鼎談=庄司宏子×木村朗子×西成彦
<災害の世紀に、文学にできること>
『〈災害〉文学の可能性』(作品社)刊行を機に
『〈災害〉文学の可能性』が作品社より刊行された。この災害の世紀に改めて、〈災害〉の記憶を文学で語るとはどういうことなのか、〈災害〉文学は何を可能にするのか、という問題に取り組んだ論集である。刊行を機に編著者で米文学者の庄司宏子氏、執筆者で日本文学者の木村朗子氏と比較文学者の西成彦氏に鼎談をお願いした。(編集部)
庄司 本書には戦争、ホロコースト、ジェノサイド、奴隷制度から気候変動まで、世界が経験してきた様々な〈災害〉を描く文学についての論考を収めています。この論集を出そうと思ったきっかけは、大きく三つあります。
一つ目は私たちが生きるこの世界が、多種多様な災害に見舞われているということです。日本で言えば東日本大震災、そして新型コロナウイルスのパンデミックは世界中が同時に経験しました。また現在、ウクライナやガザで戦争が継続中ですが、そこではジェノサイドと呼ぶような事態が起こっています。イランでの戦争も刻刻と状況が変化し、まさに災害こそが世界の日常になっている状況です。
二つ目には、それと呼応するように学問の世界でも、ロブ・ニクソンの「緩慢な暴力」、マリアンヌ・ハーシュのポストメモリーなど、〈災害〉を次世代へと継承される記憶から論じるメモリー・スタディーズが登場してきています。
そして三つ目は、これが一番大きなことですが、文学ならではの〈災害〉の捉え方や記憶の仕方があるのではないかという思いです。
木村 改めて伺いたいのですが、災害にも、Disaster、Catastropheなど様々ありますが、何を思い浮かべてこのメンバーを集められたのですか。
庄司 そもそも戦争やホロコーストやジェノサイドを〈災害〉と呼べるのか、批判もあると思うんです。本書では、それらを単独で見るというよりは、複合的に結びついたものとして、その全ての根源にある人間社会の暴力を文学がどう捉えるのか、文学はそれに対して何ができるのか、それを考えてみたかったところがあります。
そもそも天災と人災を分けることは難しいですよね。天災は、社会の不正義や不平等なシステムと結びついて人災となりますし。そうした人の世の「時間」と「場所」に堆積し続けてきた〈災害〉の記憶を掬い取り、読者に深い思索を促す、その可能性を文学は持っているのではないかということです。
西 僕はもともとポーランド文学が専門ですが、ドイツからロシアにかけては地震がなく、災害と言えば、天変地異というより、人災にあたるホロコーストやスターリン主義など、悪政がもたらした大量死が念頭に浮かびます。歴史家のティモシー・スナイダーによれば、ブラッドランズ(流血の地)の名で呼ばれる一帯で、そこから生まれる文学は暴力と無縁ではいられないわけです。
ただ僕自身は阪神淡路大震災で身内が被災したりもしたんですが、日本と言えば大水害のニュースは絶えないし、名だたる「災害の地」ですよね。
そういう中で3・11が大きな意味を持ったのは、天変地異が、福島原発事故という人災を巻き起こしたこと。さらにそれが、過去の人災の記憶を呼び覚ましたことだと思っています。フクシマはヒロシマの記憶を蘇らせ、あるいは原発事故による人の移動や除染作業員の過酷な労働は、移民問題や奴隷制まで、様々な汚辱の歴史を考えるきっかけを与えてくれました。
日本には「戦災」という言葉もありますね。天変地異も戦争も〈災害〉の名でひっくるめるのは、人間もまた動物であるあかしであるように思います。
しかし、苦しむ人がいるところには、何かしらの災禍が起こっていて、複合的な災害の、その根源が何かを突き止めるのが、人間の、そして文学者の仕事だろうということです。
庄司 日本文学、ポーランド文学、アメリカ文学などと国境に閉ざされたものではなく、語圏を超えて考えてみたいという思いもありました。
