鼎談=日野原慶×藤井光×松田卓也
<アメリカ文学のいまを読む>
日本アメリカ文学会第六五回全国大会が、福岡大学で開催される。この機に、大東文化大学准教授の日野原慶氏、東京大学准教授の藤井光氏、神戸市外国語大学准教授の松田卓也氏の三人に、いま読むべきアメリカ文学や最近の作品について考えること、アメリカ文学とは何か、なぜアメリカ文学を研究するのかなど、その輪郭を深堀りしていただいた。(編集部)
松田 まずは大摑みの印象ですが、最近のアメリカ文学は、複数のジャンルにまたがるものや、必ずしもアメリカを舞台にしていない物語など、幅が広がっているとも言えるし、境界が曖昧になっているということもできそうです。
具体的な作品を挙げると、二〇二五年の全米図書賞を取ったラビ・アラメディーンのThe True True Story of Raja the Gullible (and His Mother)(騙されやすいラジャ(とその母親)の本当に本当の物語)は、著者はレバノン出身で、物語もレバノンのベイルートが舞台です。主人公は作家としてアメリカに招聘されて行くものの、数奇な経緯を経て、結局はレバノンに戻ってきます。
アフリカ系アメリカ人作家ブライアン・ワシントンのPalaver(話し合い)は、最近読んだ中で一番グッときた作品でした。昨年の全米図書賞のファイナリストになっていて、出身地のテキサスが挿入されるものの、中心の舞台は新宿です。
どちらも面白い小説ですが、読んでいると、アメリカ文学の定義とは何だろうと思わされるんです。一昔前であれば、最終的にアメリカに辿り着く移民の物語がマイノリティ文学の一つのパターンでした。最近はアメリカが描かれても、全景にならない作品が多い。またマイノリティの作家や、アメリカを舞台にしない作品が、重要な文学賞にノミネートされることが増えているのも、最近の潮流だと感じます。いかがでしょうか。
日野原 私も、アメリカ文学の境界線は今やほぼないと言っていいと思っています。藤井さんは十年前に『ターミナルから荒れ地へ』という本を出していますし、他にも多くの方が同じような指摘をされていますよね。どこかでアメリカに係わっていれば、あるいはアメリカに住んでいる人が書くものなら、どんなものもアメリカ文学と言っていいとそのように考えていました。
ところが、その落とし穴に嵌ったのが二年前のことです。ハワイで生まれ育った作家、カワイ・ストロング・ウォッシュバーンのSharks in the Time of Saviors(2020)を翻訳する際に(『サメと救世主』)、ハワイ大学の先生に「私はハワイ文学に関心があります」と言ったところ、咎められたんです。ハワイ文学とは、ハワイ人あるいはカナカマオリといった、人種的にハワイの血が流れている人がハワイ語で書いたものであって、あなたが訳そうとしているのは、ハワイに暮らしたことがある人のハワイについての本ですよ、と。
そのハワイ大学の先生は、「ローカル」と呼ばれる何世代もハワイに暮らしてきた日系移民で、ハワイ人の同盟者、アライとして自分は批評をしているのだと。自分の立場と自分が論じる文化や文学との関係性を明確に持っておられました。それに対して私は、自分の立場の曖昧さについて考えさせられたわけです。アメリカ文学のすぐそばにはハワイ文学のように、誰が何について語るかがとても大切で、明確な定義を持つ世界もあるんですね。
藤井 僕が研究を始めた頃に対象としていたのは一九八〇年代、九〇年代の文学ですが、その時代に、いわゆるアメリカ的なアメリカ文学はピークを迎えたのだと思います。その当時、中心的に活躍したドン・デリーロやリチャード・パワーズ、ウィリアム・T・ヴォルマンといった白人男性作家たちは、アメリカとはいかなるものなのかを、自分たちなりに懸命に探ろうとした書き手たちでした。
お二人のおっしゃるように、その後に出てきた作家たちからは、アメリカの影が薄れてきています。それをポストアポカリプスSFの視点で論じたのが『ターミナルから荒地へ』でした。
では白人男性作家の関心はどう変化してきたのか。私が翻訳してきた作家を見ても、デニス・ジョンソンという、アメリカと暴力の結びつきを描く作家から、暴力にはこだわるけれどアメリカにはこだわらないアンソニー・ドーアへと、中心的なテーマが変わってきている気がするのです。
ジョンソンにとって暴力は、アメリカが業として抱え込んできたものであり同時に、アメリカ人たる彼自身が抱え込んでいる抑えがたき衝動ともセットになっています。
