草と貝殻
岩切 正一郎著
山﨑 修平
たとえば、コロナ禍の日々を克明に残すことを考える。ガラガラの電車や繁華街を映した映像、感染者数を記載した報告書や行政文書、そのどれもが記録という役割を担えるだろう。しかしながら記録は、あの災禍における人の営みの、なによりも感情の揺らめきの平面的な記述でしかない。ことば、そして文字による文学は、記録よりもときに鮮明に、かつ精確に人を表す。本書の「3」では、「コロナ禍における戯曲翻訳」の様子が描かれている。災禍によって、なくなく舞台公演が中止になった際の人の感情を表すことへの、文学という表現形態を選択した者の責任の全うの仕方のように考えた。
過去を振り返ること。そのために記憶を掘り下げてゆき、叙述してゆく。これは不確かな今という時間を生きてゆく者が、避けることの叶わないことばへの向き合い方であるだろう。その点において、本書を端的に表すならば、記憶の書であると言える。この記憶とは、作者を含めた特定の誰かが有したものだけではない。誰しも専有し得ないテクストに宿った記憶である。ことばによって綴られた記憶は、深い思索の旅路となり、私たちに、ことばとは何かという、人がことばを獲得して以来から途切れることのない、本質的な問いを投げかけている。
決して堅苦しくない、エッセイ調にまとめられた読みやすい一冊ではあるが、実に豊穣なことばと文学にまつわるエッセンスが凝縮されている。たとえば、ボードレールの詩に現れる「詩という黄金をつくる」錬金術、作者がフランス語を習得した時期の話、コロナ禍での話、孤独、本の引越し、古典について……。こうして一言ずつ紹介するだけでも、作者の学識と興味の幅の広さが分かるだろう。また、頁を捲るたびに、その広さだけでなく深さが表れていることも感じ取れる。このような作者の体験から紡がれたことばは、ときに文学論や文明論となり、ときに哲学として、そして、ときに詩そのもののように映る。それは何故だろうか。
本書によって語られてゆく詩にまつわることばは、行為としての読書というよりはむしろ、詩的体験として読者に共有されてゆくからではないか。「詩や小説のなかから、あるいは映画や音楽や絵画から、孤独な魂が語りかける声を聞いていた」。とあるように、本書における「孤独」への思惟は、ボードレール、ハンナ・アーレント、ブランショ、西脇順三郎、ロートレアモンら、古今東西の人物との対話のように展開してゆく。「孤独」によって獲得したことばは、詩的実践として、文学をかたち作ってゆく。あるいは本書は、文学そのものへの作者の例示であり、実践であるとも換言できるだろう。
評者は、本書において特に下記の一節に惹かれた。「世間ですでに黄金として認められているイメージや語を、その制定された価値にもたれかかったまま、黄金として詩のなかへ持ち込んでも、そこには何の新しさもなければ、驚きもない。そこにあるのは単なる価値の追認であり、常識の反復でしかない」。詩とは、ことばとは、と規定することによって、詩は生まれ、ことばは自律する。しかしながら、規定することによって、詩は更新されることのない過去のものとして現前から遠のいてゆく。複写を重ねた絵のように、覚えた感情を書き留める原初の豊かさは喪われてゆく。無論、このことはなにも詩に限ったことではないことは、自明であるだろう。
最後に。書名の『草と貝殻』からして印象的である。人は、路傍にある特定の草や貝殻を逐一記憶していない。零れ落ちた、固有の名称も代名詞も持ち得ない、無数の草や貝殻は、しかしながら時に作者の記憶よりも雄弁に語り出す。
本書によって、ことばは息を吹き返す。思索する日々を手放さないために、つまりは人が人でいるための一冊である。草に触れ、匂いを嗅ぎ、コクトーのように貝殻を耳につけて、海の響きを聴く。「孤独」な魂と向き合ってゆく。(やまざき・しゅうへい=詩人・作家)
★いわきり・しょういちろう=フランス文学研究者、戯曲翻訳家、詩人、国際基督教大学・学長。著書に『さなぎとイマーゴ ボードレールの詩学』『舞台芸術の世界を学ぶ』、詩集『La Citrondelle』、学術書の翻訳にパスカル・カザノヴァ『世界文学空間』など。多くの舞台で翻訳や翻案を担当している。一九五九年生。
書籍
| 書籍名 | 草と貝殻 |
| ISBN13 | 9784393464038 |
| ISBN10 | 4393464036 |