UCバークレーの災害研究に触れたことも考えるきっかけになりました。文学だけではなくアートや社会学、歴史学、法学、刑事学など学問分野を横断して災害を捉える研究が行われていて、それが今回の論集で先住民アートを研究する文化人類学者の細谷広美さんにご参加いただくことに繫がりました。
アメリカの奴隷制の根源には人種主義や白人至上主義がありますが、その歪んだ人種観がトランプを支持するテック右派、特に南アフリカや南西アフリカ(現ナミビア)でアパルトヘイトを経験したイーロン・マスクやピーター・ティールらの言動によって回帰しているのは気になっています。
木村 研究会を行っていたのはコロナ禍でしたね。主にZoomで。まさに災害のもとに行っていた研究会だった。
コロナ禍が本格的に文学に出てくるのはこれからだろうと思っています。文学として出てくるまでには時間がかかりますよね。昨年は阪神淡路大震災から三〇年でしたが、芥川賞を二〇二五年下期に受賞したお二人とも関西出身で、どこかに震災の記憶を持っていました。また井戸川射子さんが『私的応答』という作品を出されましたが、彼女も小学生のときに震災を経験しています。
考えてみると林京子さんも、女学校時代に長崎で被爆して、『祭りの場』を書いたのは約三〇年後でした。文学はそのように時間を抱えたり、遡ったりすることができる。
その時間を考えると、東日本大震災についてはまだ書かれていないことがたくさんあるのでしょう。パンデミックが終息し世界が元に戻るかと思いきや、戦争の時代に突入してしまった。こうした現在に繫がるコロナの時代の総括は、これから文学のかたちで、出てくるのではないかと期待しています。
その意味でも、〈災害〉文学には、大きな可能性があると思っています。
西 木村さんが取り上げた津島佑子さんの、とくに最後の五年間は、歴史に巻き込まれた女性たちの苦しさを描いてきた津島さんが、3・11以降、アクセルを踏んだという気がする。僕も震災以降、折に触れて津島佑子を読むようになりました。
庄司さんの論文を読んで感じたのは、個人的な話ですが、一九五五年生まれの僕は、六〇年代から七〇年代のカウンターカルチャーを、思春期の多感なときにかっこいいものとして受け入れてしまった軽薄な世代に属すということです。
たとえばブルースでは、一九二七年のミシシッピ大洪水を歌ったWhen the Levee Breaksを、レッド・ツェッペリンがカバーしていたり、庄司さんの論文に出てくる悪名高い刑務所パーチマン・ファームも、七〇年前後には白人ブルースシンガーが寄ってたかってカバーしたブルース曲がもとなんですね。僕はこれを、カクタスやジョニー・ウィンターの演奏でしか知らなかったけれど、フォークナーも描いていたのかと驚きました。
今から五〇年前のカウンターカルチャーの時代に、アメリカの批評的なアートのあり方が、奴隷制やベトナム戦争を含めた〈災害〉の負の歴史をまるごと捉えかえすものになっていたのではないか。トランプのような大統領がいるアメリカを、それでもまだ信じたいと思ってしまうのは、そういう時代があったからだと改めて思ったんです。
ミシシッピ大洪水は天災であり、パーチマン・ファームは人災ですが、スラムの黒人たちにとっては、両方ともにサバイバルを強いる災禍だった。そしてそれがアートを生み出すエネルギーになってもいたわけですね。
庄司 西さんからいただいた宿題に、アメリカが世界に災害をもたらす破壊者として登場する現在、アメリカ文学が自国の暴力をいかに書いているのかと。今回はそのことを考えてみました。
一九世紀の西漸運動の頃にアメリカを加害者として描いた、最初にして最大の作品が、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』です。ご存知の通り、イギリスから大西洋を渡って西にやってきた人たちが、今度は大陸を西へ開拓地を広げていく西漸運動の中で、帝国主義や過度な資本主義、奴隷制の拡大や、環境破壊が起こっていきます。『白鯨』では場を海に変え、そうした西漸運動の破滅的な末路を描き出します。その延長上にコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』や結城正美さんが論文で取り上げたダイアン・クックの『静寂の荒野』の世界が到来します。
