2025/07/18号 5面

パリの最後の夜

フィリップ・スーポー著『パリの最後の夜』(野村喜和夫)
パリの最後の夜 フィリップ・スーポー著 野村 喜和夫  今年はアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を公にしてから一〇一年目にあたる。それを記念するように、国書刊行会から「シュルレアリスム叢書」の刊行が開始された。本書、フィリップ・スーポー『パリの最後の夜』はその第一弾。表題作のほかに、「オラス・ピルエルの旅」と「ニック・カーターの死」の二短編を収める。訳者はシュルレアリスム研究の谷昌親で、その訳者解説が恐ろしく充実していることも特筆されてよいだろう。  さてスーポーといえば、ブルトンとともに初めて自動記述を試みた『磁場』(一九一九)の詩人として名高いが、その後、シュルレアリスムの草創期を担ったものの、早い時期にこの運動から除名されてしまう。その理由は、小説を発表したり文芸誌の編集者になったりと、ジャーナリスティックな活動をして文学に対価を求めたためだった。そうしたなかで書かれたのが『パリの最後の夜』である。ブルトンの『ナジャ』、アラゴンの『パリの農夫』とともに、三大シュルレアリスム小説とされる。  だがそもそも、シュルレアリスム小説という言い方は語義矛盾である。ブルトンは小説を嫌悪し、見下していた。それが対価をもたらすからだけではない。言語のシュルレアリスム的使用という観点から見ても、意味の伝達をこととする通常の小説言語は不純なのである。じっさいブルトンは、『ナジャ』を執筆するにあたって、描写的場面はなんと写真に代用させている。  それに比べると『パリの最後の夜』は、一見、はるかに普通の小説に近い。一応犯罪小説的な筋立てはあるし、登場人物もそれらしく動く。語り手の「おれ」はある晩、ジョルジェットという娼婦と出会い、彼女に導かれるように、ある不可解な出来事の現場に遭遇する。以来、その謎の女ジョルジェットの探索が始まるのだが、彼女の周囲には不穏な人物群像が蠢いていることがわかってくる。とりわけ、リーダーのヴォルプという男と、彼女の弟オクターヴの動向に注意を惹かれる。こうしてラスト近く、オクターブをパリ郊外まで追尾すると、倉庫群から、彼が仕掛けたとおぼしい大火災が起こる。さらにその後、失踪しかけたジョルジェットが再び一味の前にあらわれ、彼女の背後には新たな火の手が上がる……。  しかしこれはあくまでも筋立てであって、最後まで読んでも、謎のあらましやそこでのジョルジェットの役割が明らかにされるわけではない。これではフィクションとしていかにも不全だし、スーポーには通俗的な小説を書く能力が欠けていたということにもなろう。いや、犯罪小説を細部にわたってクリアに仕上げるつもりなど最初からなかったのかもしれない。じっさい、自動記述の名残も見え隠れするその文体を読みすすんでいけば、主人公は「おれ」でもなく、謎の女ジョルジェットですらなく、では誰かというと、パリ、より正確にはパリの夜なのである。スーポーはパリの夜を書いたのであり、ジョルジェットはその化身というにすぎない。「夜しか愛さず、毎夜、夜と婚姻を交わしているかのよう」な女。さらには、作者にオブセッションのようにつきまとう偶然という概念もまた、主人公のひとりであるのかもしれず、およそリアリズムとはかけ離れたそんなものを主人公にするという意味において、『パリの最後の夜』は、やはり詩人の書いた小説であり、シュルレアリスム小説という語義矛盾を十全に生きているというほかない。  となると、『パリの最後の夜』は、案外『ナジャ』に近いという気もする。その上で両者の差異を考えてみるのが面白いのではないか。たとえば同じ謎の女が登場するにしても、無意識が支配する『ナジャ』の世界は深い。これに対して『パリの最後の夜』は、ひたすら偶然が偶然として走り回る表面である。前者が統合失調症的なら、後者は発達障害(自閉スペクトラム症)的な世界といえるかもしれないのだ。  蛇足だが、読みながらふと、ヴォルプをリーダーとする一味の設定は、ブルトンとその仲間たちの戯画化ではないか、あたかもシュルレアリスムを除名されたスーポーの意趣返しのように、と思いついたのだが、訳者解説によれば、現にそういう解釈もあるようだ。(谷昌親訳)(のむら・きわお=詩人)  ★フィリップ・スーポー(一八九七―一九九〇)=フランスの詩人・作家・ジャーナリスト。一九一九年ブルトンと自動記述の実験をおこなって『磁場』を執筆し、一九二四年ブルトンが発表する『シュルレアリスム宣言』を待たずに、シュルレアリスムを事実上誕生させた。邦訳に『磁場』『流れのままに』など。

書籍

書籍名 パリの最後の夜
ISBN13 978-4-336-07703-5