去年アカデミー賞の作品賞や撮影賞にノミネートされたデニス・ジョンソン原作の『トレイン・ドリームズ』は、映像作品としても非常に優れているのですが、今から一〇〇年以上前のアイダホの北部いわゆるルーラル・ウエスト(西部の田舎)で、鉄道敷設が行われている。そこで白人労働者たちが、中国から来た移民労働者の一人を殺そうとする場面から始まるのです。西部開拓によって自然が破壊され征服されていく、白人文明は暴力を抱え込みながらアメリカ中に根を張っていったということを、描き出す作品です。
一方アンソニー・ドーアは、暴力は描きますが、アメリカ内部に抱えられたものというより、人間の根底にあるものとして、普遍的な描き方をしています。印象深いのは、ドーアは世界中どの土地にも同じようなドラマが展開していると見ていること。同じようなメタファーで、アメリカのデトロイトもドイツの工業都市も描きます。ドーアの小説では全く関係のない別の土地に、必然的な一致が生まれてくるんです。作家が世界各地へ想像力で旅をして、そこに生きる人のドラマを描く。そこには、人種や国籍が違っても人間の本質はそう変わらないだろうという信念あるいは期待があるのだと思います。求心的にアメリカに還ってくるのではなく、むしろ拡散していく物語が、ドーアには多いのです。
ただ意地悪な見方をすれば、作者が外からある土地の住民たちを自分の好きなように動かし、物語に仕立てる、そういう構造に陥る可能性もあるのではないかと、そのことはずっと気になっています。
第二期トランプ政権では、世界中の土地を手に入れてリゾート開発をしていくという傾向が見られます。少しの伝統食や芸能をスパイスに、同じディベロッパーが現地に入っていくわけです。現在のアメリカ文学が、そうした思考と本質的にどれぐらい違うのか。
曖昧になった文学の境界線を、この先引き直すことはたぶんないでしょう。そのときに、異なる土地土地をどのように描き、同時に結んでいくことができるのか。そのことを考える段階に現在の文学は来ていると思っています。
松田 でもトランプ自身は線引きをしたいんですよね。リゾート開発の一方には、関税や不法移民に対する政策もあって、各地にスケールダウンしたアメリカを生み出そうという意図が見えます。つまり強力なアメリカを取り戻すというオブセッションが根底にあるわけです。
そして最近のアメリカの作家は、大学の創作科で体系的にライティングを学び、技術的な文章力と、アメリカという国がどういう物語を欲しがっているかがわかっている。ボーダレスに見えるアメリカ文学を、帝国主義の拡大と捉えることもできるわけです。
べトナム生まれのアメリカ人作家ヴィエト・タン・ウェンは、デビュー小説『シンパサイザー』(The Sympathizer、2015)でベトナム戦争を描き、ピュリッツァー賞を含む多くの文学賞に輝いています。その彼が昨年、ウェブメディアの「Literary Hub」に、「ほとんどのアメリカ文学は帝国主義の文学だ」と書き、アメリカ文学界に一石を投じました。ごく新しいアメリカ文学の主流となる作品は、アメリカの覇権という現実を描いていないと。たとえばパレスチナに関する文学作品がタイムリーにアメリカで出版されないのは、アメリカの出版業界やアカデミックな場に、イスラエルの力学が働いているためだとも考えられます。
藤井 ヴィエト・タン・ウェンのエッセイは、僕もずっと引っかかっています。これまで、アメリカ国内の不正義なり格差なりを追究する作品がアメリカ文学の王道だと思い、読んできました。でもウェンのエッセイによれば、内部批判が可能な風通しのよい文化である、という対外アピールとして文学が使われている。文学は帝国をうまく回すための、ソフトパワーとして回収されかねないのだと。
また、ご指摘の通りトランプ2.0では、国民国家的なところで境界線を引き直し、製造業をいかにアメリカ国内に取り戻すかそのために関税をどんどんかけるという政策が行われています。しかしその一方、トランプのビジネスとは、基本的にグローバル企業によるもので、政権中枢にいる人々は、グローバルビジネスをいかに推進するかを考えている。つまり現在のアメリカ政治は、傍から見るとどのように折り合いがつくのかというようなものが、ごちゃっと共存している状態だと思うんです。