現在のアメリカはなお、そうした在り方の延長上で、ラテンアメリカへの裏庭政策や、イランやベネズエラの資源に対するあからさまな欲望を顕わにしています。それを思うにつけても、メルヴィルがアメリカ文学において初めて自国を破壊者として刻印し、その罪と向き合ったことは重要な転機ではないかと思っています。
西 アメリカ文学とイギリス文学は、同じ英語圏文学であるにもかかわらず、共同研究はほとんど見かけないですよね。英語圏文学と言うときには、それ以外の、オセアニア、カリブ、インド、アフリカと、各々の専門で分断されてしまう。
英語圏の中で人びとは活発に影響しあっているはずなのに、文学研究者には領土主義があって、困ったものだと思っているのですが。その中で庄司さんは、同僚の英文学研究の小林英里さんとこのプロジェクトを作られ、今回の論集では米文学と英文学のバランスが取れているのもうれしいことの一つです。
というのも、ホロコーストについても、イギリスとアメリカとでは受け止め方が違うからです。現在のトランプの戦争を見ていても、アメリカはイスラエルの保護者のように振る舞い、一方のイギリスはかつてパレスチナを支持していた。パレスチナ人とユダヤ人が共存できる二国家解決策に向けて提案されたバルフォア宣言は、アメリカによって完全に踏みにじられてしまいましたが。
その点、小林英里さんは、アメリカのユダヤ系文学研究者とは違う角度で論じてくれました。キャリル・フィリップスのような、英国植民地だったカリブ出身の作家が出てくるのも、アメリカ文学の読者からすると新鮮なのではないでしょうか。
この論集では取り上げる災害も様々で、地域も言語もいろいろ、それを散漫だと思う人もいるかもしれませんが、小林さんの論文がその意味で全体をぎゅっとまとめてくれたようにも感じます。
つまり世界中で起こっているあらゆる種類の人間の苦しみと、自分の立っている場所とは決して切断されてはおらず、誰もが世界中で進行する暴力に、無限の責任を負っているのだと。皆が当事者であれば語り継ぐ責任を有する。その感覚を醸成するために文学があるのだと。この論集の在り方は、文学の懐の深さではないかと思うのです。
木村 小林さんの論考を読んで感じたのは、これまでホロコーストにせよ原爆にせよ、ある決まった「型」で描かれてきた。ところがここにきて、違う語りの可能性が見え始めているのでは、ということでした。
東日本大震災では、震災の日の被害そのものを書くのではなく、復興の過程を通して災害を描くものが出てきています。たとえば芥川賞を取った佐藤厚志さんの『荒地の家族』では、あるところから真新しい電柱が立っていて、ここまでが津波が襲ったところだと一目でわかる場所が描き込まれます。あるいは災害の影響は、家族関係に見えない変化を及ぼしている。復興し、震災は過去のものだと忘れ去られるけれど、文学は残された災害の跡を拾い上げ、なおも記憶を繫いでいます。
また小林エリカさんの『女の子たち風船爆弾をつくる』は、戦時中に純粋な使命感で行動した女の子たちの加害の記憶を描いた作品です。こうした作品にも、加害や被害の語りが刷新されていることを感じます。この論集では、文学の新しい語り方を提示することもできたのではないでしょうか。
庄司 それは文学が、どのような世界の見方を提示し得るのかということですよね。
