2025/08/22号 5面

江藤淳と加藤典洋

江藤淳と加藤典洋 與那覇 潤著 松田 樹  「祐三が富士子と再会したのは日本の降伏から二ヶ月余り後だつた。時といふものも喪亡してしまつたやうな時で、多くの人々は国家と個人の過去と現在と未来とが解体して錯乱する渦巻に溺れてゐるやうな時だつた」(「再会」)。敗戦直後、川端康成は当時の世相をこう描いた。多くの日本人にとって、アジア太平洋戦争とアメリカによる占領は、あたかも前後不覚になるような時代の渦巻に巻き込まれる体験だった。  例えば、三島由紀夫の場合。今年で生誕一〇〇年を迎えたこの作家は、敗戦で歴史の感覚が絶たれてしまったことを生涯苦悩し続けた。「それからずっと戦争体験と、戦争に負けたことと、いまと連続してなければ困る。文学者はそれが連続してなかったら、文士ではないと思う」(林房雄との対談『対話・日本人論』)。こう述べる三島は、遺作となった長篇で日本の近代史を丹念に辿りつつ、連綿たる文化の連続性を訴えて自裁を遂げた。師の川端が、未来も過去も失った戦後日本をむしろ「美しい国」として称揚してゆくのとは対照的に。  いささか前置きが長くなったが、こう述べれば、本書で戦後文学が取り上げられた背景がクリアになるだろう。與那覇はこれまで『歴史なき時代に』『歴史がおわるまえに』などの著作で、「元歴史学者」としての立場から、現代における歴史の失効を主張してきた。本書では、そうした歴史喪失の病が戦後の言説空間に立ち戻って検証されているのである。  主に焦点が当てられるのは、江藤淳と加藤典洋。三島と同様、江藤の執筆動機にも歴史不在の戦後に対するアンチがあった。晩年の占領期研究や私小説的な著作群にまで、江藤には過去との連続性に固執する「歴史家の手つき」が認められる。対して加藤は江藤の影響下から出発しつつも、歴史を共有しない他者との共生を思い描いた。後年の加藤が評価したのは、歴史の不在を呪った三島や江藤――三島の死後には川端もその病に罹患したと加藤は見る――ではなく、戦後の言説空間の下で淡々と「ねじれ」や「よごれ」に向き合った井伏鱒二のような作家である。それは歴史家廃業宣言を行った著者の立場表明でもあろう。「戦後史」という標題から想像されるものとは逆に、本書は過去への沈潜や歴史の復権を主張するものではない。むしろ時間のタガが外れてしまった世界でどう生きるか、というアクチュアルな問いが提起されているのである。  江藤や加藤の議論は、近年再注目を浴びている(そのことは、近刊の『文藝年鑑 二〇二五』収録の大澤聡「文芸評論」の項でも指摘されている)。ただし、本書は江藤と加藤との間の微妙なズレに目を向ける。江藤の『成熟と喪失』に代表されるように、かつて「父」=「天皇」という隠喩を用いて同時代の小説を敗戦国という条件に繫げることは、文学を通じて社会や政治にアクセスし、歴史なき戦後に歴史を立ち上げるために有効であった。が、戦争の記憶が薄れるにつれてその話法は身体的な手触りを失い、どこか空転し始めているのではないか。後年の加藤の問いを、本書はそう指摘する。  「このとき居直って、噓だと知ってもできあいの父なり母なりのイメージを受け容れ、自身の履歴を「日本」や「国家」と等置してしまえば、いくらでも小説や論説が書ける。今日ふうに喩えれば、ちょうど生成AIが自動筆記するように量産できる」。もはや文学の個別的な経験を普遍化して語ることは難しい。戦争のような共通体験もなければ、家族のあり方さえばらばら。人々が「ばらばらのセグメントに分かれる21世紀」。その時代にふさわしい文学の公共的な価値とはなにか。本書はしばしば一続きに見られる江藤と加藤との間に切断線を引き、後年の加藤が突き当たったこの問いをともに「歩きなおす」ことを試みる。  おそらく著者の答えは、本書の文学作品の読解に示されている。例えば、一九四七年を舞台とする椎名麟三『永遠なる序章』が、同年の社会党政権の成立を言い落としていることが本書では指摘される。あるいは、柴田翔『されど われらが日々――』が左翼青年の転向に戦前の皇国主義者の挫折を重ねていることが読み解かれる。こうした読解は文学を政治に直結させるのではなく、むしろ政治には還元し得ない残余が文学に存在することを指し示す。本書では時代の流れには表面化し難い文学者の個人的な追想や日々の生活に刻まれる抵抗の姿勢に焦点が当てられているのである。それは加藤が「ねじれ」や「よごれ」といった比喩で表そうとしてきたものに他ならない。  「アノトキノオマエハドオシタカ/アノトキノオマエハドオシタカ」(「ロクタル管の話」)、「何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ」(『斜陽』)。本書を通読して印象に残るのも、戦後という時代の隙間に著者がそっと蘇らせるトラウマ的で密やかな声だ。それはあくまでも断片に留まり、政治的な枠組みを構築したり大文字の歴史を物語ったりする素材にはなり得ない。こうした断片的な証言と粘り強く対話を行い、それを少しずつ普遍の方に開いてゆく営み。それが本書では批評と呼ばれている。これは加藤から継承された姿勢であるとともに、『心を病んだらいけないの?』などを経て「歴史から対話へ」と軸足を移してきた著者の思考の歩みでもあるだろう。  過去とひっそり対話しよう。これまで歴史という言葉に担わされてきた使命感や政治的な一体性の幻想を捨てて。するとそこに、他者との共生の道がかすかに開かれる。「歩きなおす」「旅路」等の比喩、「――」や一行アキを用いた自問自答など、本書の叙述を進める上での工夫も、対話というものが本来有している身体感覚を賦活し、個別的なものに即しながら公共的なものに繫がるか細い道を模索したものだろう。それは『私にはいなかった祖父母の歴史』(イヴァン・ジャブロンカ)、『一人称の過去』(エンツォ・トラヴェルソ)など、私的な喪の作業を通じて過去の記憶を継ごうとする近年の歴史研究のあり方とも呼応する(刊行に際した著者と上野千鶴子との対談も参照)。個人的なことは歴史的なことでもある。本書は、この時代に文学を読むことが未来に繫がっていることを指し示す、新しい「歴史書」である。(まつだ・いつき=愛知淑徳大学創作専攻講師・日本近現代文学)  ★よなは・じゅん=歴史家・評論家。二〇一五年まで地方公立大学准教授として教鞭をとり、病気休職を経て離職。以降は在野で活動。著書に『歴史がおわるまえに』『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著、小林秀雄賞)『知性は死なない』など。一九七九年生。

書籍

書籍名 江藤淳と加藤典洋
ISBN13 9784163919829
ISBN10 4163919821