松田 確かにそうですね。そして、先ほど挙げたアラメディーンとワシントンは、アメリカの外の地域を舞台にしている物語だというだけでなく、どちらも主人公がゲイの男性です。アメリカが舞台でないからこそ、トランスジェンダーや同性愛の話を書くことができる。国外を舞台にしたアメリカ文学は、トランプの政策に対する皮肉と見ることもできるのではないか。トランプは線引きをしていくけれど、文学では、様々な世界を舞台にした作品によって、ボーダレスな豊かさが生み出されているのかもしれない。そうした二面性が現在のアメリカ文学にはあるように思います。
日野原 お二人のお話を聞いて思い浮かべたのは、アメリカの帝国的な枠組みの、外に出ることを試みる人たちが、世界各地にいるのではないかということです。これも近年関心を持っているハワイの話になりますが、キャンデス・フジカネのMapping Abundance for a Planetary Future(2021)というハワイ文学の研究書は、「モオレロ」というハワイ語の物語の中に、グローバルな資本主義やアメリカ帝国主義に抵抗する鍵を探るという発想で書かれています。参照されるのは、英語文学やアメリカ文学の枠組みに収まらない、はるか昔から引き継がれてきたハワイ語の口頭伝承や物語です。そこには富を占有せずにシェアし合う姿勢や、旧来の自然環境に基づいた世界の捉え方があります。帝国の外でそれに呼応するものを参照し帝国主義に抵抗する鍵を探そうと試みるのです。
ロビン・ウォール・キマラーという、ポタワトミ族の血を引く環境生物学者の『植物に学ぶギフトエコノミー』(The Serviceberry:Abun―dance and Reciproc―ity in the Natural World、2024)も、資本主義の外部にあるアバンダンスについて書かれた本です。他にジェイコブ・グアンゾンの小説、Abundance(2021)があり、「アバンダンス」は日本においても豊かさを考えるキーワードになるのではないかと注目しています。
帝国主義とはつまり、ボーダーを越えてアメリカの暴力が各地に偏在している状況だと言えます。ハワイに暮らす韓国系の作家ジョセフ・ハンはNuclear Family(2022)で、帝国主義の姿を、アメリカを登場させずに描いています。ハワイについては、人々が暮らす地域に軍事基地があることや、資本主義が推し進められる中で貧富の格差が生まれている状況を、韓国は南北に分断された歴史が、グアムにもアメリカによる軍事化の暴力の痕跡が探られ、それぞれの土地を繫ぐことで、アメリカが浮かび上がる作品です。
日野原 ストーリーも面白くて、北朝鮮で生まれた男が韓国で死んで幽霊になり、霊体ならば北朝鮮に戻って家族に会えるのではないかと、軍事境界線を越えようとするのですが、そこには霊を阻む透明な壁があるんです。ハワイに住む孫が、韓国に英語を教えに戻ったときに、男は孫に取り付いて境界線を越えようとします。護衛の兵の隙をかいくぐり、あともう少しで国境を越える、というところで転んでしまう。その結果、男の魂は透明な壁に同化してしまい、南からも北からも、離れ離れになった家族への声を聴き続けることになる。そんな話です。
松田 面白いですね。私は韓国系の作家では、スーザン・チョイのFlashlight(2025)を面白く読みました。それ以外にも、このところアジア系アメリカ文学に勢いを感じています。二〇一七年に出版されたミン・ジン・リーの『パチンコ』(Pachinko)は世界的な話題となり、日本でも二〇二〇年に翻訳が刊行されましたが、Flashlightも同じく在日コリアンがテーマです。
一九七〇年代の日本の海岸で、在日コリアン二世の男性が失踪する事件から始まります。残された家族の視点を交えながら、日韓併合期、第二次世界大戦、冷戦期と家族の歴史が繙かれていきます。両親は北朝鮮へ「帰還」し、そして彼はアメリカに移住して家族を築きます。
面白く読んだのですが、少し結末が引っかかるんですよね。物語の過程では、日本の植民地支配や、アメリカの軍事支配への批判も描かれていますが、結末は北朝鮮に集約され、アメリカ視点のバイアスがかかっているようにも感じました。
もう一作、これも韓国系アメリカ人の作家エド・パークのSame Bed Different Dreams(2023)。原書でも五〇〇ページ以上ある長編で、二〇世紀の朝鮮半島を、デリーロやピンチョンを思わせるポストモダン小説的に創造しています。
興味深い作品ですがやはり気になるのは、そのように長い歴史を扱いながら、一九七〇年代から八〇年代の韓国の軍事独裁政権や民主化運動の歴史が、意外なほど前景化されていない。語られる歴史の不均一さが興味深いと思いました。
ジャンルも描く世界も、アメリカ文学の多様性は広がっています。一方でソフトパワーとしての文学が、どのように政治的に機能しているのかが気になります。