最近は、トランピズムがいかに、現実の見方に変化を与えているのかに関心をもっているのですが、たとえばホワイトハウスが発信するイラン戦争の報道は、ほとんどプロパガンダです。アニメキャラクターのスポンジボブにスーパーヒーローの格好をさせたビデオクリップに続けて、軍事目標の爆撃の映像を流したり、Wii Sportsの野球のホームランやゴルフのホールインワンのシーンと、爆撃成功の映像を重ねた動画を投稿したりしています。本当に政権が出している報道なのかと目を疑うばかりです。一方で、アメリカが攻撃されたというCNNの報道はフェイクだと発言する。
「ファクト」と「フェイク」を権力者が混在させる世界の、文学の役割とはいかがでしょうか。
木村 文学でしか果たせない役割の一つは、ゆっくり進むことだと思うんです。現在はSNS、生成AIに牛耳られる情報の時代で、言葉の流れる速度がとにかく早いわけですが、文学では三〇年経って阪神淡路大震災を振り返ろうとしています。そうした小説には巻末にたくさんの参考文献が挙げられています。時を経て、自分の記憶だけでは書けないので、ある種のリサーチフィクションや聞き書きのかたちをとることになる。私小説のように自分の経験をもとに描くというよりは、皆が生きてきた歴史をもとに書く文学が、フェイクに抗するものとして登場してきているのではないでしょうか。そうした人間の知の集約こそが文学なのではないかと思うようになってきました。
西 僕は今回原点に戻って、ポーランド文学は必ずしも、ポーランド人によってポーランド語で書かれるものだけではない、という観点から考えてみました。ポーランドを占領していたドイツ語圏の人、ポーランドに住んでいたユダヤ人やウクライナ人など、様々な人たちがポーランドの歴史を背負わされました。
ギュンター・グラスはドイツ人のノーベル賞作家ですが、現在のポーランドで生まれ育ち、母親はポーランド系少数民族のカシューブ人です。彼が生きた第二次世界大戦、戦後のドイツへの追放、それらの経験を踏まえつつ、自身の経験だけでなく、ポーランドでドイツ人の子どもたちがどう生きたのかを描きました。木村さんがおっしゃったように、文学に秘められたタイムスパンの長さは、物事を捉え記憶を刻印するために、大きな底力を発揮すると思います。
西 そしてかねがね気になってきたのは、「文学者」には作家も研究者も含まれるということです。つまりファクトだけでなく、フィクションを交えた語りを含めて、世界を解釈し直す。その営みを通じて世界を批評的に捉え直し、いかに未来に繫いでいくことができるのか。そして我々研究者は、作家による無謀さも含み込む冒険的な試みを、批評の刃を研ぎ澄ましてさらに力強い闘いへと変えていくことができるのか。
トランプのフェイクに抗するために、フィクションを封じるというのではなく、より批評的にチェックする眼が必要になってくるのではないでしょうか。
木村 明治時代に日本文学が立ち上がって、帝大に国文学科ができた頃は、作家と研究者が未分化でしたよね。夏目漱石も英文学研究者でもありました。ところがその後、日本文学研究では、長らく現代文学は研究対象外に置き、作家と研究者が一緒に動くことが途絶えます。それが今、たとえば東日本大震災を対象に書こうとする作家と、私のような研究者が一緒に動き始めています。明治時代の文学の現場が戻ってきた感じがあります。
一方、海外文学研究では現代文学も対象にしますし、新しい作品を翻訳して紹介する役も担っています。常にコンテンポラリーなものに触れているんです。
もう一つ、震災後文学では、日本文学を教えている海外の先生方も一緒に研究しているのも面白い点です。その方たちと共同研究をするようになって、日本の日本文学研究の見方も変わってきた。その意味でも、東日本大震災は文学研究にとって大きな出来事だったと思っています。
庄司 震災後文学が、UCバークレーであれだけ大きな関心を持って授業に取り上げられているとは、驚きました。
西 学者と創作者が束にならないと、この世の中の流れを止められないという危機感が日に日に強まってきているように思うんですよ。
