2025/12/05号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 90・丹生谷貴志(小林康夫)

百人一瞬 小林康夫 第90回 丹生谷貴志(一九五四―   )  前回の最後に丹生谷さんの名が出てきた。そうしたら、丹生谷さんの六百頁もの分厚い本二冊が届いた。『丹生谷貴志コレクション』ⅠとⅡ(月曜社)。彼がこれまでに書いた六〇本あまりのテクストを集成した三巻本の最初の二冊である。  ただの献本というわけではない。というのも、その「Ⅰ」の巻末には、なんと! わたしが書いた短いテクストが載っているからだ。それは「『光の国』異聞」。『光の国』は、一九八四年に刊行された丹生谷さんの最初の本(朝日出版社)で、それが二〇〇八年に月曜社から復刊されるタイミングで、その本の成立に深く(?)かかわっていたわたしが書いたエッセイだったが、復刊が十数年もずれ込んで、しかし拡大して三巻本の「コレクション」となったところで、わたしのテクストまで日の目を見ることになったのだ。  わたしはそこで『光の国』の舞台裏を明かしている。つまり、丹生谷さん自身が「あとがき」で書いているように、『光の国』は、本連載第32回で取りあげた編集者・中野幹隆さんの命令のもと、出版社の一室で彼とわたしが十時間以上にわたって行った対話から出発して、そのインパルスのもとで、書き上げられたものだった。丹生谷さんは『光の国』を書いた。ところが、わたしは書けなかった。だから第32回で、「中野さんは(…)結局、わたしの単行本は一冊もつくってくれなかった」と書きつけたのだが、その「泣き言」の向こう側には丹生谷さんの輝かしい『光の国』があったのだった。その意味で、丹生谷さんは、わたしにとっては、「(時代を引き受けて)本を書く」ことについてのライバルだったのかもしれない。  実際、「『光の国』異聞」で、わたしは「一冊の本を書く」とは狂気に触れることだと言い、「丹生谷さんのこの本こそ、その狂気を(…)まるで砂漠のように剝き出しで、裸で演じて見せたことにおいて空前絶後の真正な冒険であった」と論じている。さらに、その一〇年後にわたしが上梓した『光のオペラ』(筑摩書房)はそれに対する「遅れてきた応答」だったかもしれないとまで書きつけていた。  丹生谷さんのほうが少し若いが、われわれは、あえて言うならば「ポストモダン」と形容してもいい二十世紀後半の「知」いや「エピステーメ」の革命を生きた同志でもあった。『丹生谷貴志コレクション』の頁をぱらぱらと繰っていると、そこに引用されている固有名詞の多くが、――存在しない、仮想の――〈小林康夫コレクション〉のそれとほとんどダブルことにいまさらながら感じ入る。  だが、その同時代性を超えるそれぞれの実存の差異はどうなのか?と考えたときに、「これだ!」とおもしろかったのが、『コレクションⅠ』の「軽いまえがき」の末尾に置かれた「まえがきに使おうとして使わなかった貧しいメモ」と題された二頁のメモ群。学生時代の幾度かの「短期間貧乏旅行」についてのものなのだが、出てくる地名が、アテネ、テヘラン、パリ、カトマンドゥ、イスファファーン、カシミール、ベナレス。パリがあるとはいえ、圧倒的に西アジアの国々ばかり。丹生谷さんは、あの頃、ほとんど危険と隣り合わせの彷徨に身を捧げていたのか!とびっくり。ただひたすらパリだけを目的地に定めていたわたしとは大違いだ。なるほど、ここにこそ、丹生谷さんの「光の狂気」のマトリックスがあったのだな、とまったく自分勝手に納得してしまった。  ああ、本、恐るべし!(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)