先ほどのアラメディーンも、イスラエルによる侵攻の現実と重ねて読むことができる一方、若くして故郷を離れ、アメリカで執筆活動を行う作家が書いたレバノンの物語が、現地に生きる人々の記憶と、どこまで重なるのか、そのことを考えてしまうんです。
藤井 お二人のお話に触発されつつ、僕も韓国系のアメリカ文学を挙げてみます。最近読んだのは、ポール・ユーンの作品です。祖父が北朝鮮から韓国へ難民として逃れてきて、父親は韓国からアメリカに移住し、ユーン本人はアメリカ生まれです。Run Me to Earth(2020)では、一九六九年のラオスの内戦から物語が始まります。韓国系の人物もアメリカ人も出てこない。なぜ韓国系アメリカ人作家が、ラオスの内戦を正面から描くのか。それを考えると、朝鮮半島にもラオスにも共通する、アメリカの暴力の爪痕に至るわけです。
物語の中心となるのはラオスの三人の孤児です。ラオスの内戦は王政と共産主義勢力との争いで、その裏では秘密裡にアメリカが動いていました。王政側の支配地域にある野戦病院で助手として働いていた孤児たちは、米軍撤退により国外退避を試みます。しかし一人は退避中に事故で亡くなり、もう一人は社会主義国になったラオスで再教育収容所に入れられてしまう。逃げおおせた一人は、スペインの街に落ち着きます。その人物が自分の過去と折り合いをつけられるかどうか、というところに物語は収束していきます。
先ほど松田さんが指摘されましたが、この小説にも、抜け落ちるものはあります。再教育収容所に入れられた一人は、七年経って解放され、かつての野戦病院に戻る。そこで、もう誰もいないのに、モップをかける仕草を繰り返す男性と出会うのです。それはエピソードとして語られるものの、ストーリーには有機的に結びつきません。取り残された人は、過去と折り合いをつけることなどできない。この小説ではおそらく意識的に、取り残された人を放置しているのです。
藤井 こうした物語を読むにつけ気になるのは、英語で書かれることの意味です。日野原さんの話されたジョゼフ・ハーンの小説も、魅力的なプロットだと伺いながら、孫とおじいさんとは話す言語が違うのだろうと、そこが気になるのです。
のちの世代が、帝国主義に蹂躙された土地の記憶を書こうとするときに、当事者世代と使う言語が違ってくる。そのことを作家が意識すればするほど、数世代前の人や現地の人の記憶を、自分が代弁していいのかという問いが生まれ、外部の人間として書くことを選べば、語りの視点はマジョリティに近づいていく。
パキスタン生まれアメリカ育ちの作家、モーシン・ハミットの『西への出口』(Exit West、2017)の翻訳を担当しましたが、この作品は、イスラム圏のある国で内戦が激しくなり、若い男女が国外に逃走する、その旅路を追う筋書きです。三人称で書かれるのですが、その視点は、時にリゾートホテルの監視カメラのものになり、時に小型監視ドローンのものになり、そこに映る二人の姿を描くのです。語りの視点は難民や移民を代弁するものでなく、書き手とともに読者も外からの視点で見つめることになる。ある種の共犯関係が意識させられます。
そうした葛藤は、多くの作家たちに少なからず共通することなのではないかと思います。松田さんが話されたように、非英語圏出身でも、先進国の創作科というシステムの中で作家として育てられたとき、グローバルサウスをどこまで代弁することができるのか。どの視点から何を描けばいいのかという難しさが、様々な形をとって現れてきているのではないかと思うのです。
何かを描こうとすればするほど、逆に問いがわいてくるというような状況が、特に移民系の作家たちの間に目立つ気がします。自分自身が書くとはどういうことなのかという問いが、時にメタフィクションの形を取り、作品化されるのです。
松田 ブラック・ファティーグ(人種差別を受ける黒人たちの疲弊)も、ここ数年、よく聞くようになった言葉ですよね。全米図書賞とピュリツァー賞を受賞した、パーシヴァル・エヴェレットの『ジェームズ』(James、2024)では、主人公は白人に対しては黒人英語を話してみせながら、裏では家族たちと標準英語を話している。二〇二一年に全米図書賞を受賞したジェイソン・モットのHell of a Bookも、黒人らしく振る舞いたくないと考える黒人作家が主人公です。