欧州やアメリカで災害と言えば、ジェノサイドやホロコースト、帝国主義がもたらしたコロニアリズム、奴隷制にばかり目が行って、日本とは違い自然災害をイメージしてこなかったはずです。でも今は、地球規模で起こっている事柄を、環境問題も含め、幅広く、文学に関わる問題として、さらに言えば資本主義を批判する素材として、丁寧に見なければならないと、皆が考え始めている。
ポストコロニアルという言葉でも、世界の総体はカバーできない。旧植民地だけでなく、先進国内部で起こっている悲惨をまで見なければならない。そういう関心が、二〇〇〇年代になって出てきたのだと思います。
木村 先ほども出ましたが、東日本大震災は、地震と津波という自然災害だけでなく、原発事故で被爆者を出したことも衝撃として受け止められています。チェルノブイリにも、当然ヒロシマ、ナガサキの記憶にも繫がる。広く時間と空間を結んで考えるべき問題だということでしょう。津島佑子さんだけでなく、震災後と戦後を重ねあわせる作品として、辺見庸『青い花』、多和田葉子『献灯使』、いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』などがあります。
庄司 木村さんの論文には、東日本大震災が、過去の日本が体験してきた放射能災の記憶を呼び起こすことへの関心が見られました。その中で、戦後日本がきちんと見てこなかった、混血孤児の問題も、有吉佐和子、三枝和子から津島佑子に受け継がれ、描かれてきたことが論じられます。
そして西さんは、現ポーランドのグダンスクという場所に堆積してきた土地の光景を、ギュンター・グラスやパヴェウ・ヒュレらがいかに描いてきたのか。そこからさらに過去へ遡り、「グダンスク幻想」とでもいうようなかたちで、論文とエッセイの間のような文章を書かれた。お二人はそれぞれいつ頃から、こうした問題を意識されたのでしょうか。
木村 津島佑子さんの関心に迫りたいというのが私にとっては一番大きかったのですが、東日本大震災の後、『ヤマネコ・ドーム』を発表された時から同時代で遺作となった『狩りの時代』まで追いかけ、現在も初期作にさかのぼって追い続けています。
津島さんは原発事故が起こったとき、自分はこれまで選挙権を行使して、原発に賛成し続けてしまったと、愕然としたのだと思うんです。振り返れば、水爆実験の犠牲になった第五福龍丸事件の起こった一九五四年に、国会で初めて原子力予算がつき、原発開発が動きだしています。そういう中で無批判的に生きてきた自分は、様々な戦後の進み行きの中で、今に至る多くの重要な問題を見過ごしてきたのでは、と自らを疑うところがあったように思うんです。私は東日本大震災をきっかけに、津島さんのこだわった敗戦後の時代について再考したいと思うようになりました。
西 今回の僕の文章でも触れていますが、津島さんは自分が生きてきた戦後を改めて振り返りながら、当時は気づけなかったことを解釈し直していきますよね。それこそ第五福龍丸事件から、全てを再点検する。それが彼女の最後の五年間だった気がします。
自分が子どもだった時代のことは、どの作家にとっても重要だと思うんです。さらに津島さんは子どもを産む性でもあるので、そのことも併せて考えてこられたところがあるでしょう。それが彼女の晩年の作品の豊かさに通じています。
同じように、戦中戦後のポーランドを生きた作家たちが、その歴史を描こうとするときに、子どもをアクターとしてその環境の中に放り込む。子どもたちに戦争を経験させ、あるいはまだ地雷が埋まっているような戦後を経験させる。
戦中に転校してきたユダヤ人の子がいつの間にかいなくなっていた、などという話は、歴史家が扱うことのない、歴史の隙間に落ちたようなエピソードです。そうした個人の中に残る不気味であり懐かしくもあるような記憶を、グラスもヒュレも文学の中に刻印していきます。カルロ・ギンズブルグが言う「マイクロヒストリー」に従事するのが作家だとも言え、そこで子どもが果たす役割は大きいと思うんです。
