性の外部あるいは境界に位置付けられてきたとンベンベを含め複数の論者が指摘しています。そうした人間/人間性の再考という思想的な命題を、ンベンベは複雑な形で引き受けている。本書を読むと、骸骨や死体が積み重なっているかのような暗い印象を受けますが、一方で新しい人間性から地球全体について考え直す可能性もまた仄見えます。
ンベンベはその希望をアフロフューチャリズムにも見出しているようです。本書の終盤で、西洋的ヒューマニズムを超えうるものの一つとして検討されています。アフロフューチャリズムとは、もともと1993年に批評家のマーク・デリーが、アフリカン・アメリカンの音楽・芸術・文学などの志向を捉えて提唱した概念です。ンベンベは本書以外にも複数の場所で言及しており、黒人の経験を踏まえて、西洋近代の〝人間〟観を超えつつ未来へと向かう政治的・思想的実践としての可能性をこの運動に見ている。
また、彼の人間カテゴリーの問い直しは、アフリカ各地のコスモロジーに見られる、「他者とともにあることが自分自身としてあることに先立っていた」という考え方に依拠しています。本書や別の場所でも度々、人間と他の生命体や自然環境との関係性について述べられている。近年では、動物、植物、鉱物などと人間とのつながりを捉え直し、人間の条件から地球の条件へと踏み込んで問いを立てているようです。
岩崎 ンベンベは、現代思想の多様な潮流を念頭に置き、それらと交錯したり対決したりしながら自分の思考を練り上げていきます。移民論はもちろん、ポストヒューマニズム論やシャマユーの『人間狩り』の議論。あるいは、近年の哲学において、新しい実在論という形をとっていますが、動植物のみならず不活性の岩なども含めた世界連関において、人間中心主義を徹底的に批判する潮流すら組み入れているように見えます。
粟飯原 ポストヒューマニズムなどの議論を経ずとも、アフリカは人間と、非生命体を含む諸存在との関係に出発する思想を内在させていると彼は主張しているように思えます。アフリカが普遍性を持った思想的場所だということを、世界に問うているのではないでしょうか。
岩崎 なるほど。言うなればポストモダンは「普遍性」と見えるものを徹底的に批判してきました。それに対して再び「新たな普遍」とでもいうべき未来像を打ち出すと、ともすればそれは安易な短絡とみなされかねないし、その危険性は現にある。しかし、プラシャドもンベンベも根底においてこの新しい何かを構築する意志を捨てていない。ンベンベの見据える新しい人間、新しい思想というものが、これだけ暗い色調の本書にあって、それでも差してくる光のように見えるのは、彼の著作の一つの特徴ではないかと思います。
粟飯原 そしてンベンベは、何よりアフリカの潜在力と未来を信じているのでしょう。最後に一点。本書はンベンベの重要な仕事ですが、アフリカの知識人を彼だけに代表させることもまた避けなければなりません。例えば、彼と対話関係にあるセネガルの哲学者スレイマン・バシール・ジャーニュや同じくセネガルの作家フェルウィン・サール。さらには、ベナンの哲学者ポーラン・ウントンジ、カメルーンの人類学者フランシス・ニャムンジョにも注目したい。インド系ウガンダ人の政治学者マフムード・マムダニも外せません。ちなみに最近、息子のゾーランがNY市長に当選して話題になりました。アフリカの知識人から学ぶべきことはまだまだたくさんあります。(おわり)
★いわさき・みのる=大和大学教授・哲学・政治思想。共編著に『記憶の地層を掘る』『東アジアの記憶の場』など。
★おだわら・りん=東京外国語大学教授・イタリア史・ジェンダー史。共著に『近代イタリアの歴史』『コロナの時代の歴史学』など。
★あいはら・あやこ=法政大学教授・アフリカ文学。訳書に『崩れゆく絆』『影の王』など。
書籍
| 書籍名 | ネクロポリティクス |
| ISBN13 | 9784409041291 |
| ISBN10 | 4409041290 |