マット・ジョンソンのPym(2011)では、大学の講師である主人公がその冒頭で、黒人だからといって黒人文学を教えたくない、ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』をはじめとする白人の小説を教えさせてくれ、と訴えます。いずれも黒人たちを疲弊させるアメリカ社会のあり方をコミカルかつ風刺的に描く作品です。
そして、日系アメリカ人のケイティ・キタムラが書いたAudition(2025)に出てくるのは白人だけです。舞台はニューヨークで、主人公は女優。ある日、見ず知らずの人から、あなたの息子ですと言われるけれど、自分に息子などいない。ところが小説の後半では、その人が息子になっている。人種ではなく、母、女優、息子といった「役割」について考えさせる小説です。
一昔前であれば、黒人作家は差別を是正するための小説を書かなければならないとか、アジア系作家ならば抑え込まれてきた暴力の現状を暴かなければ意味がないという意識があった。でも今は、差別問題よりもアイデンティティとはそもそも何なのか、そのことを考えさせるような話が目につきます。
藤井 今年のゴールデンウィークに、台湾へ行きました。台中にある東海大學構内にはルース・チャペル(路思義教堂)という一九六三年に建立された建物があります。造ったのは雑誌『TIME』や『LIFE』などのオーナーであったヘンリー・ルースです。この人は一九四一年に『LIFE』の論説で、「アメリカン・センチュリー」と題し、アメリカは自分たちの「理想」を世界に広めていかねばならないと、主張しました。彼が中国で宣教師として活動した父のため、建てたのがこのチャペルです。
なぜ中国ではないのかというと、戦後共産主義政権が発足したのを機に台湾に移ったということでした。つまりアメリカ人がチャペルを建立するということは、そこが反共産主義戦略の最前線であるという宣言にもなるということなのです。
翻り、台湾でアメリカ文学を教えるとはどういう意味を持つのだろうかと考えました。あるいは韓国でアメリカ文学を研究するとは何なのか。それぞれの社会の成り立ちに、アメリカの存在が重くのしかかる中で、アメリカ文学を研究してきたことの意味。当然、日本でアメリカ文学を研究することへの問いもまた、自分の中に大きくなっています。
日野原 私も、なぜ日本でアメリカ文学を研究するのかについては、ずっと考え続けているのですが、もっと手前にある具体的な理由としては、英語への関心があります。英語は自分にとって他なる言語であり、アメリカ文学の書き手の中にも、英語が他なる言語である作家は多くいます。その中で英語がどのように変質していくのか、英語をどのように想像的に作り変えながら、作品が書かれていくのか。クレオールやピジンのように、英語自体が現地の言葉や文化に触れて変容していく、そういう状況が作中に表れてくることに興味があるんです。
たとえばミーガン・カマレイ・カキモトという、カナカマオリの血を引く日系ハワイ人の作家は、Every Drop Is a Man's Nightmare(2023)という、英語だけでなくハワイ語もたくさん出てくる短編小説集を出しています。現代のハワイを舞台に、植民地化の記憶やハワイ先住民族とのミックスの女性のアイデンティティについて、ハワイの伝説やマジックリアリズムに包み込まれて描かれます。ハワイ大学が作っている「Wehewehe Wikiwiki」というハワイ語のオンライン辞書を引きながら、一つ一つ丁寧に読み解いていくのが純粋に楽しいんです。
英語がどんどん変質していくさまを、作品を通して追えること。それを手助けしてくれるツールがあることも、研究者として幸せな状況だと感じています。
藤井 先ほど、松田さんがケイティ・キタムラを挙げられましたが、僕もIntimacies(2021)という別作品を最近読みました。主人公は日系アメリカ人の女性ですが、舞台はハーグの国際司法裁判所で、戦争犯罪の裁判で通訳を務めることになるのです。
彼女は通訳をすることで二つのコミュニティのどちらにも片足がかかりながら、どちらからも他なるものとみなされる。何系だとか、何人だという感覚が希薄で、自分が何者なのか分からなくなっている。その辺りは『オーディション』とも共通する特徴なのではないかと想像しています。
翻訳をするというのも似たところがあって、自分が境界線のどちらに属しているのか、むしろ曖昧さからスタートしてどこに向かうのかを、自分自身も問われている気がしています。
もう一つ、これも自分自身に跳ね返ってくる問いですが、物語の中で、証言者の語るジュラ語は、まずフランス語に訳され、その後英語へと重訳されます。そのフランス語から英語への翻訳を主人公が担当するのですが、どこまで忠実にジュラ語は英語に変換できているのか、その問題が生じてくるのです。