木村 子どもの目線で見ることなど、文学でしかできないことですよね。ジャーナリズムや歴史は、史実や史料を元にした確定的なことしか語れない。記録にはないけれど皆が体感として知っていることは、小説で語るしかないわけですね。
庄司 子どもをマイノリティへ拡大して考えると、アメリカ文学の中ではアフリカンアメリカンが、文学を自分たちの力の源泉にしてきました。子どもの目線で見た世界を描けるのは文学だけ。あるいはアフリカンアメリカンが体験した世界にとっても、文学が重要なツールとなります。
最近は移民や難民を描く文学も世の中に多く出てきています。マイノリティの視線で世界を語ることができるのは、文学の強みですね。
庄司 アメリカ文学には、トランピズムが相当な影響を与えていると感じています。阪神淡路大震災や東日本大震災では、時を経て新しい見方が出てきたということでしたが、トランピズムのショックはそれより早いスパンで盛んに現れてきているようです。
たとえば、トランプという存在を、ナチスドイツの全体主義、東ドイツの秘密警察シュタージによる監視社会、ネット空間に現れる極右の白人至上主義に繫げて描くハリ・クンズルのRed Pillという作品があります。映画『マトリックス』が背景にあるタイトルですが、レッド・ピルとは不都合な現実を受け入れることを、ブルー・ピルは無知のまま安全に暮らす逃避を象徴しています。
またパキスタン系移民の両親をもつ、アヤド・アクタルのHomeland Elegiesは、いかに第一期トランプ政権が誕生した二〇一六年十一月以降のアメリカの分断が過酷だったのか。9・11後のイスラムフォビア、一方では移民である父のトランプへの熱狂とアメリカンドリームへの憧れなどが描かれた傑作です。
どちらも二〇二〇年に刊行されています。トランピズムへの危機感からか、フィクションを通じて不透明な現実に真実の光を当てることを、意識的に作家たちが行っているように思います。
文学が描き出す記憶は、必ずしも心地のいいものばかりではありません。セカンドトラウマと呼ばれるような、読むことで辛い過去を掘り起こされる記憶も文学の中心的な題材となります。
トランプをはじめとする世の政治家たちは、自国のいいところのみ、心地いい歴史だけを記録しようとする。権力者が自分たちに都合のいい歴史を作り出す中で、文学はどのような現実に対する認識を示すことができるのか。文学は、為政者によって消されてしまうような記憶を繫ぎ、真実を見つめる思考を促す、そのような役割も担っているのではないか。
西 トランプは歴史修正主義者だと思うけど、むしろトランプが言っているような歴史観こそが、アメリカの本流なのかもしれませんよね。
庄司 アメリカのアカデミズムはかなりリベラル寄りなので、その世界をいかに右傾化させるかという攻防が、ずっとあったように思います。それが最近になり、奴隷制を教えることを禁じるとか、LGBTQの文学を図書館から禁書にするとか、スミソニアン博物館の展示で、奴隷制に関するものを削除しようという動きもあるようです。 もっとひどいのは、PragerUという右派視点の動画プラットフォームで、奴隷制はそう悪いものではなかったと、過度に正当化するコンテンツが出てきていることです。この組織が教員採用に係わっているとか……恐ろしい時代になりつつあります。
コルソン・ホワイトヘッドのThe Nickel Boys(二〇一九年)は邦訳も刊行されています(『ニッケル・ボーイズ』)が、奴隷制廃止後も今なおアメリカ社会に存在する黒人の収監システムを、フィクションで再現しています。アメリカは盗んだ土地に、盗んできた人たちを住まわせてできた国である。アメリカのシステム自体が歴史的にねじ曲がったものであり、この国に暮らすことは多かれ少なかれそれに共犯することなんだ、という告発です。そういう文学が出てきたのも、トランプの影響だと思います。アメリカの作家たちもこの状況の中で、使命感を持ち始めているんです。
