2026/08/28号 5面

陰翳礼讃

〈書評キャンパス〉谷崎潤一郎文・大川裕弘写真『陰翳礼讃』(井波りべか)(5)
書評キャンパス 谷崎潤一郎文・大川裕弘写真『陰翳礼讃』 井波 りべか  世界が色づいていく感覚、見えていなかったものが見えるようになる感覚、世界の美しさを知る感覚。書物を嗜む理由の一つを、「視野が広がるから」と筆者は考えるが、そのことをとてつもなく実感させてくれる本に十代のうちに出合えたことは、僥倖だったと思う。   『陰翳礼讃』の初出は一九三三年。谷崎の古典回帰の時代と言われることもある時期の、海外でも広く読まれる名作である。谷崎といえば、『刺青』『細雪』『痴人の愛』など、小説作品が広く知られているが、本書は谷崎が日本文化を論じた随筆評論である。その表現はむろん小説とはことなるが、流れるように美しい語り口は健在で、読者は大いに魅了されることであろう。  『陰翳礼讃』では日本の建築や工芸、食文化、伝統芸能などの西洋との比較、あるいは昔と比べて変わってしまった点などが、鋭い観察眼によって語られている。中でも、特に心に深く刻まれた一節を紹介する。 日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたたく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。  燭台による薄明りの中で、谷崎は漆器の美しさを発見する。そこから、蒔絵の装飾は明るい所で見るとケバケバしいが、蝋燭の灯のもとでは重々しくなること、漆器の椀に包まれた汁物を口に含むときに感じる神秘的な闇や器の重み、羊羹や和菓子の瞑想的な深い色、それらが暗闇と調和する様子がじっくりと描写されている。読むだけで漆器に触れたような、羊羹を食べたような気になる、とは少し言い過ぎかもしれないが、ともかく谷崎の世界に引き込まれるような文章をぜひ味わってほしい。他にも、紙や和服、女性表象など、魅力的な評論が多い。  そして触れるべき本書の特徴は、大川裕弘氏による写真集でもあることだ。光と影の映し出し方が秀逸で、特に食べ物の写真にはその香りがただよってくるような魅力がある。  谷崎の時代であれば、日本家屋に住み、和食中心の生活をし、伝統芸能を嗜むことも身近であったかもしれないが、現代では中々そうはいかないことが多い。もちろん、インターネットで調べれば漆器であろうと日本家屋であろうと大量の画像を見ることができる。しかし、いちいち調べるのは手間である上に、いささか情緒に欠け、本への没入感が失われかねない。そんな憂いを消してくれるのがこの本なのである。写真として映し出された陰翳に浸り、読後には、読む前には気づけなかった美しい陰翳の世界が綾を織りなしているはずである。

書籍

書籍名 陰翳礼讃
ISBN13 9784756250124
ISBN10 4756250122