2026/05/29号 4面

魂と心のアルケオロジー

魂と心のアルケオロジー 佐藤 透著 岡山 敬二 人がこの世に生まれることは、心を宿す肉体の誕生と考えられる。そして心の消滅が人の死であり、そのとき人はこの世を去った故人とされる。ところが、どうだろう。心そのものはじかに観察できない無形の事象であるはずなのだとすれば、人がこの世に生まれ、この世を去るとき、その心はどこからやってきて、どこにあり、どこへ行ってしまうのか。 この問いは、「心」と「身体」との区別や関係をめぐる問い、デカルトの二元論が引き起こした難問として知られる「心身問題(Mind-Body Problem)」につながる。デカルトは、科学的世界観を構築するために、心は物体とは違い、空間的に観察できないものだとし、心と物体とを決定的に区別する。そこで身体を物体の一つとみなす「心身二元論」という考え方に至った。しかし、これでは日常ごく普通に経験される心と身体の合一や交流が説明不能になってしまう。こうして、「心身問題」という難題を招き寄せることになる。  身体なら、自己の身体も他者の身体も観察できる。しかし、心のありようは当人である自己にしかわからず、他者の心のありようはわからない。本書は、この観察可能な「三人称的特性」と観察不可能な「一人称的特性」との対比のうちに心身問題がなりたつ始原(「アルケー」)を見定めようとする。なるほど、その対比からすると、心身の接点を脳内の部位に認めようとするデカルトの説明は、「心の一人称的特性の閑却」であり、問題の解決となりえないどころか、論点のすり替えに見えてくる。その閑却は心身問題の現代的展開にもそのまま当てはまるという見方もなりたってくる。まさに本書の見るとおり、この問題について「新しい風景が目の前に開かれるように思われる」。  一人称的特性というこの視点は、本書でも少し触れられているように、フッサールに始まる現象学(フェノメノロギー)の視点に重なり合うものと考えられる。フッサールの他者論、ハイデガーの存在論、メルロ=ポンティの身体論、レヴィナスの他者論にしても、つまるところ、そのすべては、そうした視点の対比をめぐる考察に見えてくる。フッサールの「アルター・エゴ(他我)」、ハイデガーの「死に臨む存在」における「死」、メルロ=ポンティの「肉」、レヴィナスの「顔」の位置づけは、本書で言う「心の一人称的特性」としての「うら」というあり方につながるように思われるからだ。  そして、フッサールが「エゴ(自我)」「超越論的主観性」とよび、ハイデガーが「現存在(ダーザイン)」とよぶ自己のあり方について、かりに、これを「不滅の魂(soul)」の存在と位置づける見方がなりたつのだとしたら、現象学の可能性についてもまた新しい風景が開かれてくる。いみじくも、本書の末尾で仄めかされているように、「その先には古人が「心身一如」と言っていたときの、未知の風景が私たちを待っているに違いない」、そんな思いを巡らしたくもなる。  心身問題は、解決など求められない、いや、求めてはいけない不滅の問いである。本書の試みの向かう先に、そんな絶景が、これまで見過ごされてきた「新風景」として開かれてくるように思えてくる。その絶景に見え隠れしてくるのが、「魂の不滅性に関する信念や身体とは区別される心の存在に関する信念は、けっして完全に消滅することがない」と本書で言われる信念のことだとしたら、どうだろう。それは、人が人として、一人の自己として生きているかぎり、哲学者も含め、だれもが巻き込まれざるをえない不滅の信念であるのかもしれない……。こうして、あれこれの新しい風景が浮かび上がってくることに、得も言われぬ味わい深さを感じずにはいられない。(おかやま・けいじ=日本大学教授・哲学)  ★さとう・とおる=東北大学大学院教授・哲学・倫理学。著書に『質的知覚論の研究』など。一九六一年生。

書籍

書籍名 魂と心のアルケオロジー
ISBN13 9784861634178
ISBN10 4861634172