木村 多和田葉子さんが言うには、権力者は文学を読まないので、安全地帯だと。アメリカでも文学は安全ですか。
庄司 今のところ、文学者がトランプに検閲を受けたという話は聞いたことがないです。ただ、ジャーナリズムはかなり変わりました。たとえばアメリカの公共放送であるPBSは、かつてはリベラル派の論客だけをニュース解説に呼んでいましたが、最近は保守も呼び、両方から伝えるようになっています。
木村 日本の報道にも自己検閲の傾向がありますよね。そういう中で文学は、小さな産業だからこそ自由が保たれていると言いますか。権力者が本を読まない人たちで良かったというか(笑)。
西 かつてのヒトラーやスターリン、現在ではプーチンやネタニヤフやトランプら、独裁的な政治家たちがまさに〈災害〉として文学の素材になりつつあるのかもしれないですね。
庄司 トランプ・パニックフィクションの批評家たちは、トランプが去っても彼があけたラビットホールは閉じないだろうと言っています。
トランプが出てきて一番困ったことだと思うのは、白人至上主義者が旗幟鮮明になってきたことです。二〇二一年一月六日のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件は、どう考えてもクーデターですが、トランプに言わせれば愛国者たちになるわけですよね。そうした恐ろしい現実を目の当たりにして今回の論文では、アメリカの白人至上主義が世界にどのように流布していくのか、白人至上主義の免責の文化とは何かということを考えたいと思いました。
大統領執務室で行われたトランプ大統領とゼレンスキー大統領の会談でも、戦争の真っただ中にいる大統領に向かって、面倒を起こしているのはお前だというような、被害者を加害者に捏造するナラティブの書き換えは、まさに白人至上主義の常套手段です。
コルソン・ホワイトヘッドは、その危うさをかなりうまく作品化しています。
木村 日本文学が大きく変化してきたもう一つの要因に、韓国文学の影響があるのではないかと思います。ノーベル文学賞作家のハン・ガンをはじめ、光州事件や済州島4・3事件など歴史と向き合った良質な文学がたくさん書かれています。その勢いのある韓国文学がどんどん翻訳され、日本語で読むことができるのは素晴らしい環境ですよね。意識ある作家たちもそれらを読んでいるはずです。かつてはドストエフスキーになりたいと思う作家がいたかもしれませんが、今目指されるのは、ハン・ガンかもしれません。
少し前まで日本文学では、変わらない日常を読ませる文章で描くというものがウケていました。でも人々の意識を変えるような大きな出来事や、歴史的な事象に向き合って書く意欲を、日本の作家たちが持ち始めた気がしています。その一つの大きな起点が、東日本大震災ではないかと思っているんです。
最近では豊永浩平という沖縄出身の作家が「月ぬ走いや、馬ぬ走い」でデビューし、「はくしむるち」も話題になりました。芥川賞を取っていないことに驚くぐらい筆力がある作家で、歴史と現代とが駆動するパワフルな作品です。これから彼のような作家がどんどん表に出てくるのではないかと期待しています。
『ゲーテはすべてを言った』で芥川賞を受賞した鈴木結生さんも、九歳のときに福島で被災しているんですよね。その後九州に移っていますが、福島のことをずっと書きたいと思っているけれど、書きあぐねているのだと。近い未来に、きっと大きなものを書くだろうと思います。
日本では、あらゆる国の文学がどんどん翻訳されています。本書がカバーしているような様々な分野の作品に触れた作家たちに、私は未来を見ています。
西 円本の時代、外国文学は売れまくったのだけど、その時代に戻っている感じがしますね。
外国文学を読み、世界各地で起こる災害との距離の取り方を、自分のコンテクストに合わせて加工するのが、作家の仕事です。韓国文学をはじめ世界文学の中から、今までとは違ったセレクションで力を与えてくれる作品を掘り起こす作業を、作家たちにはしてほしいし、それが翻訳家たちの使命だとも思うんです。翻訳作品は一般読者を喜ばせるためだけでなく、作家に新たな文学を生み出すヒントや力を与える一種の触媒になり得る。僕はいつもそう願いながら翻訳しています。
