ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 443
ケン・ローチの映画について…
JD ホークスとコッポラの映画に共通しているのは、まず第一に「映画の演出」に基づいた映画になっているということです。歴史的に考えると、映画とは必ずしも「正しい」内容を取り扱ってきたわけではありません。つまり、誰もがケン・ローチのようであったのではない。ある種の脚本家や映画作家は、自分たちの言うこと、考えることこそが正しいと信じています。そして、メッセージ性の強い映画は世の中にたくさんあります。そうした作品の多くは、映画祭で非常に高く評価されます。現在の映画祭は、そんな作品ばかりになっています。しかし実際に一般公開され、世の中に訴えかけられるものは少ない。映画祭のためだけの映画を作るようになってしまっているということです。
彼らがどうしてそんな映画づくりをするかは、とてもよく理解できます。非常に安易な選択をしているからです。例えば、戦争の後には、戦争の悲惨さや戦争反対を掲げる作品が多く作られます。第一次世界大戦、第二次世界大戦、ベトナム戦争の後には、本当に多くの戦争映画が作られました。戦争は人々の生活に大きな影響を与え、関心を惹くからです。アルジェリア戦争のような、人々が目を背ける、国に検閲されるような内容のものでさえ、それなりに映画に取り上げられています。戦争に限らずとも、貧困、差別などなど多くの社会問題があります。私たちの生活は、常にそうした問題を内包しています。だから、それらに関心を持ち、映画を作ろうとする気持ちはよくわかります。しかし、そうした映画づくりをする人々は、とても世間知らずです……。
例えばケン・ローチは、自分が何をしているのかよくわかっていない。労働者階級に関心を持つのは、彼にとっては良いことです。しかし、彼の映画は厚かましい。自分自身が「ハリウッド映画」を作っていることを理解していない。実は、現在において、彼の映画ほど善悪のはっきりした映画はないのです。彼は、労働者階級の生活について語っているように見せかけながらも、実際には何も見ていない。遠くからしか見ることができていない。ケン・ローチの映画においては、男の主人公、女の主人公、周囲を取り巻く人々などなどが紋切り型で描かれています。しかし登場人物たちがどんな人間であるのか、実際に見えてくることはありません。正義と悪がある。労働者階級の人々が社会の壁に対立していく話ばかりです。要するに、労働者階級の人々が生きる世界を舞台にした「アメリカ映画」なのです。
HK 素人の労働者階級の人たちに演じさせたりしていますね。
JD それも単なる背景に過ぎなくなっている。演出上の効果を狙っただけのものです。私は彼の映画に全くといっていいほど興味がないので、あまり多くを見ていませんが、私が見た作品にはプロの俳優も起用されていました。そうした役者を、現実的な舞台背景の中におき、紋切り型の物語叙述法を用いて、そこそこの演技指導を行い、そこそこの映画になっていました。彼の映画自体は、決して真から悪い映画ではない。本当の悪い映画には際限がありません。今日においてどんな悪い映画があるか、私はよく知りません。趣味の悪い映画に興味を持つ人もたくさんいますが、私はそちらの方向には全く興味がない。ケン・ローチの映画は、そうした作品と比べると、そこそこの出来です。しかし、見ていて面白いものではない。映画を利用しているに過ぎないからです。
HK ケン・ローチほど『カイエ』の昔の批評家に嫌われている映画作家は珍しいですね。
JD 嫌われるのは当然です。批難するべき映画です。なぜなら彼は、本当に偽善者だからです。実際にどんな人物かは知りません。彼に興味がないので会って話をしたいとも思わない。しかし映画は、まったくもって正直ではない。労働者階級の味方を装いながら、利用しているだけです。彼の関心にあるのは、自分が映画を作ることであり、自分の見方を押し付けることだけです。人々の実際の生活には少しも興味がない。生を欺いているだけなのです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
