読書人を全部読む!
山本貴光
第50回 「出版報国」と「書評文化紙」
ときどき書評紙の歴史も眺めてみよう、というわけで前回は「日本読書新聞」の始まりに目を向けてみた。その際参照した宮守正雄『昭和激動期の出版編集者』(中央大学出版部、2005)他の記述を頼りに、創刊後の変遷を見ておこう。
1937年1月に東京出版協会を母体として設立された〈日本読書新聞社〉が、3月に出版業者の宣伝機関紙として「日本読書新聞」を創刊する。前回はここまで確認した。だが、宮守によると部数が思ったように伸びず、日本読書新聞社は1940年8月に解散してしまう。なぜあまり読まれなかったのかは紙面や当時の読書環境を調べてみないと分からないが、読書する人びとの関心を惹かないような内容だったのだろうかと、かえって興味を惹かれる。
では、発行元の解散によって「日本読書新聞」も廃刊になったのかといえばそうではない。その年、1940年12月に発足した〈日本出版文化協会〉という別の組織に紙名と発行権が移譲され継続することになる。版元を変えての発行は第165号からのようだ。
さて、再び宮守によると、この新生「日本読書新聞」は「それまでの新刊案内や出版業界情報紙とは異なる〝書評文化紙〟として生まれ変わり、成長しはじめていこうとした」のだという。このとき、編集長に抜擢されたのが田所太郎(1911―1975)で、彼は後に「図書新聞」を創刊する人物である(第27回も参照)。とはいえ、1940年末という時期から連想されるように、その翌年には日本の宣戦布告によって、アメリカ、イギリスとの太平洋戦争が始まるというタイミングである。
加えて「日本読書新聞」の新たな発行元となった日本出版文化協会は、政府主導で結成された全国出版業者の組織であり、「出版報國」の推進を目的としていたという。実際には、同協会と前後して設立された内閣情報局による出版統制の下請的な団体として、紙の配給や発行承認などの業務を担当していたというから、田所編集長たちの「書評文化紙」という理念がどこまでどのように実現されたのか、あるいは国策との軋轢はなかったのか、という点は大いに気になるところだ(以上、日本出版文化協会については『国史大辞典』吉川弘文館による)。これも同紙を閲覧の上確かめたいので宿題としておこう。
ところで、ここまでのところ「日本読書新聞」が1937年に創刊されたと述べてきた。この点については、佐野眞一が「これ自体は誤りではないものの、同紙の誕生には、これに遡る前史がある」と指摘している(『業界紙諸君!』中央公論社、1987/ちくま文庫、2000)。1930年に与座弘晴という人が「読書新聞」という月刊紙を創刊しており、これが後に「日本読書新聞」に吸収合併されたのだという。調べてみると『沖縄大百科事典 下巻』(沖縄タイムス社、1983)に与座弘晴の項目がある。「出版業界改革のため独力で『読書新聞』を創刊。書評紙としての地位を確立するが、37年〈権威ある読書文化、出版文化の指導と報道の機関〉として創立された『日本読書新聞』の趣旨に賛同し、自社を解体して参画。同新聞の前身的な役割を果たす」とのこと。また一つ宿題が増えた。どこかで「読書新聞」を読むことはできるだろうか。(やまもと・たかみつ=文筆家・ゲーム作家・東京科学大学教授)
