- ジャンル:文学研究・評論
- 著者/編者: ボリス・ピリニャーク
- 評者: 沢田和彦
日本の太陽の根源
ボリス・ピリニャーク著/ダニー・サヴェリ解題・注
沢田 和彦
本書は、ソ連の作家ピリニャークの作品にフランスのロシア文学者サヴェリ女史が詳細な解題と注を付して、二〇〇四年にモスクワで出版した本の翻訳である。
ボリス・アンドレーエヴィチ・ピリニャーク(本名ヴォガウ、一八九四―一九三八)は「同伴者」、即ち急進的な共産主義イデオロギーは持たぬものの、革命を受け入れる文学者の一派に属した。一九二六年と一九三二年に来日。一九三七年に〈日本のスパイ〉などの罪で逮捕、翌年に銃殺された。代表作は『裸の年』。
一九二六年にピリニャークはアメリカ訪問の帰途、モスクワ・マールイ劇場の女優オリガ・シチェルビノーフスカヤを連れて、三月半ばから五月末まで日本に滞在した。新生ソ連から日本を訪れた最初の作家である。前年にピリニャークの作品の翻訳が二冊、この年にも二冊刊行され、その名はわが国の読書界にかなり知られていた。
夫妻を接待したのは日露芸術協会である。この協会は一九二五年一月の日ソ国交樹立を機に、三月にソ連芸術の研究と紹介、両国芸術の交流、両国民の文化的接近と親善を目的として、日本の文壇人とロシア芸術研究者により創立された、最初の日ソ友好・交流団体である。
『日本の太陽の根源』の原書は一九二七年にレニングラードで出版された。そしてその年のうちに日本語訳、井田孝平・小島修一共訳『日本印象記—日本の太陽の根帯—』(原始社)が出た。今ではこれは稀覯本に属しているので、今回の翻訳は喜ばしい出来事である。
ピリニャークの訪問地は以下のとおりである。即ち、下関から入国して、東京、伊香保温泉、東京から大阪まで朝日新聞社の飛行機で飛び、大阪、神戸、信州、熱海など。東京では檜町六番町に居住し、築地小劇場、ニコライ堂、上野公園、浅草寺、歌舞伎座、帝国劇場、小金井公園、靖国神社、乃木大将の邸宅、泉岳寺、吉原、明治神宮、東京外国語学校、早稲田大学などを訪問。帰路は沼津、大阪、奈良、京都、岡山、そして下関から出国した。
ピリニャークが会った人物は、日露芸術協会の主要メンバーである尾瀬敬止、金田常三郎、茂森唯士、秋田雨雀をはじめとして、昇曙夢(のぼりしょむ)、米川正夫、小山内薫、井田孝平、山田耕筰、富士辰馬、淡谷袈裟二、平岡雅英、石田喜与司、片上伸など。秋田、昇、米川、小山内、山田を除けば、今日ではほぼ忘れ去られたこれらロシア文化の研究者たちが、こぞってピリニャークを熱狂的に歓迎する様子はとても興味深い。
ピリニャークは自分に対する日本の外事警察の執拗な監視、尾行に繰り返し言及し、彼らのことを憎悪の念を込めて「イヌ」と呼んでいる。日ソ基本条約締結直後の「赤色ロシア」の人間の来日であり、これは共産主義の流入を恐れる日本側からすれば当然の対応であった。またこの作品では混浴風呂、日露戦争の生々しい記憶、紡績女工の悲惨な境遇、茶屋、芸者など、大正末期の日本と日本人の姿が浮き彫りにされている。
表題の「太陽の根源」は、日本が「日出ずる国」であることから出た表現だ。ピリニャークの日本滞在はわずか二カ月半のため、皮相な観察も散見されるが、彼の日本理解は知識の蓄積よりも感情や経験に立脚したもので、地震と火山が日本民族の「意志優位と秩序立てられた神経による精神文化」をつくり上げたという。ピリニャークの来日が関東大震災の三年後だったことも念頭におく必要があろう。日本民族の音は下駄の音、匂いはイカの匂いだという指摘は面白い。
サヴェリ女史の注と解題「一九二六年の日本におけるボリス・ピリニャーク」は、日本の外交史料館の史料と各種新聞の記事、日本とロシアの雑誌と単行本、そしてロシアの諸文書館の史料を渉猟した大変な労作である。外交史料館の史料や日本人名、日本の事物名についての原書の注は、ロシアの読者にとって実に貴重であり、かたやロシアの文書館の史料やロシア人名についての翻訳書の注は、日本の読者にとってとても有難い。
サヴェリ女史は一九九七〜九九年に早稲田大学に滞在して、研究活動に従事された。そして当時評者たちが開催していた「来日ロシア人研究会」にも参加された。彼女の貪欲なまでの資料探究熱には驚かされたが、会員の方々による調査支援が本書に生かされていることを嬉しく思う。(塚原 孝訳)(さわだ・かずひこ=埼玉大学名誉教授・日露交流史)
★ボリス・ピリニャーク(一八九四―一九三八)=ソ連を代表する作家。著書に『裸の年』『機械と狼』など。
★ダニー・サヴェリ=トゥールーズ大学ジャン・ジョレス校准教授・ロシア文学・ロシア文明。『スラヴィカ・オクシタニア』編集長。
書籍
| 書籍名 | 日本の太陽の根源 |
| ISBN13 | 9784779131042 |
| ISBN10 | 4779131049 |
