2026/02/06号 2面

匂いに呼ばれて

関口涼子著『匂いに呼ばれて』を読む(松井茂)
関口 涼子著『匂いに呼ばれて』を読む 松井 茂  わりと長いこと──二〇世紀末頃からだから──三十年近く、見えない世界情勢に関与する秘密結社のようなコミュニティの存在を信じている。「世界情勢」といっても政治や経済のそれで無く、「アート」をめぐるそれ、なのだ。急いで付け加えると、それは美術館業界であったり、アートマーケットとも関係無く、超国家的で、日常生活には関係しないが、人生の総体においては生死に係わるコミュニティである。  その結社への入口は、自分のために書かれたような詩、あるいは音楽や美術、アート現象全般の中に見出される。大体の場合、書籍や雑誌、録音物、テレビといった日常のメディア上に設置されていた。ついでに言うと、ものすごくベストセラーになったり、大ヒットしたりはせず、高視聴率になったり、品切れや返却待ちにもならない。  なぜ「結社」などと断ったのかと言えば、自分に差し向けられたと思しき作品に惹かれると、その主や関係者からなんらかのコンタクトがあり、当人に出会ってしまうのだ。最初はそんなオカルトじみたことを、と思っていたのだが、何人かのキーパーソンからの通信や様々な指示をうけることが続き、五年、十年と経つうちに、自分はこの結社でいまや中堅くらいにいるのではないかと思っている。  そんな二〇二五年九月。僕は、関口涼子とヴェネチアで待ち合わせ、初めて対面した。関口は出会ってすぐ、ヴェネチアの「匂い」について話しはじめた。端的にいうと「臭いよね」。しかしそれがこの街のクセになる。もはや自分は懐かしいのだ、と。さらにこの街の食べ物はそんな美味しくない。一流じゃない。それがイイ、とも言う。短期の滞在者は夢見心地で通り過ぎてしまう。それではダメなのだ。多くの観光客は、ちゃんと『匂いに呼ばれて』いない。この点に釘を刺す。僕はかろうじて及第らしい。  『匂いに〜』が出てこないじゃないかと思われる読者もいるかもしれないけれど、この文章の初めから、僕はこの本の感想を書いている。そして、僕はこの本を読み始めて「ああ、やっぱり」と、見えない世界に関与する結社の存在を確信しているのだ。関口は、おそらく僕よりはるかに上級の構成員であり、教え諭すように「言葉にできないことは無いと思う」と語る。そりゃ、複数の言語を司る関口の語彙や文法の手練手管は、単一言語話者の僕の倍掛ける累乗みたいなことになるはずだから、当然だよとか思う。  閑話休題。ヴェネチアでは、二〇世紀の大作曲家、ルイジ・ノーノの未亡人に会いに行く手筈が整っていて、彼女はシェーンベルクの娘であり、僕は完全にその場の雰囲気に舞い上がっていた。「これはやばいです。歴史に触っていますよ」と蒼ざめる。関口は「言葉にできないことは無い」と繰り返す。うちの結社の使命は、世界に極所的に存在するこういった濃厚な雰囲気、それが要するに「アート」であり、『匂いに〜』で言うところの「香り」なのだが、それを言語に変換して他言語の国へと運び、新たな構成員獲得、版図拡大の役割を担っているのだと諭す。「あんた、しっかりしなさいよ」という意味のことを言われている。  結社は「アート」をばらまくテロ集団のようでもあり、サンタクロースのようでもある。一般市民には気づかれないし、害を及ぼしてはいないだろう。つまり僕としては、『読書人』を手に取るような一般人とはすこしズレた方々に、『匂いに〜』のどこか、自分に向けられて書かれていると思える部分が含まれていまいか、至急調査していただきたいのだ。  例えば僕にとっては、「「デイト・ペインティング」シリーズには匂いがあるだろうか」という一文は、次なる指令に係わる暗号鍵であることが間違いないのだ。  愈々カルト宗教の勧誘のようになってきたので、一応あらすじも述べておこう。  目に見えぬ気配を指さし、いまここにあるアートを記述する「彼女」の行為、その痕跡は詩である、以上。  関口を知る読者──僕は約三十年この詩人の読者をしてきた──にとっては、「蒸気の観察」(二〇〇五年)のような感じという説明がわかりやすいかもしれない。度が過ぎた観察は、対象に入りこんで、記述それ自体となって、書籍の紙の質にまで還元される。「本は人間の匂いを吸いこみ、彼女は「本の身体」の香りを嗅ぐ」。(まつい・しげる=詩人・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授・映像メディア学)  ★せきぐち・りょうこ=翻訳家・詩人・作家。フランス語と日本語で創作を行う。二〇一二年フランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを受章。著書に『カタストロフ前夜 パリで3・11を経験すること』、フランス語の著書に『Nagori』など。一九七〇年生。

書籍

書籍名 匂いに呼ばれて
ISBN13 9784065412176
ISBN10 406541217X