「家事育児に明け暮れた一日が終わって、『今日は何も出来ていない!』とため息をついている自分に気づいた時期からでした。それほど、僕自身は業績を出すことや生産的なことしか『出来る』にカウントしていなかったのだ、と発見した」。本書の「はじめに」に記される印象的な文だ。
著者は主に精神医療などを対象とした社会福祉学の研究者である。本書のタイトルは『能力主義をケアでほぐす』であり、本の引用と、そこから導き出された著者の考えが記されるスタイルで統一されている。一冊の本についての文章はおよそ八ページほど。元々は著者が継続して記すブログの記事を加筆修正して再編集したものだという。そのため、どこから読んでも構わない。大変読みやすい。
私は、本書に幾度となく登場する「ケアする」という用語を、「愛する」と読み替えることができるのではないか、と思いながら読んでいた。
エーリッヒ・フロムは『愛するということ』(紀伊國屋書店68頁)の中で、「未成熟の愛は『あなたが必要だから、あなたを愛する』と言い、成熟した愛は『あなたを愛しているから、あなたが必要だ』と言う」と記す。『愛するということ』の原題はArt of Loving、つまり「愛する技術」ということになる。
愛は技術ではない、という反発もあろう。しかし、Loveは動詞である。それが行動であるならば、相手のことを好きであろうが嫌いであろうが、行為としてLoveを継続できるかどうかが肝要となる。自らの子どものことが嫌いだったらご飯を作らないのか。着替えを用意しないのか。そうではなかろう。好きであろうが嫌いであろうが、温かいご飯を用意し、着替えを用意する。それが、具体的に子どもを愛する行為である。そしてCareも動詞であり、具体的な行為である。
ならば、「能力主義」=「あなたが必要だから、あなたを愛する」という「未成熟な愛」の思考パターンに洗脳されてしまった著者が、そこから自力で抜け出し、誰かを愛するとは具体的にどういうことであるのか、「成熟した愛」とは何か、それを探求し続けた一次記録として、本書を読むことも可能ではないか。本書で記される内容は、仕事としてのケアについてが中心である。しかし著者は、ほぼ常に、生まれたばかりの娘についての連想を働かせているのだ。「愛すること」についての記述であると捉えても許されるのではないかと思う。
私はかつてスクールカウンセラーをしていた。「能力主義」に洗脳されてしまった方々と接することもあった。親や教師、大人たちが、子どものことを「能力主義」で判断している場面に何度も立ち会った。子どもの中の「能力主義」に抗う場所が活性化し、しかしその違和感を言葉として表現することがうまくできず、結果的に「不登校」と呼ばれる状態になっている場合もあった。私は、そのことを思い出していた。子どもたちが叫ぼうとしていたのは、おそらく「愛してくれ!」であった。
著者は、自分自身が「能力主義信仰がしっかりと根付いていることに、気づきはじめ」ていることを言語化できている。このようなメタな発言が出現するのは、カウンセリングであれば、洞察がある程度進み、自分自身の思考を相対的・客観的に把握できるようになってからだ。しかし著者はカウンセリングを受けているわけではない。大量の読書をし、その内容を吟味した上で、一冊につき一本、書評的な文章をブログに書き続ける。研究活動を続ける。生まれたばかりの娘と向き合う。それらが常に「当事者研究」的な姿勢によって貫かれる。そのような真摯な生き方の中で、自力で、自分自身を駆動するオペレーティング・システム自体を言語化するに到る。そこまでの過程が詳細に、本書には記されているのだ。いわば、質の高い自己分析の記録である。
自己分析を進めるためには、自分自身を瞞してはいけない。自らのダサさを抱きしめなければならない。それを記録すれば必然的に泥臭くなる。本書は、ある意味ではかなり泥臭い。読者からは、過剰な自己開示と思われてしまう危険性もある。しかし、向き合わなければ自己分析は進まない。著者は、「正直」に、自分自身とまるごと向き合っている。
著者にとっては読書が自己分析の契機であった。高みから、自らは客観的な視点を持っているという前提で「批判的に」読書をしていては自己分析は進まない。読書で得られた視点を自らにぶつけなければならない。それは、場合によってはとても苦しいことだ。見たくない自分の姿を見ることは、おそらく、人間が最も忌避することなのではないか。著者は、その障壁を突破する。
著者の「正直さ」によって、読者も自らと向き合うことが誘発される。それは誰にでも堪えられるものではない。準備が必要だ。しかしもし、自分が「実は、他者を愛せていない」という現実に向き合う準備があるのなら、これから「誰かを愛する」ために、本書は非常に重要な契機を与えてくれるのではないかと思う。(いながき・とものり=東海大学資格教育センター准教授・教育心理学)
★たけばた・ひろし=兵庫県立大学環境人間学部教授・福祉社会学・社会福祉学。著書に『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』『枠組み外しの旅「個性化」が変える福祉社会』『ケアし、ケアされ生きていく』など。一九七五年生。
書籍
書籍名 | 能力主義をケアでほぐす |
ISBN13 | 9784794974617 |
ISBN10 | 4794974612 |