しかしながら、いくら遠くにあろうとも、英語という土俵に乗らなければ、存在を認めてもらうことすらおぼつかない。
ガザ・イスラーム大学で文学を教えていたリフアト・アルアライールが、二〇一一年に発表した“If I must die ”という詩は、二〇二三年以降のイスラエルへの抗議活動の中で、世界中で暗唱されるようになりました。アルアライールがこの詩をアラビア語で書いていても読者には届かなかったでしょう。
ここには現地の言葉を英語へ包摂することの暴力性と、言語間の不均衡があると同時に、逆利用の可能性や、実践の場での英語のピジン化も、無視できない試みとしてあるだろうと思うのです。
松田 イスラエルとパレスチナについて、現在起きていることをタイムリーに描く作品をご存じでしょうか。
藤井 僕は知らないです。
日野原 私も思い浮かびません。
藤井 パレスチナ系英国人イザベラ・ハンマードのThe Parisian(2019)や、今年の全米図書賞のフィクション部門にノミネートされた、パレスチナ系の作家ハンナ・リリス・アッサディのParadiso 17は、どちらも、パレスチナという地域で数世代にわたって、どういう時が流れてきたのか。長いスパンでパレスチナを語る小説だったと思います。今まさに何が起きているかに集中するジャーナリズムに対し、文学は補完的な役割を果たしているのかもしれませんね。
松田 私は博士論文で太平洋戦争とアメリカ文学の関係をテーマにしたのですが、ノーマン・メイラーのThe Naked and the Dead(『裸者と死者』)は、終戦から三年後の一九四八年に刊行されベストセラーになっています。もちろん時代によって、文学やメディアの役割が変わるのは当然ですが、ガザへの侵攻から三年経ってもアメリカの作家がまだガザについて書いているように思えず、気になって伺いたいと思ったのです。
最近読んだ、ベトナム系の作家ケヴィン・ウェンのMy Documents(2025)では、ベトナム系アメリカ人がアメリカでテロを起こしたことで、国家政策としてベトナム系アメリカ人が大規模に強制収容所に送られるという、ディストピア的な世界が描かれています。ウェンは第二次世界大戦時に全く同じ目に遭った日系アメリカ人の歴史に関する資料を調べて書いたそうです。作品が出たのは二〇二五年ですが、書きはじめたのはトランプ1.0の時代からだと言います。確かに、ある種の小説を書くのには、時間がかかるものなのでしょうね。
現在のアメリカで、移民・税関捜査局(ICE)に不法移民として拘束される人の数が急増している事象があり、ウェンの描いたディストピアが現実を映しているかに見えるのは、ゾッとするような符合ですね。
日野原 私は最近、アメリカに無数にある、ZINEに興味を持っています。小説というきちんとした形で出版されるよりも早く、様々な状況に応答できるメディアとして、面白い素材だと思うんです。そもそもZINEに関心を持ったきっかけは、モナ・アワドの『ファットガールをめぐる13の物語』(13 Ways of Looking at a Fat Girl、2016)です。この本には、「ボディポジティブ」や「ファットアクセプタンス(肥満受容)」という運動に対し、主人公がその理想と現実の中で葛藤する姿が描かれています。そもそもそうした運動は「身体の医療化(Medical―ization)」やダイエット産業といったシステムへの批判として起こりました。その流れの中で、対抗文化としての様々なZINEが、活発に生み出された時代があったのです。
まもなく刊行になりますが、ドン・デリーロのデビュー作Americana(1971)を翻訳しました(『アメリカーナ』)。これは非常に込み入った物語ですが、ひとことで言うと、アメリカという姿のないものを捉えようとしている作品です。
その中で怪しい地下ラジオのDJが数ページに亘って語るのが興味深いんです。たとえばこんなセリフがあります。「アメリカ全土が不眠症であったこの百年分のカフェインの残りかすみたいなやつらのほぼ全員を魅了してた」。大手メディアや商業出版物が拾わない「声」を、地下ラジオや地下出版が拾ってきたことが、この小説の一部分で紹介されています。今まで省みられなかった文化の中に、可能性が眠っているのではないか、そんなことも思います。
