2026/01/23号 5面

月光の仕事

月光の仕事 中村 邦生著 長瀬 海  ふつう一人の作家がこれまで発表してきた小説を網羅的に収録した本が伝えるのは、書くという営みにおける成長やスタイルの変容だろう。読まれることを意識して書くうちに文章が磨かれて言葉が鋭くなることもあるし、逆に尖っていた部分が丸くなることもある。そんな変節を眺めながら、どの時期の作品が好きか嫌いか考えるのは読者の自由だ。  しかし、中村邦生が商業誌に書きはじめてからの約三十年間分の作品が詰まった、重々しい一冊を通読して感じるのは、長い時間をくぐり抜けても作者の表現が傷まず、錆びず、言葉の強度もまったく弛んでいない、というふしぎな動かなさなのである。  たとえば、デビュー作「冗談関係のメモリアル」の主人公が、仲間と談笑していたバーのトイレで居合わせたチンピラ風の役者に友人たちを脅すように頼む場面。トイレを出た主人公が突如として都会の風景に埋没していくところで、現実に奇妙なゆがみを生じさせるような作者の描写がひかる。〈水溜まりのように風が滞留している。路地の小さな窪みに、外から来た風が沈んだまま動かない。私は片足を窪みにそっと下ろし、靴で小さな円を描くように風の澱みをかき回してみた。すると風の気配が全身を包んだ〉。  その横に、二〇二二年の長編『ブラック・ノート抄』からの抄録「古文書を発掘した」(原文は横書き、読点はカンマ)の〈鏡面ガラスを張った三井ビルの壁に夕陽が当たり、あたかももうひとつ太陽が生まれたかのように、強い陽射しを街路に放つ。氾濫する夕陽に身を沈めると、光に酔い、昂揚感が身体全体に広がる〉という表現を並べて見て、どうだろう、時間の流れを感じるだろうか。  解説を寄せている柴田元幸が言うように、この作者の魅力はまちがいなく〈風景描写の巧みさ〉にある。最初期の作品にしてその技術は円熟味を感じさせるものとして仕上がっていて、それが中村のなかでこの三十年、ずっと生き続けてきた事実に、小説の才能という神秘を突きつけられた気になるのだ。  中村邦生は一九四六年生まれ。一九九三年に「冗談関係のメモリアル」で文學界新人賞を受賞し、翌年の「ドッグ・ウォーカー」や翌々年の「森への招待」で芥川賞の候補となる。岩波文庫から『生の深みを覗く』や『この愛のゆくえ』といったアンソロジーも出していて、近代文学の世界の案内人のような一面も持ちあわせている。  中村の描写が近代以降の文学的な遺産を受け継いだものであることは、本書を開いて数作品読めばすぐにわかるのだが、その筆致は多くの作品で現実と幻想をシームレスに繫げ、そこに美としての虚構を顕現させてきた。一九九八年の「泣き塾」では、主人公の男が親密な関係となる同じマンションの住人の女性から泣き声を出さない赤子を預かる。彼を連れて散歩をしているとある少女に声をかけられ、彼女の実家が泣き塾なる奇異なスペースを営んでいることを教えられる。  〈楢山公園の森の奥に〉ある〈深い樹々の茂みの中を抜ける道〉。そこを通って主人公がたどり着いた小屋では悲痛な過去を語りながら泣く人々が集まっていた。それは現実の窪みのような場所であり、少女が示した林道は人間が回復するために必要な人生の迂回経路のようなものとして、読者の目には映る。  ほかにも、古井戸の上に家を建てたことが気になり引っ越しを決意した夫が、ゴミ捨て場で拾った小説を読んでいるうちに、虚構のなかに没入する「夜はめぐる」(一九九四年)。あるいは死者とともに新宿の富士塚を登る「黄昏の果て」(二〇〇六年)。どれも中村が得意とする虚実の混淆をとおして、現実は常にフィクションに支えられていることを悟らせる作品だ。  さっきも言ったように、中村の小説にはいつも現実の窪みが用意されている。だからそこに向かうことは、時に「逃避行」のようなニュアンスを帯びる。中年男性が知りあったばかりの若い女性と閉店後のデパートに侵入する「夜に誘われて」(二〇〇一年)はまさに〝いま、ここ〟からの逃走劇として甘美な雰囲気さえも帯びた中編。薄闇に包まれた空間で身を寄せあう二人の間に何かが起きるわけではないが、彼らのその静かな呼吸は、虚こそが圧倒的な現実からの避難を唯一可能にする生の拠り所なのだと気づかせる。  ここまで描写の技術に打ちのめされて読んできたが、三十五作品も並んでいるわけだから、そのすべてを礼賛していては書評に説得力が欠けるだろう。フェアネスを担保するためにあえて言うと、「冗談関係のメモリアル」の男同士の絆に囚われた語り手や「ドッグ・ウォーカー」の犬に平気で粗暴な振る舞いをする主人公はどうも好きにはなれなかった。しかしそれを加味しても、中村の小説はもっと正当な評価のための批評の俎上に挙げられて然るべきだと強く思う。芥川賞の候補になったあともこれだけアグレッシヴに小説を書き続けてきた小説家を、日本の文壇は過小評価していたのではないか。  評者は後期の記憶をめぐる短編小説群も好きだ。幼くして父を亡くしたあとに母と移り住んだ〈母子ホーム〉の回想が繰り返し書かれる。それが作者のなかでどのようにして醸成されたアイディアなのかはわからない。ただ、作中の表現で言えば〈記憶の奥の残り香〉を嗅ぎながら、語り手が過去のおぼろげな風景に包まれる、その濃厚な生の感覚に快い酔いをおぼえる。それでいて現実は奇想に侵食されているのだから、中村の小説からはなかなか抜けだせない。(ながせ・かい=書評家)  ★なかむら・くにお=小説家・大東文化大学名誉教授・英米文学。著書に『転落譚』『幽明譚』『ブラック・ノート抄』『変声譚』など。一九四六年生。

書籍

書籍名 月光の仕事
ISBN13 9784336077998
ISBN10 4336077991