木村 具体的に〈災害〉文学としておすすめしたい作品は、まずイギリスのアリ・スミスの、『秋』から始まる『冬』『春』『夏』の四部作です。脱EUの話をずっと書いてきたところでコロナ禍に入り、コロナ禍小説にもなりました。イギリスでベストセラーになって、読みたいと思っていたら、あっという間に邦訳が出ました。日本の翻訳文化はやはり素晴らしいです。マイナー言語なのに、日本語だけで研究できる、そのような国はほかにありません。
庄司 ラテンアメリカのマリオ・バルガス=リョサの『激動の時代』も昨年邦訳されましたし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が文庫で出てベストセラーになったのも、最近のトピックですよね。ラテン文学の中にアメリカの暴力がいかに刻印されているか、読み取ることができる作品です。
木村 津島佑子はフォークナーに影響を受けているんですよ。『響きと怒り』には知的障害を持った少年ベンジーが出てくるでしょう。兄が知的障害者だったので、夢中になって英文で読んだ、と書いています。中上健次もフォークナーになりたいと思っていたようですね。あの時代の作家二人が、フォークナーを通して自分の文学を作っていったことを考えると、世界文学の流入が、いかに日本文学を作り上げてきたのか考えさせられます。
庄司 先日、木村さんが『すばる』に書いた、横溝正史論「復員兵のいた季節」が面白かったのですが、エンターテインメントの中にも天皇制批判や、戦後の復員兵の問題など、社会批判の目があったわけですね。
木村 時代の空気なのだと思います。これまで神だと崇めていた天皇という存在に疑問を持つ時代であり、復員兵の不気味さを体感として皆が感じていた時代。戦争に行って顔が変わって帰ってくる、本当にあの人だろうかという不安。毒殺で使う青酸カリが一般家庭にあった時代というのも特殊ですよね。
とはいえ横溝自身は、社会批評をしようというつもりだったかどうか、面白いものを書こうとする中で、結果として時代が刻印されたのかもしれません。それを後から読んでみると、社会問題がそこに保存されているわけですよね。それも文学の面白いところです。GHQの占領期に書かれた文学にも、面白いものが発掘されるのではなどと想像しています。
庄司 読者の力もまた重要ということですね。
木村 私たち研究者の仕事の半分は、読む人を育てる教育ですよね。読むことは、一つの技術なのではないでしょうか。
庄司 文学が問われている役割も、時代によって変わると思うんです。先ほど西さんが話された、転校してきたユダヤ人がいつの間にか消えているというような、それだけでは一見何でもないエピソードの背後に、社会を写し込み、個人の経験がいかに社会や歴史と繫がっているかを示す。そうした器として、文学が見直されているように思っています。
西 作家たちの中に書きたい何かがあったとしても、自分の頭だけでは思いもつかないものごとが、言葉になって降ってわく、それがたぶん創作なんだと思うんです。ある時代の中で、一般人とは違うアンテナを持つ作家という存在が、他の人が気づかないような感覚や行動に注目し、言葉として焼き付ける。それを読む我々は、新しい視点から社会問題が炙り出され、批評されているさまを自分の眼で見届ける。研究者として、批評家として、作家たちをサポートすることが私たちの仕事だと思うんです。
文学の可能性とは、文学を志す人間が持っている未知の力、そこから見いだされる物語の力、それらに対する期待ではないでしょうか。(おわり)
書籍
| 書籍名 | 〈災害〉文学の可能性 |
| ISBN13 | 9784867931356 |
| ISBN10 | 4867931357 |