松田 今年の日本アメリカ文学会では、ハーマン・メルヴィルが中心的なテーマですね。言わずもがな十九世紀アメリカ文学を代表する作家ですが、前期授業で「バートルビー」を扱ったところ、とてもウケが良かったんです。あの不条理な作品を、現代の学生たちも楽しんでくれるのかとうれしい驚きでした。
日野原 「バートルビー」は学生が好きですよね。なぜなのかわかりませんが。バイト先などで仕事を押し付けられるようなときに、ひるまず拒む姿勢に、憧れるのか。
藤井 村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の英訳には、「バートルビー」からのフレーズが紛れ込んでいるんです。あの有名なセリフも形を変えて出てくるし、バートルビーの前職場のデッドレターズオフィスも、原文にはないのに英訳版に出てきます。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が翻訳された当初は、アメリカ文学の古典との関係性を演出しておく方が、手に取られる時代だったのかなと思います。それから三〇年以上経った今、日本文学が英訳されるときにはむしろ、日本語の原文のまま、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』は、「oshi」と書かれるし、村田沙耶香の『コンビニ人間』の「いらっしゃいませ」という挨拶も、そのままローマ字表記で書かれています。
翻訳に対する感覚もだいぶ変わってきたように思います。数年前のThe Best American Short Storiesの目次を確認したら、約半分が英語以外の言語からの英訳で、その多さに驚きました。
松田 My Documentsも、藤井さんの翻訳されたリン・マーの『断絶』(Severance、2018)、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの『チェーンギャング・オールスターズ』(Chain-Gang All-Stars、2023)も、最近ディストピア的な小説が目につくのですが、ディストピアを描くということは、アメリカに対する批判になっているわけですよね。
日本のアメリカ文学研究者としては、「バートルビー」のようなアメリカのリアリティを反映する作品を見つつ、同時に『白鯨』のようなトランスナショナルで多様な世界のあり方を提示する作品も、気にする必要があるだろうと思っています。
藤井 現在、オーシャン・ヴオンの二冊目の小説The Emperor of Gladness(2015)の翻訳に取り組んでいます。この作家は、ベトナムで生まれ、幼少期に母親に連れられてコネチカットに移住したバックグラウンドを持ち、詩人としてデビューした後、小説一作目の『地上で僕らはつかの間きらめく』(On Earth We're Briefly Gorgeous、2019)は世界的なベストセラーになりました。
主人公はベトナム生まれの少年で、シングルマザーの母親にメディカルスクールに合格したと噓をついて家を出て、いとこのツテで、ファストフード店でひたすら働いている。このいとこの中では、ベトナムにおける北と南の戦争と、合衆国における北と南の戦争、二つの内戦の記憶が未整理なまま接続しています。
一方主人公が身を寄せることになるおばあさんは、リトアニア出身の移民で、彼女の中でも、ドイツ軍占領下のリトアニアの戦争の記憶と、二〇〇九年、オバマ政権下の現在進行形のアメリカ戦争の記憶が混ざり合っている。
松田さんの紹介されたMy Documentsでも、ベトナム人の経験と日系の記憶が合流されるわけですよね。そうしたクロスオーバーが様々なレベルで発生するとき、記憶の境界線も曖昧になっているのでしょう。特定のグループが特定の記憶を持ち続けるのではなく、混ざり合ったり重なり合ったり、その先にどういう共同体が生まれてくるのか。それが今、一番、知りたいところです。
松田 文学の話はいくらでも続けられますね。
日野原 また機会があったら、続きを話しましょう(笑)。 (おわり)
★ひのはら・けい=大東文化大学准教授・米文学。訳書に『アメリカーナ』(ドン・デリーロ著)『サメと救世主』(カワイ・ストロング・ウォッシュバーン著)など。
★まつだ・たくや=神戸市外国語大学准教授・米文学。訳書に『虹の女神が涙したとき』(セシリア・マンゲラ・ブレイナード著)など。
★ふじい・ひかる=東京大学准教授・米文学。訳書に『天空の都の物語』(アンソニー・ドーア著)『物語ることの反撃』(リフアト・アルアライール編)など。
