2025/11/14号 5面

「デュラス映画のカメラの仕事とは」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)414(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 414 デュラス映画のカメラの仕事とは  JD これまで、映画のカメラマンの仕事が高く評価されることはあまりありませんでした。カメラマンの仕事は、映画に関わる人の間でのみ、その評判が知られています。しかしながら、そうやって評価されるのは、全てのカメラマンではありません。大半のカメラマンは、職業人として、賃金を貰って、それに見合う仕事をしているだけなのです。自分にしかできない仕事を成し遂げているのは、一部のカメラマンに限られているからです。しかしながら……ブリュノ・ニュイッテンに関してですが、彼の特集上映は面白いものだったのでしょうか?  HK 通常の監督ごとの特集と同様に、面白いものでした。アンドレ・テシネやマルグリット・デュラスといった作家の映画からクロード・ベリのような娯楽映画までを扱っていて、それらを比較しながら見ることができました。  JD ニュイッテンのことは昔から知っているので、彼がどのような映画を撮影してきたか、よく知っています。テシネの『海辺のホテル』や『バロッコ』など、七〇年代から八〇年代の作品の撮影をしています。その後のテシネの作品は、レナート・ベルタやカロリーヌ・シャンプティエールといったカメラマンが撮影をしています。彼らは、ゴダールやストローブの撮影もしていました。要するに、フランスにおいて「作家映画」のカメラマンは、それほど多くはないということです。  HK ニュイッテンに関しては、テシネの映画よりもデュラスの映画の方が印象的でした。ニュイッテンが得意とする朝方や夕方の薄暗い無機質な都市の姿が、とても効果的に撮影されており、それが映画に利用されています。  JD なぜならデュラスは、映画のことは何もわかっていなかったので、優秀なスタッフたちに好き勝手をさせたからです。カメラマンからすれば、自分のやりたいことを実現できるので、面白い仕事なのかもしれません。しかし、スタッフに完全に任せてしまうということは、ある意味では、映画監督としての仕事を放棄していることにもなります。映画監督が仕事を放棄している作品は、実にたくさんあります。そうした作品には、映画としてのまとまりが本当にない。映像であったり、脚本であったり――もしくは映画監督の自己愛であったり――、映画を形作る要素の一部だけが主張をしており、何か鼻持ちならないものが感じられる。そのため、最後まで映画を見ることを躊躇わせるのです。  HK 確かに、ニュイッテンの特集においても、彼の映像だけが目立っている映画はありました。B級映画に分類されるものだったので、紹介に来ていた学者ですら、映像のことしか褒めていませんでした。しかし、デュラスの映画に関しては、とてもよくまとまりがあります。  JD デュラスは映画を知らずとも、要求の多い作家だったからです。彼女にとって、映画作りとは自分を見せることだった。自分の書いたテキストを、いかにして映画として見せるかが問題だったのです。最も重要なのは、そのテキストであり、映像などは副次的なものです。郊外の風景やノルマンディーのビーチなど、さほど重要性を持たない風景を見せるだけで十分だった。その映像が意味を持たなければ持たないほど、読み上げられる彼女のテキストが意味を持つことになるからです。だから、優れたカメラマンによって撮影された、優れた無意味な映像が大事であった。その意味において、ニュイッテンの映像は完璧でした。なぜなら彼は、親しみを感じさせながらも、空虚な映像を撮ることに長けていたからです。彼が優れた撮影監督であることは疑いようありません。彼がいなければ、テシネもブノワ・ジャコーも頭角を表すことはできなかった。しかし、私の意見では、それ以上にはなりません。カメラマンを映画の作家と見なして、映画を語ることにはとても大きな困難と危惧があります。  HK いずれしても、デュラスの映画にとっては、カメラマンやスタッフに映画作りを投げ出してしまうことは、良い方向に機能していたと思います。彼女のテキストで問題となっていたのは、不在、距離、声などであったからです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)